伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

読売書法展開催国立新美術館で見学、古代ミステリー 海の縄文人、丸木舟を飛鳥山博物館で探索。

2023年08月27日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

先日愛知に暮らす妹から連絡があり、読売書法展で読売奨励賞受賞したそうで会場は《第1会場》国立新美術館《第2会場》東京都美術館である。
アクセスは意外と都合よく北総公団鉄道町屋駅にて東京メトロ千代田線「乃木坂駅」6番口直結して雨天も気にせずにドアツードアである。
この国立新美術館での開催は初日とあり、まずまずの人手が多く、受付は混雑し詳細を調べるも手間取りました。



「カナの部」は国立新美術館での開催の為、今回交通は電車で向かった、実は帰りに飛鳥山の博物館探索も実行したく早めの朝9時頃出発する。

どうも忘れがちな常備品、この時期は氷入り麦茶の水筒と扇子と帽子は必需品である、いつでもどこでも飲める冷たい水筒は真夏の必需品で、この時期は給水は大切で、また熱中症予防にもなる。



経路は北総線白井駅から出発し、町屋で千代田線に乗り換え乃木坂下車で国立新美術館到着は車より便利でこの近くは駐車場も少なく電車でのアクセスは便利である。 設計監理:黒川紀章が波の様なうねうねとしたガラス張りの建物は有名である。会場は1・2・3Fと使い出品もかなり多い、他の上野の東京都美術館でも繰り広げる様です。



案内で場所を検索し2B -4会場を見つけ1Fで役員関係の作品を見ながら妹の作品を見た、妹曰く読売書法展で読売奨励賞は前から欲しかった賞であると言っていた今回やっと念願が叶った様である。



前回の日展の会場が少なかったと思うほどである、出展数が多い様に思う。
妹の書が読売奨励賞を頂いた作品でした。恥ずかしながら筆者は書の知識は全く無いのですが・・・(笑)。



先ずはおめでとう!次は日展ですね、頑張って下さい。

モダンな国立新美術館を後にして、次は駅までの距離があり少し歩くが大江戸線の六本木駅から乗車し麻布十番駅で南北線に乗り換え王子駅着、昔は王子駅はJR駅と都電しかなかった様に思うが便利になった交通網である。

この辺りで昼食にする、王子駅近のお蕎麦屋で喉越しの良い冷たい山かけ蕎麦を頂く、それと近くで立ち飲みの温かい珈琲を注文するが上手くは無かった。

この王子辺りは余り昔から縁遠く場所は下町なので美味しいお店のあると思うが、全く皆無で駅近くで、こ綺麗な蕎麦屋に入った、蕎麦の量は盛りも良く満足であった、食事の後の蕎麦湯は実に好物でしっかり頂きました。蕎麦湯を飲みたくそばを食う、今後新蕎麦の時期となるが楽しみでもある。



それから飛鳥山に向かう、展望台まで簡易なモノレールがあり乗車するとエアコンが良く効き快適であった。乗車時間は2分程度であるが・・・。
確かに東京と言う割には都市は意外にも木々が多く植わり公園等も備わっている為森林地帯が多く存在する街である。

勿論この王子、飛鳥山も江戸時代に整地され桜の名所として公園になった事は有名ではある。昔読んだ小説の内容だが何故か帝大入試問題で飛鳥山について述べよとの問いに田舎出身の受験生は可哀想であると思った箇所を何故か思い出す。



勿論本の内容だがこの飛鳥山は江戸時代の享保年間に行楽地として整備され春は庶民の桜の名所にもなっている、現在も桜の名所にて一度春の桜の時期に訪れるのも楽しいかもしれない。

来年新一万円札になる園内に残る旧渋沢栄一旧邸もあるそうだが、今回は博物館探索に決めており飛鳥山博物館に向かう。



桜の時期は上野公園とも人気な桜の名所としても有名である。モノレール下車して博物館にはゆっくり歩けば7〜8分程で到着する、飛鳥山は小高い丘上になっていて途中青々とした樹々が涼やかで児童公園には都電も掲示されていた。
途中にわか雨が降り出したが5分ほどで小振りになり目的地に到着する。

それを見ながら通過し、意外と簡素な建物が飛鳥山博物館であった。入場料は300円也でしたが高齢者は150円の割引です。撮影したい方は入り口にて撮影許可証を頂いてください(フラッシュ禁止です)。

少し前に青森の三内丸山遺跡の集落を訪れたが、この縄文時代は実にミステリアスで大変面白い世界であり、学生時代に簡単に学んだ日本の歴史を今学んでいる様である。現在日本には1万箇所以上ある遺跡巡りも実に興味深さがある、未だ発掘作業は途中で、これらの事が明らかになれば我々大和民族のルーツが解明出来ると思えば益々興味深い。

これこそ日本が世界に発信できる日本文化そのものである様にも思う。次の時代に世界に発信できる国は伝統文化のある日本が相応しいのかも知れない。



筆者が唯一BSのNHK番組放映を楽しみに観る、英雄たちの選択  追跡!古代ミステリー 海の縄文人放映した船の展示が飛鳥山博物館で見られる、丸木舟の情報を知りたく、是非現物を見たかった為に今回やっと念願が叶った。

意外と船の幅もあり深く削れているのが特徴的で、或程度の波にも十分波対策は得られるであろうと想像できる。丸木舟で台湾沖縄の横断は可能であるであったのだろう?海上公開について食料、飲料は如何に補給したのか不思議なことは多く益々興味深くなる様である。
この丸木舟のポテンシャルはどの程度の性能があるか色々想像するだけで我々の祖先海の縄文人は何を考えていたのであろう?そうの様な事を思うとロマンで胸が高鳴るのを覚えた。

以前丸木舟での台湾〜沖縄航海は横断成功したとの報道があり、驚くとともに実証されたことでの丸木舟の海上航海は事実となった訳である事が判明した。
勿論日本から見渡す太平洋上には火山活動が盛んな小さな島々が続いて存在し丸木船で島から島へ伝わりながら洋上を丸木船での往来は可能であった事であろうと想像できる。
或程度の水、食料を積み未開の海のの航海を楽しみも含め正に海への浪漫であったのであろう・・・・・。



