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「壷阪寺(南法華寺)」(つぼさかでら)

2010年07月10日 07時45分05秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 清少納言の「枕草子」の一節に「寺は壷阪、笠置、法輪」とあるように、平安時代にすでに壷阪寺は霊験あらたかな寺として知られていたが、創建についてははっきりしたことがわかっていない。
 当寺所蔵の「南法花寺古老伝」や「帝王編年記」などは大宝3年(703)の創建とあるが、境内からは藤原宮の時期の瓦が出土しているということからも、創建年を大宝三年とすることに不確実性はないと思われる。
 開基についても弁基、海弁、道基、佐伯姫足子などさまざまな説があるというが、「南法花寺古老伝」にある弁基上人というのが定説となっているようだ。

 山間に建てられた寺なので、立派な伽藍が立ち並ぶといった状態ではなかったと思われるが、「南法花寺古老伝」によると、元正天皇が当寺を深く信仰し、長屋王が水田を施入したという。
 当寺は浄瑠璃や浪花節の「壷坂霊験記」の眼病の効験で知られる。「日本感霊録」に九世紀初めの弘仁年中、盲目の沙弥が壷阪観音の信仰で開眼治癒したという話があり、すでにこのころから本尊の十一面千手観音は民間の信仰を集めていたことがわかる。
 
 承和14年(847)には長谷寺と共に定額寺となり、貞観8年(866)には香山寺・長谷寺とともに大般若経が転読され、元慶4年(880)には清和太上天皇の病気平癒のため使いが遣わされている。一方、天暦年中に藤原師輔が藤原氏繁栄のために五大堂を建立し、天禄4年(973)には藤原兼家が春日明神のために三昧会を置くなど藤原氏との関係も深まっていったようだ。

 寛弘4年(1007)には藤原道長が高野山参詣の途中、壷阪寺に立ち寄っている。壷阪寺が隆盛をむかえるのは、10世紀終わりの永観年中に子島寺真興が入ってからという。真興は子島流あるいは壷阪流とも呼ばれる真言の一大流派を創立し、壷阪寺は子島寺とともにその根本道場となった。

 嘉保3年(1096)に、大火災をおこし、本堂と本尊の千手観音をはじめ、礼堂・五大堂・宝蔵などが焼失した。すぐに再建が始まり本堂が完成、この時焼け残った本尊の頂上三面が新本尊の頭部に納められたという。続いて礼堂・三重塔婆・灌頂堂・食堂・経蔵などが次々に建てられていった。 嘉承2年(1107)には弥勒堂ができ、源知房を願主とする阿弥陀像が安置されいてる。

 承元5年(1211)再び火災に見舞われ、大門と二躯の金剛力士像・高蔵・地主明神の社・僧坊十一宇が焼失した。本堂と塔は無事であった。その後、大門は笠置寺の貞慶が、地主明神の拝殿は山僧が合力して再建。
 1467年に応仁の乱が勃発、文明2年(1470)、南朝の遺臣が小倉宮の王子を擁して紀伊に挙兵し壷阪寺に入った。
 この王子は翌年には西軍の山名宗全らによって京都に迎えられたが、それまでの間、寺に滞在したらしい。
 江戸時代になると高市郡四条村と十市郡膳夫村に50石の朱印地を配せられている。

 「円通記」によると、慶長・元和の頃、高取城主本多利朝が、その後本多氏にかわって高取城主となった植村家政も寛永年間に諸堂を修理している。因幡堂や仁王門はこの修理の時に建てられた。しかし寛文年中には高取城との間に境界線をめぐる争いがあり、寺地が失われた。
 境内には十三院があったようだが、明治初年の廃仏毀釈によって大門坊・宝珠院二院を残して廃絶し寺は荒れはてた。明治十六年に保存金が支給され、以降大正時代、昭和初期まで寺の様子はよくわからない。

 当寺には石仏をはじめ石を掘って作造したものが多く、居ながらにして、小乗仏教、タイやインドの仏教様式が見てとれる。中でも目を見張るのが、昭和53年(1983)に開眼した、高さ20㍍を誇る「大観音石像」である。
 この開眼法要のときそれと知らず初めて当寺を訪ねたのだが、そこに至る道路は大渋滞、大勢の人々が一大法要を見ようと列をなし山内を埋め尽くしていた。この像はインド救ライ事業に対する感謝としてインドから贈られたもので、中央インドカルカラの3億年前の古石を用い、延べ人数約7万人の石工達の協力で4年7ヶ月の歳月をかけ完成したものであった。

 この年は田中角栄ロッキード裁判で東京地裁が懲役4年の判決を下し、大韓航空機襲撃事件があった。
 このほか、1999年に「大涅槃石像」(8㍍)が安置され、2007年には「大釈迦如来石像」(15㍍)が開眼している。

 所在地:奈良県高市郡高取町壷阪3番地。
 交通:近鉄吉野線「壺阪山」から、奈良交通バス「壷坂寺前行き」終点下車。

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