「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「西岸寺」(さいがんじ)

2008年04月09日 22時35分43秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「西岸寺」は通称「油懸地蔵尊」と呼ばれ、寺伝によると、創建は定朝作と伝えられる阿弥陀仏を本尊として安置する油懸地蔵尊に起因するとあり、地蔵尊の元々の所在は里三栖(現在の伏見区下三栖)だったそうだが、伏見上皇の信仰が篤く、正応3年(1290)不思議な霊験があり、文保元年(1317)伏見院の別御殿(当山の現在地)に下賜され、地蔵尊を下三栖から移したのがはじめとされている。

 地蔵尊は石仏で、高1.7㍍、幅80㌢の花崗岩に像高1.27㍍の地蔵菩薩立像を厚肉彫りし、右手に錫杖、左手に宝珠をささげている。昔からの信仰により油を注いで祈願したために、2cmあまり積もっているという油の層で表面が覆われ、黒光している様が気高い。

 何時頃の話か不明で、山崎の油商人が寺の門前で転んで油桶を落とし、商売物の油を流してしまった。残った油を地蔵尊に懸けて祈願したところ、その後大いに商運が栄えて富豪となった。以来、この地蔵尊に油を懸けて祈願すれば、商売繁盛・願望成就・家内安全のご利益が有るとされ、「油懸地蔵尊」の通称が生れた。

 永禄年中相州小田原の雲海(岸誉)上人が当山に仮錫して諸堂を増築し浄域1600余坪の壮大な寺院となし、天正18年(1590)浄土宗と定め、現寺名となった。後、鳥羽伏見の戦いで諸堂宇焼失し、昭和53年(1978)地蔵堂だけ再建されたが、本堂も最近再建されたばかりだ。
 なお、同じ読みの「油掛け地蔵」が右京区嵯峨天竜寺油掛町にもあり、ご利益を聞き及んで天竜寺の油商人たちも、自分達が居住・商売をする町の地蔵さんに油を注いだのかもしれない。

 蕉翁塚が境内奥に建っており、これに「我衣に ふしみの桃のしづくせよ」が刻まれている。貞享2年(1685)に当時の住職宝誉上人を訪ねた芭蕉が、再会の喜びを伏見の名物であった桃に事寄せて吟じたものといわれている。
 そばを運河が流れているが、これは豊臣秀吉が築城した伏見城の堀を利用し、江戸時代に交通水路として造ったといわれており、竜馬通り称する細長い商店街は古の面影を漂わせている。月桂冠や黄桜などの伏見銘酒の酒蔵が軒を連ね、運河の柳と水(伏水)と酒蔵と竜馬が定宿とした寺田屋など、見所の多い界隈である。

 所在地:京都市伏見区下油掛町898。
 交通:京阪電車「伏見桃山」か「中書島」下車、徒歩10分、近鉄電車「桃山御陵前」下車、徒歩15分。
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