片づけをしていたら、クローゼットの奥から大昔私が綴った「育児日記」が出てきた。
この日記帳は、産院から退院した時にもらったもので、三人の子供全員、同じ病院で
産んだので、同じものが三つある。でも、二人目三人目の子供を出産した後は、幼児
を抱えての日々で、日記を付ける余裕なんてなかったからか、空白だらけ;
長男の日記だけ、詳細にその時の気持ちや様子を綴っているが、二人目の子になると
それが最初の数ページだけになり、
三人目の娘のものなんて可哀想なくらいにほぼ空白(笑)
末娘が小学生の頃、学校で赤ちゃん時代のことを調べてくるように言われてこれを見
た時、かなりショックを受けていたことを憶えている。
後で調べると、殆どの家庭で二番目以下の子供の写真の数が圧倒的に少なかったとい
う事実も判明し、親同士で話題になったこともあった(笑)
それでも初めての子供は親も育児に慣れず、緊張と不安にまみれて子育てしていたこ
とで「やり直せるものならやり直したい」ことも数々あった(笑)のに比べ、二番目
以下の子供たちは親も慣れたせいで「ある程度リラックスして」育てたように思う。
息子は生後二か月から三か月目までの間に、九大病院で入院し手術した。
初めての育児だった上に、この心配が、若かった私の心にのしかかり、それはもう
本当に毎日祈るような気持ちで過ごした。
毎日の尿の量や便の回数をメモに残し、それを病院に報告する日々は、食べ物も喉を
通らず・・。(結局母乳はその間に止まり、その一年後、私は胸に三センチ大のしこりを
発見。これが乳癌でないことが判るまでの日々、私の人生観は大きく変わることとなっ
た)

ようやく退院の日を迎え、やっとの思いで手に入れた「子供との暮らし」に全ての時
間を費やした。
手術したことで、あの当時の私は必要以上に息子の健康に気を遣うようになった。
育児書を読み、出来る限り清潔に気を配り、子供と向き合った。
当時の日記と一緒に、生後4か月目から始めた「離乳食の記録」が残っていた。

一歳前に、襖の取っ手を外して飲みこんでしまった釘。病院のレントゲンに映った釘が
出てくるまで、毎日オムツのうんちを探したっけ(笑)


走り書きのようなメモなので、自分でもよく読めないけど、どうやら熱が出た日のよう↓

この間に「ベビーフード事件」が発覚した。私も、手作りに少しだけ加えていた市販のベビーフード。
それらの製品の幾つかの材料の発芽防止のために「放射線」が「違法照射」されていたことが発覚
したというもの。息子に食べさせたものの幾つかはパッケージを残していた。


私は恐れおののいた。九大で入院中、未だ首も座らぬ息子を膝に抱き、レントゲン室で何度も画像撮影
する際に、「こんなに小さな子に何度も放射線を浴びさせて大丈夫ですか?」と技師に訊いたほど、放
射線の怖さを感じていた私だったから。それを口にするなんて!
幸い、息子の口にした物の中にそれらは無かったけれど、その時の後悔を綴った日記があった。

その後、私が無農薬野菜や出来るだけ安全な食べ物を求めたのは、この事件があったから。
でも、子供は(特に長男は)「こんな草みたいなのは要らん」と突っぱねるようになったけど(苦笑)
戸棚の上に隠した数日分の風邪シロップを工夫して取り、一気飲みして腹痛を訴えた時、
補助を外したばかりの自転車で溝に突っ込み、頭が血だらけになった時、街で転び額に
深い傷を負った時など少なくとも三度以上は救急にタクシーで駆け込んだ。
いずれも夫は会社を出ている時間だったが、どんな時も夫と連絡が取れなかった。
あまりに多くのことがあり、それらの幾つかは忘れてしまっているけど、確かに子育てにより
私は「娘」から「母」になった気がする。
いつの時代も、親は「子供の未来を見ている」けど、「子供はその時を生きる」。
恐らく、食材の安全性など無視して子供好みの味付けをし、子供のご機嫌取りをした方が、
残念だけど「良い親」として子供の記憶に残るのかもしれない。
あの当時大量のお菓子を与えていた夫が、子供たちには「良い父親」だったように。
この日記帳は、産院から退院した時にもらったもので、三人の子供全員、同じ病院で
産んだので、同じものが三つある。でも、二人目三人目の子供を出産した後は、幼児
を抱えての日々で、日記を付ける余裕なんてなかったからか、空白だらけ;
長男の日記だけ、詳細にその時の気持ちや様子を綴っているが、二人目の子になると
それが最初の数ページだけになり、

