乃木神社は乃木希典大人之命(ノギマレスケウシノミコト)を祀る神社で、明治天皇御廟の傍に祀られている京都をはじめ出身地の山口県下関市や北海道、栃木、東京、香川、など全国各地で乃木希典を崇拝する人々によって建立された神社。
京都の乃木神社は1916年9月に創建されたもので、建立の中心となったのは、実業家村野山人である。村野氏は、薩摩(鹿児島県)出身で、豊州の門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪等の各鉄道の取締役を歴任した人物で、明治天皇の御大葬の際、京阪電車の会社代表として参列。その折、乃木将軍夫妻の殉死を聞き、強い感銘を受け、乃木将軍の一周忌に、資財を投じて、乃木将軍の人間性、日本人の心を後世に伝えるため、明治天皇陵の麓に神社を奉建した。
乃木将軍の辞世の句、「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」は、当時の国民に大きな衝撃を与えたと伝わる。
乃木神社がある伏見桃山御陵の一帯は、豊臣秀吉によって作られた伏見城の跡地の広大な丘陵となっており、夏でも涼しいうっそうとした森林地帯を形成している。
当社の神門は、樹齢3千年と言われている台湾檜一幹で立てられたという大門である。乃木将軍は、第3代の台湾総督で歴代総督のなかでは、現地の人々からたいへん慕われ、神社創建の際、現地人が進んで大木の切り出しに協力したという逸話が残っている。社頭を守るように将軍の愛馬で、ロシアの将軍ステッセルから贈られた白馬「壽号」とその子馬「璞号」の銅像が建っている。
社殿の左に、将軍の幼少のとき暮らした、長府の乃木旧邸が建っている。父・希次は江戸麻布にあった毛利藩に仕える武士で、藩主の要請で藩の改革を提言したところ、そのことを快く思わない幹部藩士に陥れられ、一家は江戸を追われ閉門蟄居を命じられた。その後、国元の長府で暮らすことになったときの住まいを再現してある。
その隣りに記念館がある。日露戦争のとき第3軍司令部として使用された民家を、神社創建時に、現地で家主から建物全体を買い上げ、そのまま移築したもので、建物の腰石も現地で使われていた物で、五億年以上前に形成されたという「漣痕」模様の化石がみられる成珪岩という珍しい石である。
宝物館は、将軍直筆の書をはじめ、親交深かった部下や日露戦争で息子を失った親、遺族に宛てた手紙等が展示してある。
この他の施設を紹介しておくと
■乃木将軍景仰の碑:日露戦争終結後、多数のロシア軍捕虜が大阪浜寺に護送されてきた折、敵味方の別なくステッセル将軍と会見した将軍の心に感服した大阪の一女史に依頼されて徳富蘇峰が揮毫したものである。
■巡洋艦吾妻の主錨:日露戦争時、装甲巡洋艦として活躍した吾妻は、昭和19年引退したが、京都府出身旧海軍従軍者の熱願によって慰霊のモニュメントとして移設、安置された。
■彫刻家たちの作品:後藤貞行(愛馬疾走)梶佐太郎(大瓶七宝焼)小倉祐一(乃木将軍胸像)柚月芳(壽号・璞号)大塚明(大漁船)藤木康成(乃木少年米搗きの像)
ちなみに、郷里の乃木神社も紹介しておくと、1914四年、郷里に乃木記念館が結成され、幼少時代を過ごした旧家を復元し、幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館とした。1920年、乃木記念館に隣設して将軍を祀る乃木神社が造営された。地元では学問の神様として崇められている。例祭は9月13日。東京の乃木神社は、東京都港区赤坂の、乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地に、1923年設立。
所在地:京都市伏見区桃山町板倉周防。
交通:京阪電車伏見桃山駅下車 徒歩20分、近鉄電車桃山御陵前下車 徒歩15分。
JR奈良線桃山下車 徒歩10分。
京都の乃木神社は1916年9月に創建されたもので、建立の中心となったのは、実業家村野山人である。村野氏は、薩摩(鹿児島県)出身で、豊州の門司鉄道をはじめ、摂津、山陽、南海、京阪等の各鉄道の取締役を歴任した人物で、明治天皇の御大葬の際、京阪電車の会社代表として参列。その折、乃木将軍夫妻の殉死を聞き、強い感銘を受け、乃木将軍の一周忌に、資財を投じて、乃木将軍の人間性、日本人の心を後世に伝えるため、明治天皇陵の麓に神社を奉建した。
乃木将軍の辞世の句、「うつし世を神去りましし大君の御あと慕いて我は逝くなり」は、当時の国民に大きな衝撃を与えたと伝わる。
乃木神社がある伏見桃山御陵の一帯は、豊臣秀吉によって作られた伏見城の跡地の広大な丘陵となっており、夏でも涼しいうっそうとした森林地帯を形成している。
当社の神門は、樹齢3千年と言われている台湾檜一幹で立てられたという大門である。乃木将軍は、第3代の台湾総督で歴代総督のなかでは、現地の人々からたいへん慕われ、神社創建の際、現地人が進んで大木の切り出しに協力したという逸話が残っている。社頭を守るように将軍の愛馬で、ロシアの将軍ステッセルから贈られた白馬「壽号」とその子馬「璞号」の銅像が建っている。
社殿の左に、将軍の幼少のとき暮らした、長府の乃木旧邸が建っている。父・希次は江戸麻布にあった毛利藩に仕える武士で、藩主の要請で藩の改革を提言したところ、そのことを快く思わない幹部藩士に陥れられ、一家は江戸を追われ閉門蟄居を命じられた。その後、国元の長府で暮らすことになったときの住まいを再現してある。
その隣りに記念館がある。日露戦争のとき第3軍司令部として使用された民家を、神社創建時に、現地で家主から建物全体を買い上げ、そのまま移築したもので、建物の腰石も現地で使われていた物で、五億年以上前に形成されたという「漣痕」模様の化石がみられる成珪岩という珍しい石である。
宝物館は、将軍直筆の書をはじめ、親交深かった部下や日露戦争で息子を失った親、遺族に宛てた手紙等が展示してある。
この他の施設を紹介しておくと
■乃木将軍景仰の碑:日露戦争終結後、多数のロシア軍捕虜が大阪浜寺に護送されてきた折、敵味方の別なくステッセル将軍と会見した将軍の心に感服した大阪の一女史に依頼されて徳富蘇峰が揮毫したものである。
■巡洋艦吾妻の主錨:日露戦争時、装甲巡洋艦として活躍した吾妻は、昭和19年引退したが、京都府出身旧海軍従軍者の熱願によって慰霊のモニュメントとして移設、安置された。
■彫刻家たちの作品:後藤貞行(愛馬疾走)梶佐太郎(大瓶七宝焼)小倉祐一(乃木将軍胸像)柚月芳(壽号・璞号)大塚明(大漁船)藤木康成(乃木少年米搗きの像)
ちなみに、郷里の乃木神社も紹介しておくと、1914四年、郷里に乃木記念館が結成され、幼少時代を過ごした旧家を復元し、幼少期の像や遺品などを展示する乃木記念館とした。1920年、乃木記念館に隣設して将軍を祀る乃木神社が造営された。地元では学問の神様として崇められている。例祭は9月13日。東京の乃木神社は、東京都港区赤坂の、乃木夫妻が自刃した邸宅の隣地に、1923年設立。
所在地:京都市伏見区桃山町板倉周防。
交通:京阪電車伏見桃山駅下車 徒歩20分、近鉄電車桃山御陵前下車 徒歩15分。
JR奈良線桃山下車 徒歩10分。