基本的には日本列島は周りは海に囲まれた島国であり、食料は勿論海からの恵みに恩恵を受けた人々であろう。島々を渡りながら進めば西太平洋のミクロネシアにある米国領の島グアムまでも航海可能である。又台湾ルート航海を考えれなマニラ、フィリピン、インドネシアの航海も可能である。夢は広がる世界観でもあろう。

以前から山内丸山遺跡も丸木舟による海からの道が出来ていた記憶も新しい、今回興味深く見学したが、益々興味を抱いたことは、海上での獲物確保と、海洋交易である、黒曜石等勿論大切な琥珀等も産地から輸送したのであろう。

物の運搬は舟が一番手軽であるが、日本列島は島々が多く北から南まで随分長い、海を自由に航行できれば一番手軽だとも思う、日本列島を取り囲む「海」と古代人の関わりを示す新発見が相次ぎ、「海」を通して古代人のこころの解明に注目が集まっている。


丸木舟に関する上記パネル掲載にはムクノキ使用とあるが、ムクノキの葉は、葉の表面に光沢はなく、両面とも細かな剛毛があってザラザラしており、乾燥させた物はトクサと同様、紙ヤスリ代わりに桐の箪笥などの家具、象牙、鼈甲(べっこう)、漆器の木地などを研磨するのに使われるそうです。
舟表面を磨き防水並びに表面を研磨し水の抵抗を防いだのかも知れない、現在の研究では人類は1,400CCが脳の重さと言われるが最近人類の脳の重さは若干減っていとも言われる、縄文時代当時は覚えることも多く現在と違った脳の働きも必要とした時代であったのかも知れない、正しく海の縄文人の知恵なのであろうか?と驚く次第である・・・。

今回は、海の縄文人の世界に迫る・・・。
1万年以上続いた縄文時代の後期、突如、貝で作ったアクセサリー「貝輪」の一大ブームがあったそうである。なかでも、美しい輝きを発するオオツタノハの貝輪は珍重され、勿論展示もあり、東日本一円から出土している。この謎に包まれた貝の生息地を求めて各地を探し回っている考古学者もいる。



テレビ画面ではオオツタノハ採取の瞬間を放映していたが、オオツタノハを加工した「貝輪」は実に綺麗な真珠のような色で光り輝いていた。

このほか、全国各地から多数出土した縄文人の丸木舟、さらに技術的に現代のものに負けない骨格製の漁労具などから、知られざる海の縄文人の謎めいた事実も探ってみた。


この丸木船の形状を見ればわかるが木の中心部は船の舳先の下になっているためUの字の上の部分まで船が構成され、波にも負けない構造をしている事は解明できる、実験ではこの木を見つけ、木の伐採工事から丸木船にするまで磨製石器を使用し製作してする時間は20人程の人材で一ヶ月以上はかかると言われる。
その後航海後のメンテナンスを考えれば社会組織も必要になるのであろう。後は航海術、夜間の方位を調べる方法等必要事項も多い様に想像出来る。

しかし一番不思議に思うは、石器時代に「火」を扱うこと、「各種の道具」を扱うことの知識は如何にして湧いたかの疑問だ・・・今後も科学が進み多くの事が解明できればその様な謎も解明できるのかもしれない。


丸木船の舳先の部分です、波の影響も防ぎ安定な航海を考えての制作方法であろう。また当時は海の面積も多く締め、海上輸送が頻繁に行われた様である。

食事の支度、時期世代の子供も考えれば約100人程の人口は必要であり、また船の加工も表名を燃やし防水磨き摩擦抵抗も無くした跡もある様です。同時に海運も従事していたのであろう。造船技師、航海技師もいたのであろう、益々興味尽きない縄文文化であろうか、磨製石器で生活した先祖達に驚くのである。



筆者も思うは昔から海洋国であった事は事実であり、水路を利用した生活は今も続くが湿地帯である江戸に徳川家が入り、関東は隅々まで水路で繋技、上下水道を整備して利根川の流れまで変え、生活圏は住みやすい江戸時代で花開き明治、昭和時代まで続いていた。また海洋では暖流と寒流がぶつかり実に良い食料にも最適な漁場も見逃せない条件であろう偶然の重なりとは言え平和な国であった。

縄文時代は人類が獲物を求め移動生活と言われたが当時は海産物等豊富で移動しなくとも食卓は豊で穀物は栗など木のみが豊富であり栽培も盛んに行われた次第である。日本は間違いなく海洋国であり海と共に背活を営んでいたと想像できる。


ここで古い関東地方の5〜6000年前の地図であるが、手賀沼も大きな湖と分かる水源地はご存じ柏のこんぶくろ池である。関東地方は海の湖に囲まれた世界であり手賀沼、霞ヶ浦とは繋がっていた事がわかる。

此処とは別の場所にある「江戸東京博物館」に掲示される縄文海進とは、最終氷期(現在からみて最も新しい氷期。数万年前~1万年前ごろまで続いた)以降の海面上昇に伴い、縄文時代早期~前期に現在の海岸線よりも奥まで海が侵入したことを指す。



「この図の見どころは、縄文時代の貝塚遺跡の多さを実感していただくことです。それに加え、自分自身の住まいが当時はどういうところであったか(海!)探していただけると楽しめるかと思います。そして周辺の貝塚に興味をもって訪れていただければ幸いです」上記のようなコメントが残されていた。
確かに埼玉にも海は存在し、茨城も霞ヶ浦も内海で陸地は北側の日立市からの陸地で千葉も上総が先に繁栄し島の状態に近い。三浦半島から海を船で航海すれば近い上総である、関東地方は海が広がり遠浅の海洋生物が多く食料事情も良い事が想像出来る。当然貝塚も多かったのであろう事が判明する。

