「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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秋近し 吉峰寺の秋明菊(貴船菊)

2021年09月06日 10時53分04秒 | 日常のこと&写真
 ようやく秋晴れの空となった。
 気分よくバスケットにお結び、玉子焼きなどを詰めたお弁当を持って郊外へと出かけたい気分に襲われた。
 「そうだ京都へ行こう」のキャンべーで紹介されて人気上昇中の洛西に位置する吉峰寺は花の寺として知られている。
 桂昌院お手植えの枝垂れ桜、つつじ、紫陽花、牡丹、芍薬、秋明菊、そして極めつけは「紅葉」。
 今回は「秋明菊」をご紹介します。






































「善峯寺」
京都市内にもまだ故郷を偲ばせるのどかな田園地帯がある。
嵯峨野、大原、花背、美山、加茂…、そして、ここ洛西の大原野もその一つ。
 大原野の田園を小鳥のさえずりを聴きながら、のんびりと歩を進めて参道を登って行くと、額に汗が滲んでくる。健脚の人は歩いて登っていって欲しい。途中、竹細工の店、竹の子売りの露店などを覗きながら行くと、手ごろなハイキングを味わえる。
 だが、かなりの道のりであるため、観光で訪ねる場合は車をお勧めする。
 駐車場(有料)に車を止め、ムクゲの花香る小坂を上がると、荘厳な西山門跡の総門が出迎える。

 当山は、11世紀の前半に源算上人が、この地に小堂を建て、自作の11面観音を安置したことに始まるが、建立間もない長元7年(1034)に後一条天皇から「良峯寺」の寺号と聖詠を賜って以来、歴代天皇の崇高篤く、中世には「西山宮」と称する門跡寺院となり50余りもの堂塔を有した大寺院となった。
 しかし、応仁の乱(1467~72年)の際にことごとく焼失し、徳川5代将軍の母・桂昌院の援助によって再建された。 

 桂昌院は京都の八百屋仁右衛門の娘(表向きは二条家に仕えた本庄宗利の娘とされている)で、その名をお玉といった。幼少の頃、両親に連れられ、当山に参拝しており、桂昌院の献歌に「たらちねの 願いをこめし 寺なれば われも忘れじ 南無薬師仏」とある。三代将軍家光の側妾のお万の方の侍女となって江戸へ。秋野と名を変え、やがて家光の子を産(幼名・徳松)み、4代将軍家綱の没後、徳松こと 「綱吉」が将軍となった。

 桂昌院は宝永2年(1705)79歳で没し、遺髪を当山に納め、桂昌院廟として祀ってある。
 境内に入ると正面に観音堂、右手の階段を上がると、元和7年に再建された多宝塔があり、現存する最古のもので、重要文化財に指定されている。多宝塔の前に全長54mにおよぶ五葉松が枝を左右に大きく伸ばしている。というより、いた。3年ほど前、虫害により左半分をやむなく切り落としてしまったのだ。
樹齢600年という「遊龍の松」は国の天然記念物に指定され、桂昌院がお手植えしたもの。

 5月から10月の第2日曜日には腰痛に利くとされる 「百草湯」に入ることができる。春の枝垂桜が美しく、99年春、JR東海の「そうだ 京都へ行こう」のキャンペーンポスターになった。春の桜、初夏のつつじ、牡丹に芍薬、そして谷間を埋め尽くす紫陽花。夏の百日紅、秋は絶景の紅葉、参道を覆う秋明菊も楽しめ、いまや花の寺としても名高くなっている。

 良峯寺から善峯寺に変わったことを調べてみると、 「吾妻鏡」によると源頼朝が鎌倉に鶴岡八幡宮に大塔を建立し、供養の導師を天台座主全玄に依頼したが、全玄は良峯寺の観性法橋が適任だとして辞去。観性法橋は、文治5年(1185)鎌倉に行き法要を務め上げた。この礼として頼朝は奈良の運慶仏師に28部衆金剛力士などを作らせ良峯寺に寄進した。 
 頼朝が征夷大将軍に就いた年、観性上人は天台座主に就任し、鳥羽上皇より「良峯寺」を「善峯寺」と改め、自筆の寺額を下賜し、官寺に列した。

 所在地:京都市西京区大原野小塩町1372
 交通:阪急京都線向日市阪急バス「善峯寺」下車徒歩8分


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