「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「西本願寺」(にしほんがんじ)

2006年05月05日 07時37分55秒 | 古都逍遥「京都篇」
西本願寺は、親鸞聖人によって開かれた浄土真宗本願寺派の本山で、当初、親鸞の廟所のあった京都東山に創建された。その後、各地に寺基を移したが、天正19年(1591)豊臣秀吉により寺地寄進を受けて現在地へ移り、寛永10年(1633)頃にはほぼ今日に近い姿となったという。桃山文化を代表する建造物や庭園が今日まで多く残されており、平成6年(1994)12月に世界文化遺産に登録された。
 
 では文化財、寺宝について紹介しよう。 
 阿弥陀堂(本堂・重要文化財)は、宝暦10年(1760)再建。東西45㍍、南北45㍍、高さ25㍍。中央に阿弥陀如来の木像、左右にインド・中国・日本の念仏の祖師七師と聖徳太子の影像が安置されている。御影堂(ごえいどう・重文)は、寛永13年(1636)建立。東西48㍍、南北62㍍、高さ29㍍。中央に親鸞の木像、左右に本願寺歴代門主の御影を安置し、重要な行事はこの御堂で行われている。現在、修復工事のため閉鎖され、阿弥陀堂と共に平成20年(2008)に修復工事完了の予定となっている。

唐門(からもん・国宝)は、桃山時代の豪華な装飾彫刻を施した檜皮葺き(ひわだぶき)・唐破風(からはふ)の四脚門(しきゃくもん)で、伏見城の遺構。彫刻の見事さに日の暮れるのを忘れることから"日暮らし門"とも呼ばれている。
 御影堂の前にある大銀杏は、根っ子が上に伸びているように見えることから「逆さ銀杏」とも呼ばれており、国の天然記念物に指定されて、秋には天を覆うほど、黄金の小判をふりかけたような銀杏葉に目を奪われる。
 書院は、寛永年間(1624~43)に多く整備され、南側には鴻の間(こうのま)と呼ばれる対面所、西隣りに雁の間(がんのま)、菊の間など、北には白書院がある。対面所と白書院はもともと別棟だったらしく、後に結合されたという。いずれも豪壮な書院造りの代表作。鴻の間は国宝に指定されており、203畳敷きの大広間。上下段の境の欄間(らんま)に雲中飛鴻の彫刻があるので鴻の間ともいう。上段の床には張良が四賢人を率いて恵帝に謁する図が逆遠近法で描かれ、障壁画は狩野派の渡辺了慶筆によるもので、華麗で重厚な趣が深い部屋である。下段左右の襖絵と上段床の絵の絵の具にはすべて鉱物質が使われているため(金、銀、水晶、珊瑚、銅の錆)、400年の年月を経た今でも美しい彩色を残している。書院「雀の間」(国宝)は、襖に竹やぶの竹の間を飛び交う雀が描かれ、始めは68羽いたらしく、現在では66羽。飛び去った2羽のことを抜け雀と呼んでいる。また、天井には四季の花が36種描かれている。

 雁の間(国宝)は、襖と貼付には飛翔する雁の群れや水辺に遊ぶ雁を描いて、秋の風趣を表している。また隣接する菊の間との間の欄間には雁を透し彫りにし、隣室の月が眺められ粋な感じがする。菊の間(国宝)は、襖に濃彩で種々の垣根と秋花や菊を描いて、華麗な趣きを漂わせている。白書院(国宝)、賓客を迎える正式の書院で、一の間、二の間、三の間からなり、一の間は紫明の間ともいわれる最重要の間で、上下段に分かれ、壁面や襖等には中国古代の帝王堯舜(ぎょうしゅん)に関する故事が描かれている。また、三の間は華麗な孔雀を描き、孔雀の間ともいわれ、能舞台にもなる部屋として工夫されている。黒書院 (国宝)は、一般には非公開になっており、粗木を用いた私的な室で歴代門主が寺務を執った所。
 南能舞台(重文)は、現存する最大の能舞台で、毎年5月21日の宗祖降誕会に祝賀能が演じられている。白書院前にある北能舞台(国宝)は、懸魚(げぎょ)に天正9年(1581)の墨書紙片があり、日本最古の能舞台と伝えられている。
 特別名勝となっている虎渓の庭(こけいのにわ)は、中国廬山(ろざん)のふもと虎渓を模して造られたといわれる江戸初期の枯山水庭園で、御影堂の屋根を廬山に見せた借景の技法を取り入れている。

 所在地:京都市下京区堀川通花屋町下ル。
 交通:JR京都駅より市バス、烏丸中央口前バスターミナルから9・28・75(西賀茂車庫行など)に乗車、3つめの西本願寺前で下車。駅から徒歩で15分ほど。

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