東山山麓一帯は古刹・名刹が数多くあるところだが、円山公園でひと休みし知恩院の前をそぞろに歩きながら蓮如上人生誕の寺を過ぎると、天台宗の京都五箇室門跡の1つ「青蓮院門跡」の天然記念物に指定されている大楠が出迎えてくれる。五箇室とは、青蓮院門跡・妙法院門跡・三千院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡の5ケ寺を指している。門跡寺院というのは、門主(住職)が皇室或いは摂関家によって受け継がれてきた寺で格式が高く、御殿のような趣を持った、上品で優しい雰囲気が漂っている。「青蓮」とは、青く澄み切った如来の眼から由来している。
比叡山延暦寺は伝教大師最澄が開山したが、その際、お堂の他に僧侶の住まいの『坊』をいくつかお建てた。そのひとつに「青蓮坊」というのがあり、それが当院の始まりだといわれている。青蓮院が最も隆盛を極めたのは、第3代門主慈円(じえん)(慈鎮和尚)の時。慈円は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡した。
また、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致した。天明8年には、大火によって御所が炎上した時に、後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難されたことから、青蓮院は粟田御所と呼ばれたという。
慈円が、法然(ほうねん)(源空)を庇護して、自分の弟子である証空(しょうくう)や親鸞(しんらん)が、法然の弟子になるのを黙認し、専修念仏に寛大なところは浄土教の基礎が天台にあったからであろう。親鸞が祖師である本願寺の法主は、青蓮院で得度をしなければその資格が得れなかったのは明治の時代まで続いた。
青蓮院の始まりは第48代天台座主行玄(ぎょうげん)大僧正からであり、青蓮院門主第一世は行玄である。行玄からその座を譲られた第2世門主覚快(かくかい)法親王(ほっしんのう)は、鳥羽天皇の第七皇子で、行玄が鳥羽天皇の帰依を受けて皇子を弟子にした事で青蓮坊の里坊を三条白川に白川坊を造営し青蓮坊に因み青蓮院としたという。また青蓮院は明治五年、日本最初の公立病院がおかれた所としても知られている。
では、見所、宝物などを少し紹介しておこう。
まず、門前の名木「楠」。親鸞聖人御手植と伝えられ五本あるが、京都市の登録天然記
念物指定を受けている。大楠の懐に抱かれると夏なお涼しく、極楽の境地に浸れる。
国宝「青不動明王二童子像」は、通称「青不動」と呼ばれ、日本三不動の1つとして平安時代から篤く信仰されてきている。日本三不動の後の2つは、高野山の赤不動・三井寺の黄不動。(曼殊院にも模写黄不動[国宝]がある)青不動は、信仰の上でも、美術的にも、史料的にも、正に現存する仏教画のなかでも至高のものと云える。平安時代の飛鳥寺玄朝によって描かれたといわれ、安然(あんねん)の不動十九観を忠実に描写したものと伝えられている。たいへん大きな画像で、憤怒の表情にものすごく迫力がある。
青蓮院の庭園は池泉回遊式の庭で、四季折々にそれぞれ異なった美しさがある。「龍神池」は室町時代の相阿弥の作と伝える庭園。粟田山を借景にしてその山裾を利用した幽邃な趣の庭である。池の対岸南に高く石積みした滝口を中心として、東側にかけて柔らかな曲線をえがいた築山が設けられ、その北側に好文亭が建っている。池を龍心池といい、反りの美しい石橋を跨龍橋と呼び、滝を洗心滝という。これらの配置は誠に妙を得、意をこらしたものである。
好文亭の入口の門を背にして眺める「小御所」は、東山の「自然の山麓」が左側に迫って来て、自然と人工の巧みな融合を見せている。右端置かれた自然石の手水鉢は「一文字手水鉢」といい太閤豊臣秀吉の寄進である。ここの紅梅は、3月から4月にかけて、美しく咲き誇り、それが手水鉢の水面に写り見事なもので、写真愛好家ならずとも人気が高い。
また、叢華殿の東側に江戸時代初期の小堀遠州作と伝える庭園があるが、その中でも好文亭裏側山裾斜面から一面に「霧島つつじ」が植えてあり、5月の連休の頃、一面を真っ赤に染める。このことから「霧島の庭」とも云う。この庭は相阿弥の庭園と比べ平面的であるが、統一と調和を感じさせる庭でもある。