一番驚くは奥東京湾が表示されて川越奥まで続くまで海並びに湿地帯であった様に示されている、勿論現在の埼玉は海であった様である。丁度ここ飛鳥山付近は海岸近くであった様に地図には明記してある。


次の展示物は黒曜石の原石である、以前にも述べたが神津島で最高の黒曜石が取れる場所そして世界最古の記録を持つ場所です。恩馳島は、神津島の前浜から見える離れ小島で、天候によって神津島からの距離感や見え方が変わる不思議な島までこの丸木舟の航海は正に命賭けである。

後はブレスレット「貝輪」の事ある、聞くところ貴重なオオツタノハの貝輪は大規模な集落でも1~2点しか発掘されていない。更に詳細な生息地も定かで無く大変貴重な人気の貝であったようである。
見知らぬ小島の大潮の干潮時に現れるオオツタノハは貴重品であったと言われる、一変的にはベンケイガイの貝輪が一般的であったと言われる。


縄文時代の研究は始まったばかりで今後新しい情報が期待できる面白さがある。


飛鳥山博物館にも様々な貝塚の展示があった。中から人骨も出土している、の本の土壌は弱酸性で骨は溶けて無くなるのですが、貝塚周辺位は人ことも見つかっている。



これは栗の木の化石である、当時栗の木は巨木でありそれも山内丸山遺跡の謎の高層建物も栗の木を用いて製作している。

縄文から弥生時代に変わるが、面倒な穀類の農作物作りは地球の温度変化によって自然に生活様式が変わって行ったのであろう、土器も低温で仕上げた土器から高温で仕上げる様になり薄く丈夫などきに変わって行ったのであろう。
穀類の長期の保存ができる米主体の生活に変わり緩やかに過ごしやすい時代に変わって行ったのであろう。


続いて弥生時代に移る為、土器は薄く食事は現在に近づいてくる。弥生時代から古墳時代と日本には多くの人達が移り住み平和な時代が続いてのであろう。
その後幸いにもモンゴルの来襲にも屈せず征服されなかった事は日本独自の歴史を続ける事になった。
この様な事は日本人のDNA解析で証明されている、もちろん朝鮮人、支那人はモンゴル系統の系統が流れている事は証明墨と言われている。


食事の支度の展示品である、注意深く観察すれば昭和初期時代の食卓にも共通する感じが強い、実にバランスの良い食事でもある。特に現在のキャンプに近い。

現在日本食は実に健康的な栄養バランスで仕上がっている為、肥満傾向の海外の人達も日本食を大変興味深く考察している様である。


農機具の展示もあるが、形は今でも使えそうである。


そして面白きは江戸時代のお花見等に使ったお弁当等の展示がある。

江戸時代はやはり白身の魚が多く赤身魚はカツオが多いよ聞く、マグロのトロ部分は痛みやすく脂身の為に処分されていたと聞くが、保蔵手段が無かった事が調味料にも酢、醤油等を用い保存方法を考案した事が最大の理由であろう、写真を見ても分かるが大変美味そうである。


甘いデザート(お饅頭)の重もあり実に美味そうである。思えが一般的に和食は昔から余り変化はないらしい。


今現在海外から日本への旅行客も増えているそうでが、意外と和食に人気があるようで、和食の栄養のバランスも良く健康維持には日本食は良い食文化と言われるそうである。
現在支那は原発事故の処理水問題で勝手に騒ぎ、食品は全面的に輸入禁止状態であるが、美味しい海産物は日本で消費しましょう、健康のためにもバランスの良い海産物を摂取しましょう。


地下部分が博物館で構成された手軽な博物館でした。帰りは今回2回目の乗車する都電を利用しました。


王子から乗車した都電ですが、意外と混んでいました、町屋までおよそ20分程で到着する、何か懐かしい都電で旅であった、町屋からは北総線経由で今回の散策は終了します。

話は変わりますが、現在ネットでもお馴染みの如く「中国の崩壊」「中国地方都市不動産の闇」等の記事が多く新規雇用の就職率も異常に低いが、お隣の国の支那では日本の食品全面輸入禁止処置が実行され騒いでますが、美味しいお魚は日本人が食べましょう、又旅行先にも日本には渡航禁止法案が提出されたと聞く、大歓迎である。日本人の生活リズムを乱す常識知らずで、大騒して五月蝿い団体支那人の来日禁止は実に良い法案である。一刻も早く法案成立が望ましい。
支那の政策はナイス近平である、ブラボー!

5,500年前の三内丸山遺跡のロマンを訪ねる、縄文時代の前期中頃と言われる広大な遺跡の考察。

2023年06月28日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

我々の祖先でもあろう日本人のルーツ、氷河期が終わるとともに、石器を主な道具としていた旧石器時代が始まり、その後終わりを告げ、縄文時代以前の「岩宿時代」の存在を裏付けた事から始まりました。今後旧石器時以前の時代の物が発見されるかもしれませんが・・・・?

戦後間も無く1946年に民間考古学者「相沢忠洋」により両毛線岩宿駅近くから局部磨製石斧を含む石器群で、3万5000年前の後期旧石器時代初頭の石器が採取された岩宿遺跡から始まったと言われる考古学であり、その後日本全土で発見された遺跡は一万ヶ所以上あると言われているが、今回東北での広大な三内丸山遺跡を訪ねた。

約1万5,000年前に縄文時代が始まりました。縄文時代の開始とともに、磨製石器に変化したり、新たに土器が出現しました。縄文時代の人々は、土をこねて思いどおりに形を作り、火熱による化学変化を起こすことで、より強度な容器を手に入れました。それにより、「煮る」などの調理や「貯蔵」も容易となりました。
今回この三内丸山遺跡だけでも1500年以上の平和な暮らしが続いた遺跡の見学は想像を育む世界でもあろう。




三内丸山遺跡に関する最も古い記録は江戸時代に遡ります。県は野球場をはじめとする新たな施設整備が計画されました。工事着手前に発掘調査を実施することになり、平成4年から開始した調査では、大量の遺物が出土しました事で見つかった三内丸山遺跡である。

