「夏が来れば想い出す」という歌があるが、水連の季節になるとある想い出がよみがえる。
カメラとの付き合いは中学生のころからだからかなり長いが、コンテストでの受賞を目指していた熱狂時代は40代のころで主にスナップやポートレートを好んでいた。
全日本写真連盟の会員にはなっていたが、京都から大阪勤務になったとき朝日カルチャースクールに入門。お目当ては「高田誠三」先生のネイチャー写真を学ぶためだった。
高田誠三先生は大阪芸術大学写真学科教授で風景写真家として世界的に知られていた。風景の面白さに惹かれスクールの有志5人と共に特別に指導を受けるため、先生の空き時間に戸外撮影で指導を受けた。その初の直接指導が万博公園日本庭園での水連がテーマだった。
それから私は再び転勤したことから個別指導が受けられた期間は1年4ヵ月と短かったが、すっかり風景写真の虜になり、中でも花、花と風景の撮影がその後のカメラライフとなった。
先生がご病気で亡くなられて十余年になる。一向に写真の腕は上がらないものの、ネイチャー写真の楽しさを学ばせてくれた想い出はいつまでも忘れることができない。その頃の仲間とはもうすっかり音信不通となり、既に黄泉の国へ行かれたかたもいるという。
もうさほど遠出ができなくなった年齢となり、近隣の名所や公園で写真を撮るのが楽しみになっている。
カメラとの付き合いは中学生のころからだからかなり長いが、コンテストでの受賞を目指していた熱狂時代は40代のころで主にスナップやポートレートを好んでいた。
全日本写真連盟の会員にはなっていたが、京都から大阪勤務になったとき朝日カルチャースクールに入門。お目当ては「高田誠三」先生のネイチャー写真を学ぶためだった。
高田誠三先生は大阪芸術大学写真学科教授で風景写真家として世界的に知られていた。風景の面白さに惹かれスクールの有志5人と共に特別に指導を受けるため、先生の空き時間に戸外撮影で指導を受けた。その初の直接指導が万博公園日本庭園での水連がテーマだった。
それから私は再び転勤したことから個別指導が受けられた期間は1年4ヵ月と短かったが、すっかり風景写真の虜になり、中でも花、花と風景の撮影がその後のカメラライフとなった。
先生がご病気で亡くなられて十余年になる。一向に写真の腕は上がらないものの、ネイチャー写真の楽しさを学ばせてくれた想い出はいつまでも忘れることができない。その頃の仲間とはもうすっかり音信不通となり、既に黄泉の国へ行かれたかたもいるという。
もうさほど遠出ができなくなった年齢となり、近隣の名所や公園で写真を撮るのが楽しみになっている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます