「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「木嶋坐天照魂神社」(このしまにますあまてるみたまじんじゃ)

2007年08月09日 07時46分31秒 | 古都逍遥「京都篇」
 東映映画村かある太秦の花園駅に近くに、京都市内で最古の神社がある聞き出かけてみた。駅からはかなり歩き、ちょっとわかりにくいところに入り口がある。まわりにうっそうと茂る木々はこの神社の歴史を物語っていた。

 創建は不明だが、続日本紀の大宝元年(701)の記録に「木島神」の名があることから、それ以前の創建であると考えられる。
 本殿の東側に織物の祖神をまつる蚕養神社があることことより、「蚕ノ社(かいこのやしろ)」とも呼ばれており、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)、大国主命(おおくにぬしのみこと)、穂々出見命(ほほでみのみこと)、鵜茅葺不合命(うかやぶきあわずのみこと)を祀っている。

 蚕の社と呼ばれるのは、摂社の・養蚕こがい神社にちなんだ呼び名で、平安京建設に尽力した秦始皇帝の後裔と称する融通王(弓月君:ユンズノキミ)を始祖とする渡来人「秦氏」とのゆかりは深い。
 社前に「亨保6年(1721)銘の常夜灯には、磐座宮と刻まれているので、松尾神社(建造物以前より自然崇拝あり)と同様に古代よりこの地にには磐座信仰があったとみられる。境内には、他に三井家の祖・越後守高安を祀る顕あき名神社、この付近で自殺した承久ノ乱に後鳥羽上皇方だった三浦胤義父子を祀る魂鎮神社や38所神社、白滝稲荷社、もと木島里このしまのさとにあった椿丘神社などの末社がある。

 その蚕の社のなかでも興味を引くのは、3つ鳥居(3柱みはしら鳥居)である。この鳥居は京都三鳥居のひとつとされており、3本の柱を3つの島木と貫(ぬき)でつないだ神明型の石鳥居で、真ん中には組石の神座かみくらが作られ、その狭い空間が凝縮された聖域として三方から拝めるようになっている。創建年代も不明、何の為に建てられたかも不明で、石柱の銘から天保2年(1831)に再興されたもので、以前は3ツ組の木柱の鳥
居だったという。もともと鳥居の原型は、古代インドの塔を囲む垣の門「トラーナ」説、中国の宮城説、陵墓の前に建てる標柱「華表かひょう」説、朝鮮やボルネオ地方の「門」由来説などさまざである。

 この鳥居の泉(組石の神座)から湧水が流れ出て境内に「元糺もとただす」の池を作っているが、この池は清らかな湧水が年中たえることなく、行場とされたこともあったという。「元糺」という呼称が語るように、下鴨神社の「糺の森」の名はここから移したのこと。元糺とは、それを意味しており、賀茂氏と秦氏の関係が深かったことを物語っている。本殿の西にある三方正面の石鳥居にも「元糺太神」の刻銘がある。

 もともと蚕ノ社(木島神社)は、祈雨の神として古くから信仰され、平安京造営以後には朝廷から祈雨の奉幣が行なわれ、貞観年間に正五位、長久年間には正一位が授けられている。
 平安末期の歌謡集『梁塵秘抄』巻2には、「金の御岳は一天下、金剛蔵王釈迦弥勒、稲荷も八幡も木島も、人の参らぬ時ぞなき、太秦の薬師がもとへ行く麿を、しきりにとどむる木の島の神」と、伏見稲荷や石清水八幡、太秦(広隆寺)の薬師とならぶ木島神社の賑いぶりが歌われている。

 所在地:京都市右京区太秦森ケ東町50。
 交通:JR嵯峨野線(山陰本線)花園駅より徒歩10分。


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