上記は三内丸山遺跡の全体マップである、全体で約42ヘクタールありこれは東京ドーム約9個分の広さです。
と同時に遠くから安全に獲物をしとめることができる弓矢が使われ、魚介を獲るための釣り針、銛などの漁労具の開発も進みました。さらに、イヌが飼われ、植物の栽培も行われるようになりました。縄文時代は、食料を主に採集・漁労・狩猟によって得ていました。
特にこの時代は温暖で、この地域には豊富な食料にも恵まれ永く定住したのであろう事が想像できる、簡易な木の実の栽培もおこわれていたのであろう。


流行り病の為、自由な移動が出来ない時代が3年間も続き、前回の温泉巡りの旅の2回目である、今回は筆者も大変興味深い、縄文の世界を覗く旅になった。幼少期社会の時間で教えられた縄文時代の生活とは全く違い、この様や遺跡は日本尾あらゆる場所での発掘が行われtりる様である、今回訪れる三内丸山遺跡に至っては平成4年(1992年)から始まった発掘調査で明らかになった様である、今や世界文化遺産に登録されている。

新幹線乗車までは通勤ラッシュもあり混雑したが、上野から新幹線に乗車し盛岡から北東北までの旅である。



取り敢えず皆との待ち合わせ場所の盛岡まで東北新幹線での旅、所要時間は約2時間30分程で到着、ゆっくり前日に購入した「anajog」の冊子を見なが駅構内での淹れたての珈琲を飲みながらは意外と速い時間で到着する。
本の記事内容はLINNのレコードプレイヤーの記事を読みながら、発売当時から
定評のある音響機器レコードプレイヤーは定評がある、最新の機器はは大変高額になっていた、これは雑誌でしか楽しめない商品である。

最後の記事には「オーディオマニアは皆んな病気なんです」のコメントに妙に納得を覚えるのでした。



正午盛岡到着である、友人達が盛岡駅北口に迎えに来ている、久しぶりの再会である、丁度お昼の時間でもある。
ゆったり出来る隣のホテルメトロポリタン盛岡のホテルのレストランでランチタイムを頂きながら、今回の2泊3日の予定を告げられる。年齢は皆近く70歳代の高齢者で久々にお会いする元気な顔に安心を覚える。



ランチを済ませ車に乗り込み青森の目的地三内丸山遺跡に向かい出発する。
盛岡市街地より高速道路は若干混雑していたが、高速は順調である、関東の道路事情とは全く違い実にスムースに走る、しかし冬場は積雪のために舗装状況は関東とは違う感じがする。
しかし皆さんそれぞれの投薬は持参している状態である。

青森から八戸の旅である、途中浅虫温泉等遊び心の多い旅である、また漁港としても有名な八戸は街は意外と盛況であると言う、毎週日曜に行われる朝市は一度は見学の価値は高そうである。と教えられた勿論最終日は朝市見学予定である。



約2時間弱で青森の目的地に到着する、到着したの午後のため入り口近くの駐車場も空きは多くすんなり早速駐車場に車を止め、入り口での記念写真である。

天候は曇り空ですが、雨は免れる模様であり三内丸山遺跡見学はゆっくりみられる様である。



早速入場し入り口には大きな縄文土器のモニュメントが印象的であった。入り口の壁面には断層のモニュメントが施してある。

今まで縄文時代の生活は獲物を求め定住しなかったと言われる縄文時代の生活であるが三内丸山遺跡は定住した痕跡が見られ有名な6本柱で長方形の大型高床建物が建てられ今までの常識を覆している。
学生時代に教わった古代日本史は今思えば全て全く違う世界であり大変興味深く大きな発見があった、日本の縄文時代が素晴らしく平和な世の中であった。



早速入り口にジオラマ付近で見つけた。小冊子があり早速見ると。なんと昔お付き合いしていた、東北エリアマガジン rakra ラ・クラが編集する三内丸山遺跡の小冊子を見つけた、当時お付き合いしていた代表は既に引退しているが、東北に情報誌小冊子はrakra ラ・クラ独自の雰囲気が漂うものであった。




本人とは、今は全く連絡は取れないが元気で引退生活を謳歌していることをの望む、昔は仕事もお手伝いしたことがありrakra ラ・クラの名前は大変懐かしく感じた。

時間的に本日最後のボランティアガイドで遺跡見学できるので早速申し込み本日です最終の案内された、案内の中年女性曰は、筆者が手に持つ小冊子を見つけこの冊子の案内の写真は私ですと始まった。説明は若干青森弁が混じり所々方言の不明箇所もあったが、最北端の青森に来た実感を覚える。この各地方独特の方言の語源は実に聞き取りにくいが楽しい味わいでもある。


全体を縄文土器に見立て、北海道と北東北の形を、縄文時代のパワーを象徴するような渦巻きの形で繋いでいます。
図形の色は縄文時代の漆器や土器にみられる赤漆色とし、構成資産の分布している範囲を濃い目の色のグラデーションで表現しています。

デザインの左右に「縄文」の文字を、下部に「JOMON JAPAN」の文字を配置しました。「JAPAN」には「漆」の意味もあります。



「漆」についてアジア大陸に自生していた「漆」の木は、縄文時代(約16,000年前〜2,900年前)に日本列島に伝わり、広がったと考えられています。 福井県の遺跡で発見された木材を2012年に調べたところ、約12,000年前の「漆」であることが分かりました。

先ずは三内丸山遺跡のロゴの説明から、これが漆なのであるそうです、漆といえば昔の知り合いに浄法寺町の頃の町長(現在は引退)赴任中から東北浄法寺町の漆の質は大変上質で金閣寺、日光の東照宮等の塗り替え工事には全てを浄法寺町の漆を使っている等営業したと自慢された記憶が残る。金箔を貼るには質の良い漆は必至な接着剤だそうです。質の悪い漆を地ようすると「金閣寺」でなく「黒閣寺」になると笑っておられた事が印象的でした。縄文人達も確かに接着剤としての使用範囲は大変広い様である。接着剤としてはアスファルトも使っていて多様です。



