「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「相国寺」(しょうこくじ)

2006年05月27日 18時48分26秒 | 古都逍遥「京都篇」
 同志社大学学舎の北側に、臨済宗相国寺派本山相国承天禅寺がある。通称「相国寺」で知られる当寺は、釈迦如来を本尊として祀り、永和4年(1378)、室町殿(花の御所)を造営した足利義満(室町幕府三代将軍)によって創建され、後に、夢窓疎石の弟子・春屋妙葩(善明禅師)、義堂周信が、花の御所の東方に大禅寺の建立を志し、明徳3年(1392)から10年の歳月をかけて相国寺を完成させた。春屋妙葩(善明禅師)は亡師夢窓を開山とし、自らは2世となった。至徳3年(1386)足利義満は、京都五山の座位を定め、南禅寺を天下第一の別格として五山の上におき、「天竜・相国・建仁・東福・万寿」の5寺を五山とした。義満は、春屋妙葩の死後は義堂周信に参禅し、政治の要道をも聞いたという。

 当寺は応永元年(1394)に炎上したがただちに再建され、100㍍の大塔も完成したものの、1403三年に落雷のため鐘楼とともに炎上し、以後再建されなかった。高さ70㍍の五重塔は明徳4年(1393)6月立柱した。
 当寺は幕府の援助で栄え、法系にとらわれずに一山一寧系の太清宗渭・雲渓支山らの名僧を住持としたが、応永4年(1397)絶海が住持となってからは夢窓疎石系に限られた。また歴代の住持は学問や詩文にふけり文運は栄えたが禅の法脈は衰退していく。応仁の乱では東軍が西軍に買収された僧の放火で全焼した。

 天正12年(1584)に、中興の祖といわれる西笑承兌が入寺し、豊臣・徳川両氏や後水尾天皇の援助を得てしだいに復興したものの、天明の大火で法堂・浴室・勅旨門を残して全焼。文化年間(1804~18)に再建された。幕末には白隠系の天真集膺・大拙承演(鬼大拙)を招さ、明治に入って独園承珠・東嶽承峻(大拙系)・独山玄義らの名僧が継いだ。明治以降多くの塔頭を廃して寺域も5分の1になった。
 法堂(国重文)は無畏堂ともいわれ、豊臣秀頼の寄進である。桃山時代の禅宗仏堂の代表作といわれ、内部は瓦敷、中央須弥段上に本尊釈迦如来を安置し、天井の龍は狩野光信筆といわれる。開山堂は夢窓像を安置し、戸襖・杉戸は伝円山応挙筆、方丈の襖絵は原在中の筆になる。

 相国寺はまた水墨画と関係が深く、初め禅僧が頂相(肖像画)を描き、画禅一致が唱えられたが、やがて専門の画僧が出た。水墨画の確立者といわれる如拙は相国寺の僧で、その門下に周文がおり、水墨画の大成者とされる。その門下に小栗宗湛と水墨画の最高峰の雪舟がいる。宗湛は周文とともに将軍に絵師として仕えた。雪舟は相国寺に入って僧録司春林周藤に師事し、中国に渡って禅と絵を修行。帰国後大分・山口などに住んだ。
 では、人気の塔頭についてご紹介しおこう。

■林光院
 本尊は地蔵菩薩で、応永年間(1394~1428)に足利義満が子の義嗣の牌所とし
て西ノ京に創建、開山には夢窓を追請した。のち二条に移り、秀吉が相国寺内に移した。
 庭の「鴬宿梅」呼ばれる梅花は、『大鏡』や『十訓抄』に村上天皇の天暦年間
(947~957)に清涼殿の梅が枯れたため、西ノ京にあった屋敷から求めて移植した。その際、枝にさげられていた短冊に「勅なればいともかしこし鴬の宿はと問はば如何
答へむ」としたためられてあり、これが紀貫之の娘の歌であったと伝わっている。また宗旦稲荷は、境内に住む白狐が茶人千宗旦に化けて茶を点じたという伝説をもち、開運の神として信仰されている。

■普広院
 応永年間(1394~1428)足利義満が相国寺九世観中中諦に帰依して建立した乾徳院が前身で、嘉吉元年(1441)足利義教の菩提寺となり、その法号をとって普広院と改称した。

■大光明寺
 文和年間(1352~56)後伏見天皇の女御広義門院が伏見桃山に創建した伏見宮家菩提所で、文禄3年(1594)年に奉書が再建し、西笑承兌を住持とした。元和元年(1615)相国寺山内に移り、のち数度被災して明治初年に廃絶。現在の当寺は1620年以降伏見宮家菩提所となっていた心華院が、明治39年(1906)に改称したもので絹本著色羅漢像(国重文・鎌倉)がある。―(京都府の歴史散歩:山本四郎著より引用)―
 
 交通:地下鉄今出川駅下車、徒歩約5分。市バス同志社前下車、徒歩約5分。

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