小さな木戸をくぐると、そこは「紅の世界」が広がっていた。深紅の楓が天地を覆い尽くし、炎に包まれたかと錯覚するほどである。
そこは、嵯峨野の一角にある小さな寺院。紅葉の美しさに定評のあるこの寺院は、「知る人ぞ知る」といった感じの紅葉寺であったものだが、テレビで紅葉を紹介されて以降、シーズンには列をなす人気スポットと化した。カメラを愛用している人は、三脚・一脚を持っているだけで中には入れてもらえない。
「宝筐院」は、元は「善入寺」と称して、白河天皇創建の勅願寺で、鎌倉時代まで皇室から住持がでていた。室町初期は衰退していたが、夢窓国師の高弟黙庵禅師が中興してより臨済宗となった。室町幕府二代将軍足利義詮が黙庵禅師に帰依して伽藍は整い貞治五年(1366)に観林寺に改名したが、もとの善入寺に戻した。その翌年に義詮が38歳の若さで世をさって、当院は義詮の菩提寺となり義詮法号をとって宝筺院と改めた。
応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微し、寺領も横領されるなど、経済的にも困窮していたという。その後、江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院で、伽藍も客殿と庫裏の2棟のみとなり、幕末には廃寺となったが、五○数年を経て復興された。
庭の奥へと進むと「小楠公首塚」がある。
黙庵は、河内の国の南朝の武将楠木正行(くすのき・まさつら)と相識り、彼に後事を託されていた。正平3年・貞和4年(1348)正月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう頼んだという。明治24年(1891)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、首塚の由来を記した石碑「欽忠碑」を建てた。向かって右が楠木正行の首塚、左が足利義詮の墓。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎によるものである。
また、楠木正行ゆかりの遺跡を護るため、高木龍淵天龍寺管長や神戸の実業家の川崎芳太郎によって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行なわれた。旧境内地を買い戻し、新築や古建築の移築によって伽藍を整え、屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦を用い、小楠公ゆかりの寺であることをしめした。大正5年に完工し、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え、主な什物類も回収され、宝筐院の復興がなった。その後、更に茶室が移築され、現本堂が新築された。
書院から本堂の南面は、白砂・青苔(杉苔)と多くの楓からなる回遊式の枯山水庭が広っている。本堂の西側、かつての仏殿跡一帯は真竹の竹林で、清楚な環境に包まれている。(昨秋の綴り)
所在地:右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
交通: 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」、徒歩3分、JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅、徒歩10分、阪急電鉄嵐山線(京都線)「嵐山」駅、徒歩20分。
そこは、嵯峨野の一角にある小さな寺院。紅葉の美しさに定評のあるこの寺院は、「知る人ぞ知る」といった感じの紅葉寺であったものだが、テレビで紅葉を紹介されて以降、シーズンには列をなす人気スポットと化した。カメラを愛用している人は、三脚・一脚を持っているだけで中には入れてもらえない。
「宝筐院」は、元は「善入寺」と称して、白河天皇創建の勅願寺で、鎌倉時代まで皇室から住持がでていた。室町初期は衰退していたが、夢窓国師の高弟黙庵禅師が中興してより臨済宗となった。室町幕府二代将軍足利義詮が黙庵禅師に帰依して伽藍は整い貞治五年(1366)に観林寺に改名したが、もとの善入寺に戻した。その翌年に義詮が38歳の若さで世をさって、当院は義詮の菩提寺となり義詮法号をとって宝筺院と改めた。
応仁の乱以後は、幕府の衰えと共にお寺も衰微し、寺領も横領されるなど、経済的にも困窮していたという。その後、江戸時代の宝筐院は天龍寺末寺の小院で、伽藍も客殿と庫裏の2棟のみとなり、幕末には廃寺となったが、五○数年を経て復興された。
庭の奥へと進むと「小楠公首塚」がある。
黙庵は、河内の国の南朝の武将楠木正行(くすのき・まさつら)と相識り、彼に後事を託されていた。正平3年・貞和4年(1348)正月、正行は四条畷の合戦で高師直の率いる北朝の大軍と戦い討ち死し(23歳)、黙庵はその首級を生前の交誼により善入寺に葬った。後に、この話を黙庵から聞いた義詮は、正行の人柄を褒め称え、自分もその傍らに葬るよう頼んだという。明治24年(1891)、京都府知事北垣国道は小楠公(楠木正行)の遺跡が人知れず埋もれているのを惜しみ、これを世に知らせるため、首塚の由来を記した石碑「欽忠碑」を建てた。向かって右が楠木正行の首塚、左が足利義詮の墓。墓前の石灯籠の書は富岡鉄斎によるものである。
また、楠木正行ゆかりの遺跡を護るため、高木龍淵天龍寺管長や神戸の実業家の川崎芳太郎によって、楠木正行の菩提を弔う寺として宝筐院の再興が行なわれた。旧境内地を買い戻し、新築や古建築の移築によって伽藍を整え、屋根に楠木の家紋・菊水を彫った軒瓦を用い、小楠公ゆかりの寺であることをしめした。大正5年に完工し、古仏の木造十一面千手観世音菩薩立像を本尊に迎え、主な什物類も回収され、宝筐院の復興がなった。その後、更に茶室が移築され、現本堂が新築された。
書院から本堂の南面は、白砂・青苔(杉苔)と多くの楓からなる回遊式の枯山水庭が広っている。本堂の西側、かつての仏殿跡一帯は真竹の竹林で、清楚な環境に包まれている。(昨秋の綴り)
所在地:右京区嵯峨釈迦堂門前南中院町9-1
交通: 市バス・京都バス「嵯峨釈迦堂前」、徒歩3分、JR嵯峨野線「嵯峨嵐山」駅、徒歩10分、阪急電鉄嵐山線(京都線)「嵐山」駅、徒歩20分。
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