上記写真は、お土産に購入した縄文ロゴ入りのTシャツである。

参考にしてください。YouTubeの三内丸山遺跡案内です、【解説付】縄文時代にタイムスリップ!三内丸山遺跡(青森県)



ボランティアガイドをして頂ける本地最後のガイドさんです、小冊子にも登場されてます、跡の規模は、全体で約42ヘクタールあります。 これは東京ドーム約9個分くらいになります。発掘調査によって集落の構造が少しずつ明らかになってきましたが未だ発掘途中で後30年ほどは作業が続くそうです。


縄文の道路脇に当時の知名人が眠るお墓でそうです。道路を両側から見守っている様に配置されたいる。


丸山遺跡中心部に小高い丘があり、そこが一般の墓地が並び、出土すると一緒に埋葬した土器が発掘されている、人骨は日本の土壌は弱酸性のため今や土に帰っているそうです、しかし僅かながら亡骸からは紐状のものから僅かな漆素材が見つかっている様です。


この建物は一般的な家庭であったと思われる住居後である。


他には高床式の住居が並び意外と精巧な作りとなっている。食料品等の保存用に使われたものであろうか?

当時から多分ネズミ被害防止策とし高床式の倉庫としても重宝したいたのであろう。


近寄って見ると簡単には入居できない工夫おあり、資料館では魚の骨もあり1メートルほどの鯛の骨も貝塚から見つかって現在展示されている。


縄文人達は意外と規律は正しく。壊れた土器等は場所を決め廃棄処理していた事がわかる。まさに当時は北陸地方、北海道地区久慈地方との交流もあり、海洋交通も盛んに行われた様であり、どの様な船で海洋交通をいていたのであろうか?
言葉は話したのであろうか?文字は如何に等疑は尽きない・・・


これは壊れた土器を集めた場所である。
不思議なとこは次々に頭によぎる、次には子供のお墓である、当時出産は生死が虎理合わせでの作業であったようで、また子供の頃は抵抗力も弱く成長が不安であったと思われる。子供専用の墓地であり、使われた土器に入れ埋葬し土器の後ろに小さな穴をあけ、蘇ることを祈ったのであろう。



亡骸を入れた土器は斜めに埋め此の場所に何層もの同じ形式の土器が発掘された様である。



大型掘立柱建物跡
地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。

しかし縄文時代のこの時代には数値に詳しく、柱をわざと傾かせ強度を計る等は建築設計者が居なければこの柱建物は出来ない様に感じるが・・・?



高さ15メートルある大型掘立柱建物は、ガイドさん曰くこの建物の補修したときに上に登れたそうであり、上からの景色な陸奥湾まで見渡せ勿論津軽の海も見えたそうです。
この建物は何の為に作ったのかは未だ不明である。何れにせよここから見えるのは近隣の海の様子でもあり海洋国に相応しく丸木船の目印になっていたのかも知れない。謎は深まるばかりである。



多分ドングリの柱の創作には黒曜石の刃物が使われたのであろう、ノミの様な道具でも製造したと思う、しかし見学していると縄文時代の想像をするのが楽しみでもある。縄文人は暮らしやすい村を構築して行ったのであろう。

直径1メートルのドングリの木の櫓で組み込んでいるそうです、しかしこの建物は設計者がいなければ建築は不可能と思う、当時は文字も言葉も使った板等に思う、1400CC程の脳の重さがある縄文人は現在の脳と同様とは驚きでもある。



少し面白いお話ですが、木の実等(桑の実等の果実を発酵させ簡単なお酒も作っていた様であり、神への捧げ物とし記念日などには皆で楽しんだのでは無いのかとの思いに耽るが、お酒作りも発見されている様である)全く現代と変わらない生活を感じる、と同時に今の生活より平和度は高い様である。

長さが10メートル以上のものを大型住居跡と呼びます。三内丸山遺跡では最大のもので長さ約32メートル、幅約10メートルのものが見つかっています。
復元されていて内部を見学することが出来ます。
この建物も個人用の建物同様建物の床は一定の深さを掘り其処に柱を建て屋根を配置し、中央で火を焚き柱等の腐食を防ぎ実に日本建築の当初の建て方と同様であり学ぶ事も実に多くある様である。縄文土器のお陰で煮る、茹でるの新しい調理用は食材を丁寧に調理し常に食卓を豊かにしてのであろう。

下記写真は大型住居跡の内部で写真です。



集落の中央付近から見つかることが多く、集会所、共同作業所、共同住宅などの説があります。
中央から建物を見ると柱が鳥居に見えるは筆者だけなのであろうか・・・?皆で神々の信仰も行なっていたのであろう・・・・・?



大型住居跡の柱を見て何か感じませんか?東側に鳥居の形してませんか、共同礼拝所であったのかもしれません。



大型の縄文土器の展示物。特に食の新しい料理方法に変革を起こした土器類は調理は焼くから、煮る、蒸すという新しい調理方法の発見であろう。
旧石器時代から縄文時代に入りの革命は土器の発明であろう、食文化が大幅に向上し平和に豊かにと変化してのであろう。


上記縄文土器は現在でも使えそうであり、5000年以上前から煮物等に使っていたと言われる。



ヒスイ:約600キロメートル離れた新潟県糸魚川周辺から運ばれました。原石、加工途中の未完成品、完成品の珠などが見つかっています。非常に硬い石で、その加工は熟練した技術と知識が必要でした。
黒曜石:ガラスとよく似た、鋭く割れる石です。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてきました。 
コハク:岩手県北部の久慈周辺から琥珀の原石が運ばれてきました。ここで加工され、他の集落へ運ばれたものと考えられます。

ここで想像できる事は縄文人は大変に平和であったのであろう、食料もある程度豊富で、ある程度整った衣服を身につけている。次には珍しい琥珀、翡翠等の装飾品を身に纏いお洒落も楽しんだであろう、豊富な魚介類に囲まれ穀物は栗、椎の実、ドングリ等の穀物を食べ生活を楽しんでいたのであろう。

閉館時間も近くなり青森の宿泊地に出発です、ホテルチェックインした後取り敢えずビールで乾杯。その後は新鮮な魚介類で縄文の世界を語り合った。


本日は青森の新鮮なお魚をたっぷり頂きなが縄文時代の話が盛り上がり、老人の歴史勉強で盛り上がった様です。
このブログはもう少し前に仕上げたかったのですが、東北と関東の温度差の違いに体力が付いて行けなく、上野に到着後大変身体が暑く感じた、体調を整えるので時間が掛かった、確かに老人の世界に足を踏み入れたと実感する、この後の旅行の続きは後日掲載予定します、縄文の世界にブラボー!