三人目の娘のものなんて可哀想なくらいにほぼ空白(笑)
末娘が小学生の頃、学校で赤ちゃん時代のことを調べてくるように言われてこれを見
た時、かなりショックを受けていたことを憶えている。
後で調べると、殆どの家庭で二番目以下の子供の写真の数が圧倒的に少なかったとい
う事実も判明し、親同士で話題になったこともあった(笑)
それでも初めての子供は親も育児に慣れず、緊張と不安にまみれて子育てしていたこ
とで「やり直せるものならやり直したい」ことも数々あった(笑)のに比べ、二番目
以下の子供たちは親も慣れたせいで「ある程度リラックスして」育てたように思う。
息子は生後二か月から三か月目までの間に、九大病院で入院し手術した。
初めての育児だった上に、この心配が、若かった私の心にのしかかり、それはもう
本当に毎日祈るような気持ちで過ごした。
毎日の尿の量や便の回数をメモに残し、それを病院に報告する日々は、食べ物も喉を
通らず・・。(結局母乳はその間に止まり、その一年後、私は胸に三センチ大のしこりを
発見。これが乳癌でないことが判るまでの日々、私の人生観は大きく変わることとなっ
た)



ようやく退院の日を迎え、やっとの思いで手に入れた「子供との暮らし」に全ての時
間を費やした。
手術したことで、あの当時の私は必要以上に息子の健康に気を遣うようになった。
育児書を読み、出来る限り清潔に気を配り、子供と向き合った。
当時の日記と一緒に、生後4か月目から始めた「離乳食の記録」が残っていた。


一歳前に、襖の取っ手を外して飲みこんでしまった釘。病院のレントゲンに映った釘が
出てくるまで、毎日オムツのうんちを探したっけ(笑)




走り書きのようなメモなので、自分でもよく読めないけど、どうやら熱が出た日のよう↓


この間に「ベビーフード事件」が発覚した。私も、手作りに少しだけ加えていた市販のベビーフード。
それらの製品の幾つかの材料の発芽防止のために「放射線」が「違法照射」されていたことが発覚
したというもの。息子に食べさせたものの幾つかはパッケージを残していた。




私は恐れおののいた。九大で入院中、未だ首も座らぬ息子を膝に抱き、レントゲン室で何度も画像撮影
する際に、「こんなに小さな子に何度も放射線を浴びさせて大丈夫ですか?」と技師に訊いたほど、放
射線の怖さを感じていた私だったから。それを口にするなんて!
幸い、息子の口にした物の中にそれらは無かったけれど、その時の後悔を綴った日記があった。

その後、私が無農薬野菜や出来るだけ安全な食べ物を求めたのは、この事件があったから。
でも、子供は(特に長男は)「こんな草みたいなのは要らん」と突っぱねるようになったけど(苦笑)
戸棚の上に隠した数日分の風邪シロップを工夫して取り、一気飲みして腹痛を訴えた時、
補助を外したばかりの自転車で溝に突っ込み、頭が血だらけになった時、街で転び額に
深い傷を負った時など少なくとも三度以上は救急にタクシーで駆け込んだ。
いずれも夫は会社を出ている時間だったが、どんな時も夫と連絡が取れなかった。
あまりに多くのことがあり、それらの幾つかは忘れてしまっているけど、確かに子育てにより
私は「娘」から「母」になった気がする。
いつの時代も、親は「子供の未来を見ている」けど、「子供はその時を生きる」。
恐らく、食材の安全性など無視して子供好みの味付けをし、子供のご機嫌取りをした方が、
残念だけど「良い親」として子供の記憶に残るのかもしれない。
あの当時大量のお菓子を与えていた夫が、子供たちには「良い父親」だったように。