京阪電鉄墨染(すみぞめ)駅から徒歩3分ほどの所にある墨染寺(正式名称・日蓮宗深草山墨染寺)は、貞観16年(874)摂政藤原良房が、娘の産んだ親王(清和天皇)の加護のため、深草(ふかくさ)の地に「貞観寺」として建立したが、天皇家・摂関家の勢力の衰退とともに寂れていった。
寺伝では寛平3年(891)平安時代の歌人、上野岑朝臣(かんつけのみねおあそん)が、この地に葬られた堀川左大臣・藤原基経(もとつね)を哀悼して、
「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」
と詠んだところ、桜がこれに応えて色あせて咲いたという故事がある。
それがそのままこの地の地名となったらしい。その話を知った豊臣秀吉が旧貞観寺を「墨染桜寺」として再興した。天正年間(1573~91)に、豊臣秀吉の姉が法華経に深く帰依したのをきっかけに、秀吉が大僧都・日秀上人に貞観寺の故地等と寺領千石を与え、上人は旧寺を改めて法華宗・墨染桜寺を建立した。
その後現在地へ移転された。現在の墨染めの桜は、15年程前に受け継がれた2代目であるが、そう言えば、うっすらと墨を流したような気もするが、だいたい白っぽい花を咲かせている。この桜にちなんで墨染寺は通称「桜寺」とも呼ばれ、本堂には「桜寺」の立派な扁額が掲げられている。狭い境内は満開の桜で一杯だ。
本堂前にある御手洗鉢は明和5年(1768)年に歌舞伎役者の2代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれている。
墨染駅から八百屋の通りをそのまま行くと住宅街の一角にあるこじんまりとした佇んでいる。京都の著名な観光寺と違って町に溶け込んだ寺で、桜の季節以外は訪れる人もまれなようだ。京のおばんざい(家庭料理)を商っている店もあり、普通の京都の下町である。
取材に出向いた頃は、幸いにも「墨染め桜まつり」が開催されており、商店の軒先には桜の造花が飾られ、キャンペーンセールなどで活気ずいていた。昔、駅のそばを流れる運河(疎水)は汚染され、ゴミなども流れていたが、綺麗になった川面に桜の花影が美しさを漂わせていた。
所在地:京都市伏見区墨染町741。
交通:京阪電車「墨染」駅下車、西へ徒歩2分。
寺伝では寛平3年(891)平安時代の歌人、上野岑朝臣(かんつけのみねおあそん)が、この地に葬られた堀川左大臣・藤原基経(もとつね)を哀悼して、
「深草の 野辺の桜し 心あらば 今年ばかりは 墨染めに咲け」
と詠んだところ、桜がこれに応えて色あせて咲いたという故事がある。
それがそのままこの地の地名となったらしい。その話を知った豊臣秀吉が旧貞観寺を「墨染桜寺」として再興した。天正年間(1573~91)に、豊臣秀吉の姉が法華経に深く帰依したのをきっかけに、秀吉が大僧都・日秀上人に貞観寺の故地等と寺領千石を与え、上人は旧寺を改めて法華宗・墨染桜寺を建立した。
その後現在地へ移転された。現在の墨染めの桜は、15年程前に受け継がれた2代目であるが、そう言えば、うっすらと墨を流したような気もするが、だいたい白っぽい花を咲かせている。この桜にちなんで墨染寺は通称「桜寺」とも呼ばれ、本堂には「桜寺」の立派な扁額が掲げられている。狭い境内は満開の桜で一杯だ。
本堂前にある御手洗鉢は明和5年(1768)年に歌舞伎役者の2代目中村歌右衛門が寄進したもので「墨染井」と呼ばれている。
墨染駅から八百屋の通りをそのまま行くと住宅街の一角にあるこじんまりとした佇んでいる。京都の著名な観光寺と違って町に溶け込んだ寺で、桜の季節以外は訪れる人もまれなようだ。京のおばんざい(家庭料理)を商っている店もあり、普通の京都の下町である。
取材に出向いた頃は、幸いにも「墨染め桜まつり」が開催されており、商店の軒先には桜の造花が飾られ、キャンペーンセールなどで活気ずいていた。昔、駅のそばを流れる運河(疎水)は汚染され、ゴミなども流れていたが、綺麗になった川面に桜の花影が美しさを漂わせていた。
所在地:京都市伏見区墨染町741。
交通:京阪電車「墨染」駅下車、西へ徒歩2分。