「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「八坂神社」(やさかじんじゃ)

2006年09月23日 09時36分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 初春、隣接する知恩院の除夜の鐘を聞きながら八坂神社に初詣。無病息災を祈願すると細縄を買い求め、その細縄の先に神火を頂いて、火が消えぬようにくるくると回しながら家に戻り、その火を種火として火をおこし、お正月の餅を焼き雑煮を作る、という風習が今も続く初春の風物である。八坂神社は京都では三社(石清水八幡宮、賀茂〈上・下〉神社)の1つに数えられており、その由緒と歴史は3社と称されるにふさわしい。

 八坂神社すなわち祇園さんの御祭神は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)、クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)、ヤハシラノミコガミ(八柱神子神)を祀っている。
 日本神話でも知られる、スサノヲノミコトは、ヤマタノオロチ(八岐大蛇=あらゆる災厄)を退治し、クシイナダヒメノミコトを救って、地上に幸いをもたらしたとある。素戔嗚尊は、『古事記』では「須佐之男命」、『日本書紀』では「素戔嗚尊」と表記されており、神話では天照大神の弟神として語られている。

 社伝によれば平安建都(794年)の約150年前、斉明天皇2年(656)と伝えられている。都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3000の分社が日本各地にある。初め「祇園社」「感神院」などと称したが、明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称された。
 平安京建都以前より八坂神社のある東山一帯はひらけた場所で、渡来人であった八坂造(やさかのみやつこ)一族が住したところであった。「八坂の塔」で有名な法観寺も平安京以前の創建で、八坂造の氏寺ではなかったかともいわれている。

 八坂神社を世に有名にしているもう1つの事実は、同社の祭礼である「祇園祭」であろう。
 そもそも祇園祭の始まりは、平安時代のはじめ頃、都に疫病が流行して、多くの人々が死に絶えた。この災厄の発生を政治的に失脚して処刑された人の怨みによる崇りであろうと考え、初めはこの御霊を祀ったようだが怒りは治まらず、より強い神仏が求められた。この怨霊(御霊)を退散せしめることができるのは、素戔嗚尊のような、偉大な神格の神に頼るほかないと、祇園社に祀られているこの神に祈った。
 怨霊は御霊(ごりょう)といい、これを退散させる祭りを御霊会(ごりょうえ)と称し、貞観7年(865)6月7日にも行われたことが「三代実録」に記されており、また「祇園社本縁録」にも祇園社の名が記されている。神泉苑に矛六六本を立て、祇園社から神輿を送ったとされ、これが祇園祭のはじめであるとされている。

 国の重要文化財に指定されている本殿は、かつて別棟であった2つの建造物1本殿と拝殿1とを1つの屋根で覆ったもので、他に類例のない建築様式であることから、「祇園造り」とよばれている。
 本殿の建築についての文献上の初見は、『二十二社註式』所引の承平5年(935)6月15日の太政官符で「神殿五間檜皮葺一宇」「天神、婆利女、八王子」「五間檜皮葺礼堂一宇」とあり、本殿と礼堂(現在の拝殿)が別棟であることが記されている。
 元徳3年(1331)に描かれた同社の古図(国指定重要文化財)に、現在の姿の本殿が描かれており、古図の原本は寛和2年(986)のものであることから、本殿建築が「祇園造り」の様式になったのは、承平5年(935)から寛和2年(986)の間とされている。
 現在の本殿は、明応元年(1492)に再建されたものが正保3年(1646)に焼失したあと、承応2年(1653)10月より工事が始まり、同3年11月に竣功した。

 交通:京阪電車四条駅より徒歩5分、阪急電車河原町駅より徒歩10分。
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