「好文亭」は、後桜町上皇が当院を仮御所として使用の際、使った学問所であり、明治以降茶室として活用していたが放火により平成5年に焼失し、平成7年秋に復旧落慶した。本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に木材等の材質も全く同じ、工法も同じで、完全復元された本格的数寄屋造である。四畳半の茶室3部屋と六畳の仏間、水屋等からなる。障壁画13画は上村淳之先生の御奉納による花鳥図。
「宸殿」は御歴代天皇の御尊碑と歴代門主の位牌を安置し、主要な法要を行うのに用いられている。宸殿前に「右近の橘」、「左近の桜」を配するのは、御所の帝の前、先帝を祀るところに在る物で、この建物もその意味を持っている。御所禁裏の事であるが、左右の近衛兵が居る二本の木を示す(禁)その後ろ(裏)に帝が居られる所を禁裏と称して、御所以外で右近左近の木は配するところは限られている。杉苔に覆われた宸殿の前庭は本来白砂を敷いていたものである。宝珠の付いた右の堂は熾盛光堂といい、当院の本堂で天台宗の四大秘宝の一つである熾盛光法の本尊を祀っている。親鸞聖人の得度の場所でもある。
「浜松図襖」は徳川秀忠の息女が後水尾天皇の女御として入内した時に、幕府は女御御殿を造営。その御殿が不要になってから朝廷は各所に分割して賜ったが、この宸殿の前身の建物はその一つで絵も建物に付属していた。使用の仕方が変わったために、画面にはその変更の後が見られるが、よく見れば亭々たる赤松の老木の枝振りも古雅に神韻漂渺たるものがある。
さて、当門跡の飛地境内となる「将軍塚」があるが、桓武天皇が平安建都の際、都の鎮護を呪術的、宗教的にも行おうと、将軍「坂上田村麻呂」の弓を引いている像に甲冑を着せ塚に埋めたと伝えられる「将軍塚」は国家の大事があると鳴動したという伝説がある。
東山ドライブウェイの頂上に、無料駐車場と展望台があり、その駐車場から北へ100m程行くと門が見え、青蓮院の飛地境内である「将軍塚大日堂」がある。庭内には「将軍塚」という直径20mほど、高さ2mほどの塚がある。境内は外観からは想像もつかないほど広大で四季を通じて、いろいろな美しさを楽しませてくれ、洛中洛外まで展望できる見晴らしは絶景で、特に夜景は夜空を地上に転じたような煌きがある。本紙「将軍塚」で紹介。
交通:京都市営バス 5・27系統で神宮道下車、徒歩2分。地下鉄東西線 京阪京津線東山駅下車、徒歩3分。
比叡山延暦寺は伝教大師最澄が開山したが、その際、お堂の他に僧侶の住まいの『坊』をいくつかお建てた。そのひとつに「青蓮坊」というのがあり、それが当院の始まりだといわれている。青蓮院が最も隆盛を極めたのは、第3代門主慈円(じえん)(慈鎮和尚)の時。慈円は四度天台座主をつとめ、その宗風は日本仏教界を風靡した。
また、当時まだ新興宗教であった浄土宗の祖法然上人や、浄土真宗の祖親鸞聖人にも理解を示し、延暦寺の抑圧から庇護致した。天明8年には、大火によって御所が炎上した時に、後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難されたことから、青蓮院は粟田御所と呼ばれたという。
慈円が、法然(ほうねん)(源空)を庇護して、自分の弟子である証空(しょうくう)や親鸞(しんらん)が、法然の弟子になるのを黙認し、専修念仏に寛大なところは浄土教の基礎が天台にあったからであろう。親鸞が祖師である本願寺の法主は、青蓮院で得度をしなければその資格が得れなかったのは明治の時代まで続いた。
青蓮院の始まりは第48代天台座主行玄(ぎょうげん)大僧正からであり、青蓮院門主第一世は行玄である。行玄からその座を譲られた第2世門主覚快(かくかい)法親王(ほっしんのう)は、鳥羽天皇の第七皇子で、行玄が鳥羽天皇の帰依を受けて皇子を弟子にした事で青蓮坊の里坊を三条白川に白川坊を造営し青蓮坊に因み青蓮院としたという。また青蓮院は明治五年、日本最初の公立病院がおかれた所としても知られている。
では、見所、宝物などを少し紹介しておこう。
まず、門前の名木「楠」。親鸞聖人御手植と伝えられ五本あるが、京都市の登録天然記
