京都大学の近くに在る吉田神社は、京都大学の前身である旧制3高の寮歌「逍遥の歌」の中でも歌われている。
「紅もゆる丘の花 早緑匂ふ岸の色 都の花に嘯けば 月こそかゝれ吉田山」(明治38年)。
当神社は、京都の表鬼門で(裏鬼門は壬生寺)、全国の神々を一堂に祀ってある「太元堂(たいげんどう)」が在ることで古くから京都に人々の信仰があつい。
清和天皇貞観元年4月(859)中納言藤原山蔭(ふじはらやまかげ)が春日の四神を勧請(かんじょう)し、平安京の鎮守神として吉田山に創建したもので、奈良の春日大社、京都西山の大原野神社と共に藤原氏の氏神三社の1つとされた。
永延元年(987)一条天皇の行幸をはじめ正暦2年(991)大社の1に列せられ、堀河天皇嘉承元年(1107)四度官幣に預る等、皇室の崇敬極めて厚く、殊に神職吉田兼倶が吉田神道を創設し、後土御門天皇文明16年(1484年)斎場所(さいじょうしょ)大元宮(だいげんぐう)を造営した。また、後陽成天皇天正18年(1590)勅によりて八神殿を社内後方に奉遷し、吉田兼見奉仕して鎮魂祭(ちんこんさい)を行い、慶長14年(1609)神祇官代として伊勢例幣使(れいへいし)の儀礼を修め、明治四年まで継続したが翌5年八神殿の神璽を宮中神殿へ鎮座した。
末社の神龍社の祭神は大元宮の創始者の従二位卜部兼倶朝臣(うらべかねとも)で、後柏原天皇永正8年2月19日(1511)77歳で死去、同10年2月鎮祭、明治13年末社に定められた。
『徒然なるままに、日暮らし硯に向かいて、心に映りゆく由無し事を、 そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂おしけれ』で知られる「徒然草」の著者である吉田兼好(「卜部兼好・うらべ かねよし」(1283~1350)もこの吉田家の一門。卜部家はその名前の通り、占いにより朝廷に仕えた名家で、兼好の家系は代々吉田神社の神官を務めていた。
兼好が仕えた後宇多天皇は後醍醐天皇の父で、文永の役・弘安の役という国難を亀山上皇・北条時宗とともに乗り切った。
徒然草を世に出した時期は、まさに鎌倉幕府が滅亡への道をたどっていた、乱世であった。当社は兼好の100年後に吉田兼倶が出て独特の吉田神道(唯一神道)を成立させた。
この他、料理の神・山蔭神社、お菓子の神・菓祖神社、海運守護の神・三社、吉田地域の氏神・今宮社、神楽岡地域の氏神・神楽岡社、商売繁盛の神・稲荷社、学問の神・天満宮社などが祀られ、ここだけでさまざまなお願いごとができるほどである。
2月2日から3日間続く吉田神社の節分祭は、吉田神道の創始者・吉田兼倶が室町時代に始めて以来続く伝統ある行事。同社の追儺式は「鬼やらい」とも呼ばれ、2日18時から本殿前で行われる。黄金4ツ目の仮面をつけ盾と矛をもった方相氏が松明などをもった舎人を多数従え、鬼を追いながら境内を3巡する。青・赤・黄の3匹の鬼は見物の子供たちを「ガオー」と驚かしながら逃げるという素朴でユ-モラスな行事。3日午前8時から節分大祭。23時からは本殿前で「火炉祭」が始まり、積みあげられた古札に火が入れられる。この火にあたると1年間無病息災で過ごせるといわれ、終夜賑わう。
所在地:京都市左京区吉田神楽岡町30番地。
交通:京阪電鉄出町柳駅下車、徒歩20分。またはJR京都駅市バス206系統、京大 正門前下車、徒歩5分。
「紅もゆる丘の花 早緑匂ふ岸の色 都の花に嘯けば 月こそかゝれ吉田山」(明治38年)。
当神社は、京都の表鬼門で(裏鬼門は壬生寺)、全国の神々を一堂に祀ってある「太元堂(たいげんどう)」が在ることで古くから京都に人々の信仰があつい。
清和天皇貞観元年4月(859)中納言藤原山蔭(ふじはらやまかげ)が春日の四神を勧請(かんじょう)し、平安京の鎮守神として吉田山に創建したもので、奈良の春日大社、京都西山の大原野神社と共に藤原氏の氏神三社の1つとされた。
永延元年(987)一条天皇の行幸をはじめ正暦2年(991)大社の1に列せられ、堀河天皇嘉承元年(1107)四度官幣に預る等、皇室の崇敬極めて厚く、殊に神職吉田兼倶が吉田神道を創設し、後土御門天皇文明16年(1484年)斎場所(さいじょうしょ)大元宮(だいげんぐう)を造営した。また、後陽成天皇天正18年(1590)勅によりて八神殿を社内後方に奉遷し、吉田兼見奉仕して鎮魂祭(ちんこんさい)を行い、慶長14年(1609)神祇官代として伊勢例幣使(れいへいし)の儀礼を修め、明治四年まで継続したが翌5年八神殿の神璽を宮中神殿へ鎮座した。
末社の神龍社の祭神は大元宮の創始者の従二位卜部兼倶朝臣(うらべかねとも)で、後柏原天皇永正8年2月19日(1511)77歳で死去、同10年2月鎮祭、明治13年末社に定められた。
『徒然なるままに、日暮らし硯に向かいて、心に映りゆく由無し事を、 そこはかとなく書きつくれば、怪しうこそ物狂おしけれ』で知られる「徒然草」の著者である吉田兼好(「卜部兼好・うらべ かねよし」(1283~1350)もこの吉田家の一門。卜部家はその名前の通り、占いにより朝廷に仕えた名家で、兼好の家系は代々吉田神社の神官を務めていた。
兼好が仕えた後宇多天皇は後醍醐天皇の父で、文永の役・弘安の役という国難を亀山上皇・北条時宗とともに乗り切った。
徒然草を世に出した時期は、まさに鎌倉幕府が滅亡への道をたどっていた、乱世であった。当社は兼好の100年後に吉田兼倶が出て独特の吉田神道(唯一神道)を成立させた。
この他、料理の神・山蔭神社、お菓子の神・菓祖神社、海運守護の神・三社、吉田地域の氏神・今宮社、神楽岡地域の氏神・神楽岡社、商売繁盛の神・稲荷社、学問の神・天満宮社などが祀られ、ここだけでさまざまなお願いごとができるほどである。
2月2日から3日間続く吉田神社の節分祭は、吉田神道の創始者・吉田兼倶が室町時代に始めて以来続く伝統ある行事。同社の追儺式は「鬼やらい」とも呼ばれ、2日18時から本殿前で行われる。黄金4ツ目の仮面をつけ盾と矛をもった方相氏が松明などをもった舎人を多数従え、鬼を追いながら境内を3巡する。青・赤・黄の3匹の鬼は見物の子供たちを「ガオー」と驚かしながら逃げるという素朴でユ-モラスな行事。3日午前8時から節分大祭。23時からは本殿前で「火炉祭」が始まり、積みあげられた古札に火が入れられる。この火にあたると1年間無病息災で過ごせるといわれ、終夜賑わう。
所在地:京都市左京区吉田神楽岡町30番地。
交通:京阪電鉄出町柳駅下車、徒歩20分。またはJR京都駅市バス206系統、京大 正門前下車、徒歩5分。