コロナ禍も落ち着き、久しぶりに両親の眠る蒲郡にある墓参りに、今話題の頼朝の御家人安達藤九郎盛長墓所を訪れる。

2023年04月20日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

なんとコロナ禍の影響もあり4〜5年ぶりに両親の墓参りに愛知県に車で出かける、此の車での遠乗り(往復約六百キロ)は初めてである。5月は皐月晴れと良い天気は良いのですが、地球の環境の変化あで、生憎の雨模様で富士山は見えそうにない。道路はすこぶる順調で早新東名に差し掛かる、しばらく走ると新沼津を抜け途中富士山の頭が見えた。

此の後またたく間に雲の中に消え姿は見えなくなった。途中新静岡で飲料補給とトイレ休憩を挟み無事音羽蒲郡インターを下り360キロを走破したガソリン補給は約20リットルとリットルあたり18キロ強とノーマル車(トヨタスペード1.5l)としては随分燃費がよい車である。現在化石燃料は廃止され全てEVにと言われてますが、正しい選択であろうか知識人は化石燃料の効率を高めたエンジン車が地球環境にも良いとされているようでEUは間違った方式を選んでいる。

この燃費問題は基本的には化石燃料使用のもたらす仕業で周りに海で囲まれている日本ではCO2は海水に溶け込み酸素を作りプランクトンを生み出し自然環境には良いと思うが。其々の国により自然環境の違いであるので、日本独自の環境問題の数値を提出するべきであろう、この国の政治屋は何時の間にか間違った政治を行う様になったのであろうか・・・?一番の悪は気候温暖化の嘘を信じている政府が最悪である、流石政治は三流国家である。
先の大東亜戦争での敗戦で、奴らアメリカの属国に成り下がった日本は一刻も早い真の意味での独立をしなければならない、それには取り敢えず日清戦争以降の正しい歴史認識を学ぶことが必要である、



この写真は新東名の新沼津付近である、今回の旅は両親並びに世話になった親戚等の三ヶ所の墓参りである。

順調に無事蒲郡到着、妹宅にてコーヒーを淹れていただく、そこに合った中日新聞に竹島の写真が掲載されている、生憎の曇り空で撮影には最低な条件だが、一度撮影してみようと翌日早起きして覗いてみた。
現在でも蒲郡の最強のパワースポットと言われる、「竹島」長さ387メートルの橋で陸地と結ばれた、蒲郡のシンボル・竹島。島の中央部には、開運・安産・縁結びの神々を祀る実に日本人らしい「八百富神社」があります。 



因みに、竹島に鎮座する八百富神社は、平安時代の養和元年(1181)の創建で、蒲郡開発の祖・藤原俊成が竹生島から勧請したという言い伝えがあります。
また蒲郡とは、蒲形(かまがた)と、西郡(にしのこうり)が合わさり蒲郡となったと聞いた事がある。
約300年前の宝永4年(1707)の序をもつ『三河雀(みかわすずめ)』という地誌には、「日本七天女」として、江の島(神奈川県)、宮島(広島県)、天河(奈良県)、竹生島(滋賀県)、布施(千葉県)、野尻(長野県)と並べて「三州竹島」が挙げられています。いわゆる弁天様の事である。

他の地誌にも「風景佳也」と記されており、竹島は古くから観光名所として近隣に知られていたようで、享保20年(1735)に「八百富神」の御神号を賜っています。



また学生時代の友人は週末に現在ボランテアにて竹島付近の案内をしているそうである、意外と同級生は地元で過ごしている人が多いようである。

島の中央に島まで渡る橋が続いている、島はいろいろの神様がお祀りしてあります。詳細は下図をご覧ください。



対岸から約400mしか離れていないのに、本土とは異なる独自の植物体系を持ち、その特異性から島全体が国の天然記念物に指定されています。この先にも大島、小島とあり、昔は夏時期は遊覧船が蒲郡港、三谷港を往来し海水浴客が賑わっていたが現在は筆者には不明であった。ただ記憶に残るは幼少の頃大島で海に潜って採ったアサリは大きく、凄く美味かった記憶が残る。

此の地域は益々過疎化し人口も増えない情態であり兎に角活性化が必要である。環境良い下地は沢山ありほんの少しの調味料で大化けする可能性は大きいかも知れない。この辺りは昔は東三河と言われ岡崎の西三河とも若干違った環境化にも地学的歴史的にも興味深いのかも知れない。
筆者が思うことは昔から三河の糞塊(クソカタマリ)と言われ外部との交流は苦手意識もあり他県で生活すると温暖な環境三河湾特有の穏やかな海後は山で囲まれ神奈川の鎌倉より生活は住み易いのかも知れない、ただ三河気質は馴染めないかも知れない。最近のは古くから親しまれている竹島水族館はスタッフが色々のイベントを実行し最近は客足増員しているそうだが喜ばしい事である。



下の写真は昔有名な常盤館跡地だある、料理旅館「常磐館」は、1912年に滝信四郎氏により竹島海岸に建てられました。滝信四郎氏は「常磐館」「竹島橋」「蒲郡ホテル(現 蒲郡クラシックホテル)」「弘法大師像」など、蒲郡観光の礎を築いた名古屋の実業家です。昔は観光の街として賑わいを見せ、鉄道唱歌にも「海のきれいな蒲郡」と歌われたようである。