念物指定を受けている。大楠の懐に抱かれると夏なお涼しく、極楽の境地に浸れる。
国宝「青不動明王二童子像」は、通称「青不動」と呼ばれ、日本三不動の1つとして平安時代から篤く信仰されてきている。日本三不動の後の2つは、高野山の赤不動・三井寺の黄不動。(曼殊院にも模写黄不動[国宝]がある)青不動は、信仰の上でも、美術的にも、史料的にも、正に現存する仏教画のなかでも至高のものと云える。平安時代の飛鳥寺玄朝によって描かれたといわれ、安然(あんねん)の不動十九観を忠実に描写したものと伝えられている。たいへん大きな画像で、憤怒の表情にものすごく迫力がある。
青蓮院の庭園は池泉回遊式の庭で、四季折々にそれぞれ異なった美しさがある。「龍神池」は室町時代の相阿弥の作と伝える庭園。粟田山を借景にしてその山裾を利用した幽邃な趣の庭である。池の対岸南に高く石積みした滝口を中心として、東側にかけて柔らかな曲線をえがいた築山が設けられ、その北側に好文亭が建っている。池を龍心池といい、反りの美しい石橋を跨龍橋と呼び、滝を洗心滝という。これらの配置は誠に妙を得、意をこらしたものである。
好文亭の入口の門を背にして眺める「小御所」は、東山の「自然の山麓」が左側に迫って来て、自然と人工の巧みな融合を見せている。右端置かれた自然石の手水鉢は「一文字手水鉢」といい太閤豊臣秀吉の寄進である。ここの紅梅は、3月から4月にかけて、美しく咲き誇り、それが手水鉢の水面に写り見事なもので、写真愛好家ならずとも人気が高い。
また、叢華殿の東側に江戸時代初期の小堀遠州作と伝える庭園があるが、その中でも好文亭裏側山裾斜面から一面に「霧島つつじ」が植えてあり、5月の連休の頃、一面を真っ赤に染める。このことから「霧島の庭」とも云う。この庭は相阿弥の庭園と比べ平面的であるが、統一と調和を感じさせる庭でもある。
「好文亭」は、後桜町上皇が当院を仮御所として使用の際、使った学問所であり、明治以降茶室として活用していたが放火により平成5年に焼失し、平成7年秋に復旧落慶した。本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に木材等の材質も全く同じ、工法も同じで、完全復元された本格的数寄屋造である。四畳半の茶室3部屋と六畳の仏間、水屋等からなる。障壁画13画は上村淳之先生の御奉納による花鳥図。
「宸殿」は御歴代天皇の御尊碑と歴代門主の位牌を安置し、主要な法要を行うのに用いられている。宸殿前に「右近の橘」、「左近の桜」を配するのは、御所の帝の前、先帝を祀るところに在る物で、この建物もその意味を持っている。御所禁裏の事であるが、左右の近衛兵が居る二本の木を示す(禁)その後ろ(裏)に帝が居られる所を禁裏と称して、御所以外で右近左近の木は配するところは限られている。杉苔に覆われた宸殿の前庭は本来白砂を敷いていたものである。宝珠の付いた右の堂は熾盛光堂といい、当院の本堂で天台宗の四大秘宝の一つである熾盛光法の本尊を祀っている。親鸞聖人の得度の場所でもある。
「浜松図襖」は徳川秀忠の息女が後水尾天皇の女御として入内した時に、幕府は女御御殿を造営。その御殿が不要になってから朝廷は各所に分割して賜ったが、この宸殿の前身の建物はその一つで絵も建物に付属していた。使用の仕方が変わったために、画面にはその変更の後が見られるが、よく見れば亭々たる赤松の老木の枝振りも古雅に神韻漂渺たるものがある。
さて、当門跡の飛地境内となる「将軍塚」があるが、桓武天皇が平安建都の際、都の鎮護を呪術的、宗教的にも行おうと、将軍「坂上田村麻呂」の弓を引いている像に甲冑を着せ塚に埋めたと伝えられる「将軍塚」は国家の大事があると鳴動したという伝説がある。
東山ドライブウェイの頂上に、無料駐車場と展望台があり、その駐車場から北へ100m程行くと門が見え、青蓮院の飛地境内である「将軍塚大日堂」がある。庭内には「将軍塚」という直径20mほど、高さ2mほどの塚がある。境内は外観からは想像もつかないほど広大で四季を通じて、いろいろな美しさを楽しませてくれ、洛中洛外まで展望できる見晴らしは絶景で、特に夜景は夜空を地上に転じたような煌きがある。本紙「将軍塚」で紹介。
交通:京都市営バス 5・27系統で神宮道下車、徒歩2分。地下鉄東西線 京阪京津線東山駅下車、徒歩3分。