晴明神社は天才陰陽師としてその名を残す安倍晴明の屋敷跡にあり、天文陰陽博士として活躍していた拠点であった場所。晴明が没した後、一条天皇は晴明の遺業を讃え、また晴明は稲荷大神の生まれ変わりであると信じ、寛弘4年(1007年)、その霊を鎮めるために晴明神社を創建。古い資料によれば東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売という広大な地域が神社の土地であったとされている。ところが、応仁の乱の後豊臣秀吉の都造り、度々の戦火によってその規模は縮少。そして、古書、宝物なども散逸し、社殿も荒れたままの時代が続いた。そこで、地元の氏子が中心となり各式年祭、つまり嘉永6年、明治11・36年、昭和3年に整備改修が行われた。また昭和25年には堀川通に面する境内地を拡張、復興が進められた。
近年は陰陽師晴明の一大ブームが巻き起こり、文芸、漫画、映画などを通じてその存在が広く知られるようになり、平成15年に晴明神社御鎮座壱千年祭を斎行し社殿の修造と社務所の新築、境内整備が完成した。
境内には悪病難疾を平癒させる晴明水(井戸)あり、遠方からもこの霊水を求めて人の絶えることがない。同じ様な主旨で神奈川県鎌倉市山ノ内にも晴明を祀る安倍晴明大神の碑(北鎌倉駅の西にある晴明石)があり、信仰をあつめている。
謎に包まれている清明であるが、『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)』安倍氏系図によれば、初代「右大臣・安倍御主人(みうし)」から数えて9代目「大膳(だいぜん)大夫・益材(ますき)」の子となっている。またこの尊卑分脈には天文博士であり、従四位下と記されているが、その他としては祭祀を執行したとされる記録が数件残っているものの、それ以外に当時(平安時代)に記されたものはない。晴明は父と同じく大膳大夫を努め、左京権大夫・穀倉院別当などの官を歴任している。
伝説では、初代・安倍御主人は「竹取物語」の中で、かぐや姫に求婚する貴公子の1人「右大臣・阿倍御主人」で「公卿補任(くぎょうぶにん)」に、大宝3年(703)の項、閏年4月1日に右大臣・阿倍御主人を「安倍氏陰陽先祖也」と記されてあり、阿倍と安倍の違いはあるものの「安倍晴明」の祖と考えられている。
出生地については明確な記録が残っていないが、大日本史料所引「讃岐国大日記」や「讃陽簪筆録(さんようしんぴつろく)」によると、讃岐国香東(こうとう)郡井原庄に生まれた、と記されている。「西讃府志(せいさんふし)」では香川郡由佐の人となっているものの、真相は明らかではなく、出身地については、3つの説があり、1つが大阪説、そして讃岐説、もう1つが茨城説である。この中で最も有力なのが大阪説とされている。
「葛乃葉(くずのは)伝説」によると、晴明の父は大阪市阿倍野区阿倍野の出身とされている。―以下、引用文―
「いまから千年以上昔、阿倍野に安倍保名(あべのやすな)という男が住んでいました。あるとき、和泉(いずみ)の信田明神(しのだみょうじん)にお参りをすませて帰ろうとした保名の元へ、狩りで追われた白狐が逃げてきて、これをかくまってあげた。
その後、白狐は女の人になって、保名のところへ来ます。名前は葛乃葉と名乗りました。ふたりは結婚して阿部神社の近くに住み、やがて子供が生まれ、安倍童子(あべのどうじ・晴明の幼名)と名付けた。」
狐は古来から、霊力を持った動物として崇められており、白狐であった母親を持つ晴明は、天才陰陽師として君臨することになる。晴明が阿倍野の出身というのは、安倍晴明神社の記録としても残っている。安倍晴明神社に伝わる「安倍晴明宮御社伝書」には、安倍晴明が亡くなったことを惜しんだ上皇が、生誕の地に晴明を祭らせることを晴明の子孫に命じ、没してから2年後の寛弘4年に完成したのが、晴明神社であると記載されている。
出生は推定で、延喜21年(921)、寛弘2年(1005)9月26日に85歳で死去(『土御門家記録』)。
所在地:京都市上京区堀川通一条上ル806
交通:京都駅より市バス9系統、一條戻り橋下車徒歩2分。三条京阪駅より市バス12・51・59系、堀川今出川下車徒歩2分 。