「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「禅定寺」(ぜんじょうじ)

2006年05月19日 18時32分22秒 | 古都逍遥「京都篇」
 初冬の暖かな陽射しのなか、国道24号線を奈良方面に向かい、山城大橋の交差点を府道783号に入り、一路信楽方面へと車を走らせた。宇治茶で名高い宇治田原町の農村をひた走り、長山口の交差点を左折して大津方面へと方向を変える。ほどなく走ると禅定寺駐車場と書かれた大きな看板が見え、車五台程しか置けない駐車場に置く。
 心地よい初冬の冷んやりとした風を背に受けながら細長い参道の階段を登ると、丘陵に藁葺きの本堂が見える。「わおー、これぞ山寺」、京都洛中の名刹とは異なって何とも開放感に溢れ、清々しさを覚える。山門の脇には橙色に色づいた柿の実が藁葺きの本堂と調和し、山下清画伯の画材にでもなりそうな素朴さがある。

 禅定寺の創建は、東大寺の別当であった平ら崇上人(へいそしょうにん)が、正暦2年(991)に私領の山野をト定して、堂を建て、十一面観音像を安置したのに始まり、造営に5年の歳月を費したという。ついで長保3年(1001)に、上人は杣山(そまやま)一千町を含む田畑をこの寺に施入したという。
 ここ宇治田原は、古来より宇治田原越え・禅定寺越と称して、山城国宇治より近江の瀬田または信楽地方に抜ける間道で、とくに平安京以前には、近江ひいては東海道に通じる軍事上の要路として重要視された古道である。

 当寺は平安時代には平等院の末寺となり、摂関家の庇護のもとに発展したが、鎌倉、室町、戦国時代と経て衰退していく。延宝8年(1680)加賀国大乗寺の月舟禅師(げっしゅうぜんし)を迎え、加賀藩の家老・本多安房守政長の援助を受け再興し、中興の祖と言われている。
 この山寺で、と驚嘆したのが宝物殿に安置されている仏像であった。日光・月光、文殊菩薩騎獅像、四天王立像(四体)延命地蔵菩薩半跏像の見事な彫りと彩色、砂礫の中から宝石を見つけたような感激であった。いずれも重要文化財に指定され、その昔は国宝級とされていたものだった。いずれも一木造で藤原時代のものである。
 当寺で目を引くのがもう一つ、本堂裏の壁面に大涅槃図(平成11年4月8日開眼法要)が描かれている。これは日本中から広く募集し老若男女たちが思いを込めて3年余りの歳月をかけて描き揚げたものである。
 
 交通:京阪電鉄宇治駅から京阪宇治交通バス25分、禅定寺下車。
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