「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「晴明神社」(せいめいじんじゃ)

2006年05月03日 09時31分16秒 | 古都逍遥「京都篇」

 晴明神社は天才陰陽師としてその名を残す安倍晴明の屋敷跡にあり、天文陰陽博士として活躍していた拠点であった場所。晴明が没した後、一条天皇は晴明の遺業を讃え、また晴明は稲荷大神の生まれ変わりであると信じ、寛弘4年(1007年)、その霊を鎮めるために晴明神社を創建。古い資料によれば東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売という広大な地域が神社の土地であったとされている。ところが、応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続いた。そこで、地元の氏子が中心となり各式年祭、つまり嘉永6年、明治11・36年、昭和3年に整備改修が行われた。また昭和25年には堀川通に面する境内地を拡張、復興が進められた。

 近年は陰陽師晴明の一大ブームが巻き起こり、文芸、漫画、映画などを通じてその存在が広く知られるようになり、平成15年に晴明神社御鎮座壱千年祭を斎行し社殿の修造と社務所の新築、境内整備が完成した。
 境内には悪病難疾を平癒させる晴明水(井戸)あり、遠方からもこの霊水を求めて人の絶えることがない。同じ様な主旨で神奈川県鎌倉市山ノ内にも晴明を祀る安倍晴明大神の碑(北鎌倉駅の西にある晴明石)があり、信仰をあつめている。
 謎に包まれている清明であるが、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』安倍氏系図によれば、初代「右大臣・安倍御主人(みうし)」から数えて9代目「大膳(だいぜん)大夫・益材(ますき)」の子となっている。またこの尊卑分脈には天文博士であり、従四位下と記されているが、その他としては祭祀を執行したとされる記録が数件残っているものの、それ以外に当時(平安時代)に記されたものはない。晴明は父と同じく大膳大夫を努め、左京権大夫・穀倉院別当などの官を歴任している。

 伝説では、初代・安倍御主人は「竹取物語」の中で、かぐや姫に求婚する貴公子の1人「右大臣・阿倍御主人」で「公卿補任(くぎょうぶにん)」に、大宝3年(703)の項、閏年4月1日に右大臣・阿倍御主人を「安倍氏陰陽先祖也」と記されてあり、阿倍と安倍の違いはあるものの「安倍晴明」の祖と考えられている。
出生地については明確な記録が残っていないが、大日本史料所引「讃岐国大日記」や「讃陽簪筆録(さんようしんぴつろく)」によると、讃岐国香東(こうとう)郡井原庄に生まれた、と記されている。「西讃府志(せいさんふし)」では香川郡由佐の人となっているものの、真相は明らかではなく、出身地については、3つの説があり、1つが大阪説、そして讃岐説、もう1つが茨城説である。この中で最も有力なのが大阪説とされている。
 「葛乃葉(くずのは)伝説」によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされている。―以下、引用文―

 「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげた。
 その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けた。」
 狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになる。晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っている。安倍晴明神社に伝わる「安倍晴明宮御社伝書」には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、没してから2年後の寛弘4年に完成したのが、晴明神社であると記載されている。
 出生は推定で、延喜21年(921)、寛弘2年(1005)9月26日に85歳で死去(『土御門家記録』)。

 所在地:京都市上京区堀川通一条上ル806
 交通:京都駅より市バス9系統、一條戻り橋下車徒歩2分。三条京阪駅より市バス12・51・59系、堀川今出川下車徒歩2分 。
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「永観堂」(えいかんどう)

2006年05月02日 21時34分08秒 | 古都逍遥「京都篇」
紅葉寺としても知られる永観堂は、シーズンともなればライトアップも行われ、苔に覆われた繁みに和紙と竹で作られた行灯の火がぼんやりと境内の小径を照らし、幽玄の世界へといざなう。
 当寺の正式な寺名は禅林寺といい、浄土宗西山禅林寺派の総本山である。
仁寿3年(853)文人・藤原関雄の山荘を空海(弘法大師)の弟子真紹(しんじょう・
797-873)が真言宗の道場に改めたのが起こりで、貞観4年(863)清和天皇より鎮護国家の道場として勅額を下賜され「禅林寺」と名づけられた。 平安時代中期に入寺した永観律師によって浄土念仏道場となった。

 東山の豊かな自然と一体になった回廊で法然上人像を祀る御影堂などが結ばれており、中でも“みかえり阿弥陀如来像”は、左後方を振り返っている珍しい如来像で重要文化財に指定されている。
 応仁年間(1467~69) 応仁の乱によって、全山被災、烏有に帰したが、文明4年(1472)頃より明応6年(1497)頃にかけて堂宇殿舎を復興。後土御門天皇によって御影堂が再建され、後柏原天皇によって方丈(釈迦堂)、書院、客殿が建立された。
「おく山の岩がき紅葉散りぬべし 照る日の光 見る時なくて」(古今集)

 当寺を創建した真紹僧都の徳を慕って、自分の山荘を寄進した藤原関雄が詠んだ歌で、草創以来、幾多の文化人達の筆や歌に親しまれてきた京都有数の古刹である。
 社伝によれば永観堂の歴史は、大きく3つの時代に分けられる。最初は真紹僧都から永観律師(ようかんりっし・1033-1111)が住職になるまでの約220年間で、真言密教の寺院としての時代。次は永観律師から源頼朝の帰依を受けた真言宗の学匠静遍僧都(じょうへんそうず・1166-1224)までの約140年間。この時代は、真言密教と奈良で盛んだった三論宗系の浄土教寺院であった。その後は、証空上人の弟子、浄音上人(1201-1271)が住職になり浄土宗西山派の寺院となったとある。

 「みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけれ」(千載集)
と詠まれた永観律師は特に名高く、自らを「念仏宗永観」と名るほど、念仏道理の基礎の上に立ち、境内に薬王院という施療院を建て、窮乏の人達を救いその薬食の一助にと梅林を育てて「悲田梅」と名づけて果実を施す等、救済活動に努めた。

 本堂(阿弥陀堂) 入母屋造り、本瓦葺。大阪四天王寺からの移築とも伝えられている近世初期の建物で、正面、側面の柱間に蔀が設けられ寝殿造り風であるが、桃山風も随所に見られる。内陣天井の、種々の花々が極彩色で描かれた「百花の図」が徳に目を引く。本尊の見返り阿弥陀像の他、脇壇に十一面観音菩薩像、地蔵菩薩像、永観律師像を安置する。
 釈迦堂には、建物自体より古い長谷川等伯筆と伝えられる「竹虎図」の襖絵、土佐光信の筆と伝える三十六歌仙図などがある。臥竜楼・御影堂を中心として、本堂や開山堂などの建物間を結んで延びる、長い渡り廊下は、当寺の特色をなしている。
 自然を愛でる日本人の感性の豊かさを表し、日本庭園に音の風雅をそえる水琴窟は、御影堂裏の阿弥陀堂と臥龍廊に別れる回廊の山裾、静かに水を注いで水滴が奏でる澄んだ音が楽しめる。

 所在地:京都市左京区永観堂町48。
 交通:JR京都駅から市バス5系統で南禅寺永観堂道下車、徒歩3分。京阪電車三条から市バス5系統で「南禅寺永観堂道」下車、徒歩3分。
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