「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「滝口寺」(たきぐちでら)

2006年11月15日 00時33分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
 滝口寺は、嵯峨の小倉山の麓にある。念仏房良鎮(りょうちん)上人(法然の弟子)によって創建された往生院の子院、三宝寺の旧跡。念仏道場として栄え、往時の境内は広く多くの坊があったと伝えられている。その後、応仁の乱などの戦火で都の多くの社寺が焼失したが、三宝寺は免れていた。しかし、明治維新で廃寺となり隣接する祇王寺の再建に続いて再建された。
 寺名の滝口寺は、平安物語「維盛高野」の巻で語られている滝口入道と横笛に由来する。滝口入道とは、宮中警護に当たる滝口(清涼殿の東北の詰所)の武士・斉藤時頼(さいとうときより)のこと。建礼門院に仕えた横笛と恋に発展したが、父に厳しく叱られたことで自責し仏道修行をしていたのがこの寺。滝口の出家を知った横笛が、自分の真の気持ちを伝えたく尋ねて来たが、会えることなく追い帰されたという悲恋の地。

 滝口寺の表門は、祇王寺の横のなだらかな石段を登り詰めた所。表門を潜り、本堂へ向う石段の途中に「滝口と横笛歌問答旧跡 三宝寺」(「そるまでは恨みしかとも梓弓 まことの道に入るぞ嬉しき」(滝口)。「そるとても何か恨みむ梓弓 引きとどむべき心ならねば」(横笛)。)と刻まれた歌碑がある。

 修行の妨げと追い返された横笛は、泣く泣く都へ帰るが、真の自分の気持ちを伝えるため、近くの石に「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で書き記したと伝える石がある。石は苔が覆い、横笛の悲痛な思いを今も留めて。
 滝口入道はその後、高野聖となり元暦元年(1184)、紀州の勝浦においての平維盛の入水に立ち会っている。

 石段をさらに登ることしばらく、視界が広がり本堂となる。本堂の縁に座り庭を眺めると、カエデと竹林がひろがり、秋には見事な紅葉が見られることが想像できる。奥には、竹林に隠れるように滝口入道と平家一門の供養塔が建っている。
 本堂へ上がると滝口入道と横笛の木像が並べて祀られている。鎌倉時代の作で、眼が水晶と聞く。順路に従い、本堂脇の竹林の路を進むと表戸を閉ざした古びた堂と出会うが、それは平重盛を祀った「小松堂」で、さらに進むと表門となる。
 表門のすぐ右奥(表門に向い)に鎌倉幕府を倒した悲運の武将・新田義貞の首塚がある。越前(福井県)で足利尊氏との戦いで討たれた新田義貞の首は、後に京の三条河原で晒しものにされている。それを知った妻・勾当内侍(こうとうのないし)は、夫の首を密かに盗み出しここ嵯峨野に埋葬し、出家して夫を弔い生涯この地で暮らしたという。その勾当内侍の供養塔も傍にある。
 この辺り、祇王寺など名刹が多く紅葉の美しい所ですが、何故か当寺の紅葉が早く色づく。

 「山深み思い入りぬる芝の戸の まことの道に我れを導け」(横笛)

 所在地:京都府京都市右京区嵯峨亀山町10-4。
 交通:JR京都駅より京都バス大覚寺行、嵯峨釈迦堂前より徒歩15分。
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