「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「先斗町」(ポントチョウ)

2006年05月16日 18時05分07秒 | 古都逍遥「京都篇」
 先斗町は北は三条通の一筋南より、南は四条通まで、東は鴨川にのぞみ、西は高瀬川に沿うた木屋町通の間にして、南北五百㍍余にわたる細長い街をいい、祇園とともに京都を代表する花街の一つである。
 もともとこの地は鴨川の洲であったが、寛文10年(1670)に護岸工事をおこなって石垣を築き、洲を埋め立てて宅地とした。まもなく人家が建ちはじめたが、これらはすべて川原にのぞむ片側のみで、あたかも先ばかりであったから、先斗町と呼ばれたという。
一説によると「先斗」は、織田信長時代ポルトガルの教会が、この辺りにあって、ポルトガル語のポント(先端)・ポントス(先端・先が長いもの)によると言う説もある。この地があたかも、川原の崎であったから、そのころ世に流行した「うんすんかるた」などによって外来語をもじったものだろうともいわれ、諸説明らかではない。この地に水茶屋が初めてもうけられたのは正徳2年(1712)の頃といわれ、次いで文化10年(1813)に芸妓渡世が認められた。以来、幾多の変遷をみたが、祇園や上七軒(北野天満宮近く)とともに今なお隆盛を極めている。
 南北につらぬく道はきわめて狭く、紅殻格子の家が両側に建ちならび、東西に五十番まで数える大小の路地がある。新村出博士の「先斗町袖すりあふも春の夜の 他生の縁となつかしみつゝ」なる詠歌は、この細路で舞妓・芸妓さんとすれ違う風情を詠んだのであろう。
 また「かたむけて春雨傘や先斗町(きぬ)」「相触れて春雨傘や先斗町(常悦)」などと幾多の句にもうたわれた。祇園新地の如く格式ばらず、昔から庶民的なところがあり、それが好まれたのだろう。幕末の頃には諸国の浪士も多くここに遊宴し、幾多のロマンスの花をさかせた。
 先斗町歌舞練場は大正14年(1925)に着工し、昭和2年(1927年)に完成。設計は大阪松竹座(大正12年)、東京劇場(昭和2年)などを手がけて劇場建築の名手といわれた大林組の技師、木村得三郎。鉄筋コンクリート造り、地上四階、地下1階で、当時では「東洋趣味を加味した近代建築」と賞賛されたようだ。

 ちなみに私が20年数年来ひいきにしているフランス料理店「ナツカ」があるのもこの先斗町である。家族的なサービスと京風味の仏料理は絶品で多くの人に奨めてきた。昨今は京情緒あふれた老舗料理店が少なくなり、若者好みの西洋料理店や中華料理店、居酒屋風の店などが目立つようになったきた。
 夏になると鴨川べりに川床が設置され、暮れ行く東山をのぞみながら、煌く残照の川面の涼風も心地好く、京料理を楽しむ光景は夏の風物ともなっている。

 所在地:京都府京都市中京区先斗町
 交通:京阪電鉄四条駅下車、4番出口から徒歩5分。阪急電鉄河原町駅下車、徒歩3分。
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