現在は「海辺の文学記念館」は、100年を過ぎた今も常磐館と文豪たちを忘れないよう、1997年に建てられました。
館内には、常磐館で実際に使われていた照明器具や100年前から使われている置時計などが飾られ、落ち着いた雰囲気を醸し出しています。


但し筆者が意外と不思議に思うは親鸞聖人が矢作川でのお言葉もあり、西三河には一向宗が多く勿論尾張、東三河とも一向宗の進行は多くない、また本山に於いても一向一揆の支持はなく、単なる偶然での一向一揆の危機が迫ったのであろうか不思議でありお寺側は不入兼の取り消しだけであった。

現在日本中世史、特に戦国時代史小和田 哲男先生並びに岡崎を中心とした地域の歴史研究をしています市橋章男先生も加わって制作中のどうする家康ですが蒲郡の古き時代を西三河と東三河の違いがあるという題材も描かれています。



この写真は妹が撮影した画像を後日添付したものです。今も残る上ノ郷城跡に残る石で作った案内の日が残る、鵜殿どのは裏手の地方名で鵜殿坂と言われる道路で見つかったと言われている。今も残る土塁が残っています。
同じ三河でも全く違う軍団であり、西三河は矢作川と平野しか無く、東三河には温暖で静かな三河湾の隣接と大きな河川豊川もあり、食料、交通網も実に利便性が高く、一種生活環境の違いが伺える事であろう。

鵜殿長照は「西の郡の民話」より引用 蒲郡市立北部小学校 の西のダラグラ坂を「鵜殿坂」と呼んでいる。 永禄5年(1561年)の上ノ郷合戦の時、城主の鵜殿長照が城を逃れて長沢街道を落ちようとした。安楽寺東の坂であとを追って来た敵の松平金十郎が長照に追いつき一騎討ち、刀を抜いて戦った。 運とでもいうか、長照は木の根につまづいてころぴ、起き上るところを飛び込んで来た金十郎の一刀で斬られ、無念の最後をとげてしまった。「無念、もしころばなかったら……。」と長照が言い残したので、この坂を「鵜殿坂」と呼び、この坂でころぶと怪我をすると伝えられており、鵜殿の怨念だと今だに伝説が残っている。そうですのでこの坂では転ばないように注意していると言われる。



後日調べて解った事はこの付近の山の上にある一見城の様な「蒲郡クラシックホテル」創立は昭和 9年だそうでが、以前この辺り東三河は「府相城」として今川支配下になっていた様で、最も有名な城は上ノ郷城があります。思うに昔は海上輸送が発達していた為この辺りは港も多く交通の便も良かった様です。
この様な小さな町なのだが、後は竹谷城、形原城、水竹城、丹野城、中島城の城があったと言われる。



さすが三河湾内と思われる並静かな穏やかな海が広がってます。そして反対から見た竹島を撮ってみました、一般的にはこの方角から撮ることが一番のポイントと言われるようです。早朝は朝凪で風情がある写真が撮れるのですが生憎の曇り空で大変残念であった。
紹介したが隣には昔は有名な旅館で常盤館の跡地が今も残っている撮った場所は常盤館跡地前です。
その後、勿論新鮮な魚を見に西浦漁港の朝市にも立ち寄る、お土産にと「シャコ」を探すが・・・・市場の人に今年のシャコ情報も聞くと、残念なことに天候不順も影響され全く採れないそうです、茹でたてのシャコは絶品で、しかも採って直ぐに船上で蒸した物は最高です。

妹も昨年初めて日展に入選受賞し今年も「書」で日展のテーマが決まり今から準備するそうですが、その前の名古屋開催の朝日展の出品と重なり忙しいと言ってました。日展中心に頑張れと言ってきました。



蒲郡を地政学的に思えば、前方は海でそして小さな街が開けその後方の三方は山で囲まれ、三ヶ根山、五井山、弘法大師像の建立された弘法山等で囲まれ自然な要害でもあり、鎌倉と近い地形が広がる東三河の要所にもなった事は理解できる。現在はその三方の山裾にはみかんの栽培が広がり味の良い「蒲郡みかん」は特に有名です。上ノ郷城址跡地も現在みかん畑になっている。

無事に墓参りも終わり親父の兄弟共に祀られる真宗 大谷派 常円寺にも立ち寄る。無事お参りも済ませ。常円寺のすぐ近く(丁度裏手にあり徒歩5分ほど)にある、今話題の有名な寺、鎌倉時代の歴史の世界に立ち寄る。
大変お恥ずかしい話ではあるが、筆者は歴史好きだが最近までこの曹洞宗 長泉寺(ちょうせんじ)が此のような歴史を抱えた寺とは知らなかった。今年のNHK大河ドラマにより知った話題でもあり、是非訪れて見たかった場所でもある。特に入り口の門は五井城から持ってきた赤門が有名である、たたき部分は未だ赤色に染まり風情を残しているようです。

曹洞宗 龍田山 長泉寺(蒲郡市五井町)に今年の十三人の鎌倉殿に出ている安達藤九郎盛長墓所がある、安達藤九郎盛長は建久5年(1194年)、三河国に守護が置かれた際、初代守護となった鎌倉幕府の重臣。源 頼朝の命により三河国各地の社寺の再興や造営に努め、この地には長泉寺を建立。長泉寺は後に「三河七御堂」と呼ばれるほど栄えました。五輪塔は5つの石を組み合わせて建てられたもの。蒲郡市指定文化財です。



