壬生寺は慈覚大師円仁の誕生した聖跡として知られる律宗別格本山で地蔵院、宝幢三昧寺または心性光院と称し、本尊は地蔵菩薩立像で壬生地蔵とも呼ばれ、境内の千体仏塔には千体の地蔵菩薩が螺旋状に並んでいる。
起源は壬生寺縁起によると正歴2年(991年)に三井寺の僧快賢が仏師定朝に三尺の地蔵菩薩像をつくらせ、これを本尊として五条坊門壬生の地に一宇を建立し、寛弘2年(1005)に堂供養を行ったという。その後に白河天皇が訪れて地蔵院の号を与えた。健保元年(1213)に平宗平が現在地に移して伽藍を建立したが焼失したため、宗平の子の政平が再興して地蔵院を改め宝幢三昧寺とした。
正安年間(1299~1302)に円覚十方上人道御が融通大念仏を修し、浄財を募って堂宇を修復した際、大念仏の法要に境内で猿楽を演じたのが、現在の「壬生狂言」の起源といわれている。
地蔵信仰と融通念仏が結合し、寺は栄えたものの中世末期に一時衰退した。
後、江戸時代の貞享3年(1686)日光山輪王寺の門跡天真親王が日光への道すがら慈覚大師の旧蹟が荒廃しているのを嘆き時の壬生城主三浦壱岐守直次に命じて大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺をその側に移建して別当とした。
幕末の文久2年(1862)大師一千年遠忌に当り日光山輪王寺跡慈性法親王により大師堂の改修が行われ、大正2年(1913)大師1050年遠忌には、輪王寺門跡彦坂大僧正の元に、壬生町信徒報恩会を組織し、大師堂の側に東京上野の寛永時天台宗学問所(旧勧学寮)を本堂として移建し大正5年新たに壬生寺を創立した。
壬生寺でよく知られているのが新選組であろう。
新選組は文久3年(1863) 3月、ここ壬生の地において結成された。
慶応3年(1866)頃の記録によると、新選組は毎月4と9のつく日を壬生寺境内での兵法訓練の日にしていたらしく、寺のすべての門を閉じて参拝者を締め出し、境内で大砲を打ち続けたという。
参拝者は減り、大砲の振動で寺各所の屋根瓦や戸障子が破損したと伝えられている。
一方、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、近藤勇をはじめ隊士が壬生狂言を観賞したり、相撲興行を壬生寺で行い、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったという逸話も当寺に残っている。
新選組は慶応元年2月に西本願寺に屯所を移転する。
なお、壬生寺正門北には現在も八木邸、前川邸という新選組屯所跡が、当時のままの形で残っている。寺の正門前の坊城通りを北へ、和菓子老舗「京都鶴屋」の奥に八木邸がある。この八木邸において新選組が組織された。
前川邸は坊城通り綾小路の東南角にあり、 現在は「田野製袋所」となっている。前川邸には八木邸を屯所としてから程無く、分宿するようになった。
主な建造物を紹介すると、大念佛堂(重要文化財)は、安政3年(1856)の再建で、狂言堂とも呼ばれ、この建物の二階部分で 壬生狂言が演じられる。本舞台、橋掛かり以外に能舞台には見られない「飛び込み」や「獣台」などの特異な構造をもつ建物である。阿弥陀堂は、平成14年(2002)の再建で、阿弥陀如来三尊像(阿弥陀、観音、勢至)を安置。阿弥陀堂の奥に、壬生塚(新選組隊士墓所)がある。
千体仏塔は、平成元年(1988)に建立。塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められた。室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など1000躰が、ミャンマーのパゴダに似て円錐形に安置されている。鐘楼は嘉永4年(1851)の再建で、嘉永元年(1848)に鋳造されたものである。
五仏錫杖頭(重要文化財)や列仙図屏風(長谷川等伯筆・重要文化財)、室町時代の作を含む190点の狂言の仮面などの寺宝を今に伝え、年間法要や700年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は絶えることなく行われている。
壬生狂言(壬生大念仏狂言)は、鎌倉時代より壬生寺に伝わる京の伝統芸能で、壬生寺の中興の祖、円覚上人が仏の教えを庶民にわかりやすく説くためパントマイムで伝道したのが始り。鉦・太鼓・笛の囃子に合わせてすべての演者が白布で頭と顔を包み仮面をつけて一切「せりふ」を用いず無言で演じられる。毎年4月21日~29日、秋にも3日間境内の狂言堂で行われる。
所在地:京都市中京区坊城仏光寺北入る。
交通:JR京都駅烏丸中央口から26・28系市バスで「壬生寺道」下車。阪急電鉄大宮下車、四条通りを西へ400m、坊城通りを南へ200m。
起源は壬生寺縁起によると正歴2年(991年)に三井寺の僧快賢が仏師定朝に三尺の地蔵菩薩像をつくらせ、これを本尊として五条坊門壬生の地に一宇を建立し、寛弘2年(1005)に堂供養を行ったという。その後に白河天皇が訪れて地蔵院の号を与えた。健保元年(1213)に平宗平が現在地に移して伽藍を建立したが焼失したため、宗平の子の政平が再興して地蔵院を改め宝幢三昧寺とした。
正安年間(1299~1302)に円覚十方上人道御が融通大念仏を修し、浄財を募って堂宇を修復した際、大念仏の法要に境内で猿楽を演じたのが、現在の「壬生狂言」の起源といわれている。
地蔵信仰と融通念仏が結合し、寺は栄えたものの中世末期に一時衰退した。
後、江戸時代の貞享3年(1686)日光山輪王寺の門跡天真親王が日光への道すがら慈覚大師の旧蹟が荒廃しているのを嘆き時の壬生城主三浦壱岐守直次に命じて大師堂を建立し、飯塚(現小山市)の台林寺をその側に移建して別当とした。
幕末の文久2年(1862)大師一千年遠忌に当り日光山輪王寺跡慈性法親王により大師堂の改修が行われ、大正2年(1913)大師1050年遠忌には、輪王寺門跡彦坂大僧正の元に、壬生町信徒報恩会を組織し、大師堂の側に東京上野の寛永時天台宗学問所(旧勧学寮)を本堂として移建し大正5年新たに壬生寺を創立した。
壬生寺でよく知られているのが新選組であろう。
新選組は文久3年(1863) 3月、ここ壬生の地において結成された。
慶応3年(1866)頃の記録によると、新選組は毎月4と9のつく日を壬生寺境内での兵法訓練の日にしていたらしく、寺のすべての門を閉じて参拝者を締め出し、境内で大砲を打ち続けたという。
参拝者は減り、大砲の振動で寺各所の屋根瓦や戸障子が破損したと伝えられている。
一方、一番隊組長・沖田総司が境内で子供達を集めて遊んだり、近藤勇をはじめ隊士が壬生狂言を観賞したり、相撲興行を壬生寺で行い、寺の放生池の魚やすっぼんを採って料理し、力士に振る舞ったという逸話も当寺に残っている。
新選組は慶応元年2月に西本願寺に屯所を移転する。
なお、壬生寺正門北には現在も八木邸、前川邸という新選組屯所跡が、当時のままの形で残っている。寺の正門前の坊城通りを北へ、和菓子老舗「京都鶴屋」の奥に八木邸がある。この八木邸において新選組が組織された。
前川邸は坊城通り綾小路の東南角にあり、 現在は「田野製袋所」となっている。前川邸には八木邸を屯所としてから程無く、分宿するようになった。
主な建造物を紹介すると、大念佛堂(重要文化財)は、安政3年(1856)の再建で、狂言堂とも呼ばれ、この建物の二階部分で 壬生狂言が演じられる。本舞台、橋掛かり以外に能舞台には見られない「飛び込み」や「獣台」などの特異な構造をもつ建物である。阿弥陀堂は、平成14年(2002)の再建で、阿弥陀如来三尊像(阿弥陀、観音、勢至)を安置。阿弥陀堂の奥に、壬生塚(新選組隊士墓所)がある。
千体仏塔は、平成元年(1988)に建立。塔の石仏は明治時代、京都市の区画整理の際に各地から集められた。室町時代からの阿弥陀如来像や地蔵菩薩像など1000躰が、ミャンマーのパゴダに似て円錐形に安置されている。鐘楼は嘉永4年(1851)の再建で、嘉永元年(1848)に鋳造されたものである。
五仏錫杖頭(重要文化財)や列仙図屏風(長谷川等伯筆・重要文化財)、室町時代の作を含む190点の狂言の仮面などの寺宝を今に伝え、年間法要や700年の伝統を持つ壬生狂言(重要無形民俗文化財)は絶えることなく行われている。
壬生狂言(壬生大念仏狂言)は、鎌倉時代より壬生寺に伝わる京の伝統芸能で、壬生寺の中興の祖、円覚上人が仏の教えを庶民にわかりやすく説くためパントマイムで伝道したのが始り。鉦・太鼓・笛の囃子に合わせてすべての演者が白布で頭と顔を包み仮面をつけて一切「せりふ」を用いず無言で演じられる。毎年4月21日~29日、秋にも3日間境内の狂言堂で行われる。
所在地:京都市中京区坊城仏光寺北入る。
交通:JR京都駅烏丸中央口から26・28系市バスで「壬生寺道」下車。阪急電鉄大宮下車、四条通りを西へ400m、坊城通りを南へ200m。