ドラマではお人好しで憎めない役を演じて好感度も誠によろしい様である。
長泉寺の墓場には別の所に安達家の墓があり27代の墓まであった。この三河、尾張はこの様な歴史的名所、人物等は非常に多く点在する、蒲郡の近くに吉良家、岡崎には徳川家と多い様である。頼朝の実母方の実家熱田で、生まれ愛知県尾張熱田の出身者でもある。
丁度関東と京都の真ん中に位置する三河、尾張は何かと歴史的背景の多い地方でもある、日本史の好きな方は長く滞在して、今一度日本史を紐解くも面白そうである。此の様に歴史を考えれば自ずと地形も一緒に考える事が良い方法でもある。
歴史と同時に地形も含めた全般的には地政学を学ぶ事が一番良い方法かも知れない。特に現在問題になっているウイグル地区などは地学と共に学ぶと理解しやすい様です。歴史の変わり目は必ず前の歴史があり無からは生まれないのが歴史である。



寺の近くには今は無き、五井城があった様です、上記の八幡宮境内となっている辺り一帯に築かれていた。さすが鎌倉時代の関係者で八幡様も近くにある、隣の長泉寺境内も含めて高台となって城館を築くのに相応しい地形となっていた。神社の南側にあるフェンスに囲まれた池が堀の名残と伝わっています。

戦国時代、松平(徳川)一族は、三河国内の各地に分家がありました。 その後、蒲郡市五井町を本拠地とした領主が五井松平家です。現在は滅失してしまいましたが、古城山真清寺が建っているところに、 かつて五井城がありました。 
徳川家康が、江戸へ国替えになると、五井松平家も関東へ移り住 みました。
江戸時代には五千五百石の上級旗本として存続し、歴代当主は、「常備火消けし」(江戸城や市中を火災 から守る役目)などを歴任しました。開催中の企画展「松平家ゆかりの文化財」では、五井松平家の子孫の 方にお借りした、系図・過去帳・ 書画・工芸品など貴重な文化財を 展示しています。



安達盛長(あだちもりなが)/野添義弘さんが演じています。安達 盛長は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の御家人。鎌倉時代に繁栄する安達氏・大曽根氏の祖で、源頼朝の流人時代からの側近である。 『尊卑分脈』では小野田三郎兼広の子としているが、盛長以前の家系は系図によって異なり、その出自ははっきりしていない。兄は藤原遠兼でその子が足立遠元とされている。

安達盛長は「愛すべき従者」だとキャスト発表のときに紹介していただきましたが、頼朝のために淡々と動き回って仕事をすることから、とても真面目な人だと思うんです。のちのち13人の中に入るときには強硬派になったりとか、ちょっと怖い部分が見えてきたりもしますけどね。実は三谷さんから、安達盛長という役についてメールをいただいたんです。
「草燃える」(1979年)で盛長を演じられた武田鉄矢さんを例に出して、「当時は若い盛長で書かれていたけど、最近の研究ではもう少し歳を取っていたらしいので、今回は老練な安達盛長を演じてほしい。野添さんがやるのだから、荒々しい坂東武者の中でも異彩を放つ、寡黙ながらもすっとぼけたユーモアのある盛長を演じてもらいたい」と。そうなれるように、一生懸命やっております。三谷さんのイメージは、“かしこまった場が苦手な現場主任”らしいです(笑)。


ひっそりよした佇まいの長泉寺入り口付近。駐車場は左側道路を進み左側に以外と広い駐車場があります。


五輪塔の説明文


入り口山門、赤く塗られた門は五井山の麓にあった五井城より持ってきた門と言われてます。


山門より本堂を覗く、下の土の部分が門の朱色が雨等により塗料が落ち朱に染まってます。
東三河あたりは戦国時代から江戸幕府が登場するまでの時代の中心地に近い為か構築された砦に近い城が多く点在する。また中世から戦国時代までの事を書かれた書物、小林 林之助 著「三州上郷城物語」の本には蒲郡のことは詳しく書かれている様ですので、探して一度読んで見たいですね。


長泉寺本堂


鐘撞堂


稲荷神社


筆者は此処の出身なのにこの寺の見学は初めてでもある、実際蒲郡に住んでいたのは28歳の頃までで、その後は東京住まいで現在千葉県在住で、同級生等はほとんど三河在住者が多い様である。

鎌倉時代の安達盛長の墓何故か?27代の墓まであった。


中央は安達盛長の墓の様です。


特徴は、本堂から鐘撞堂まで来られる便利な創りになっていた。


これを見て今回の歴史巡りの旅は終わる。

お割れが若干小腹が減る、実家近くの地元のうどん屋「清田庵」にて名物のうどんを頂く、最近有名になったうどんである。ご当地うどんの新定番「ガマゴリうどん」

そして最近の食べ物は「ガマゴリうどん」濃厚なアサリのダシとワカメの潮の香りで旨味の効いたご当地うどんのことです。
2013年、滋賀県東近江市で行われた「第3回全国ご当地うどんサミット2013」にて、初出場で初優勝を飾り一躍話題に。 翌年、秋田県湯沢市で行われた「全国まるごとうどんエキスポ2014 in 秋田・湯沢」に於いても、蒲郡うどんは初出場初優勝を飾り、その実力を不動のものとしました。 現在市内17ヶ所(2021年3月現在)のうどん店・飲食店にて、蒲郡市シティセールス推進協議会お墨付きの蒲郡うどんを頂くことができます。

特に春のあさりの旬の頃、身の一杯詰まった味の強い特徴の三河湾のアサリ拾いは特に有名で、大塚、竹島、形原等近くの浜辺で旬の季節に採れる大きなアサリの酒蒸しは実に美味しい。
時期になれば観光バスが押し寄せ特別な賑わいを見せた。筆者は20代後半から江戸で暮らすが江戸湾で取れる魚介類より三河湾のが味が濃く感じる。

良く釣りに出撃していた頃、一度尺近い内房で釣ったキスを両親に送ったことがあるが、型は立派だが味は三河湾のキスが味が濃く上手いと言われた、実際アサリの味を比べ江戸産(船橋浅瀬である三番瀬・木更津当たり)より三河産がはるかに上手いのは不思議である。特にガザミ(ワタリガニ)については味の差が違いは大きい、蒸し蟹が実に上手い。

蒲郡うどんは最近復活したと言われる地元で採れる三河湾のアサリの濃厚なスープは別格である、ブラボー!

東北より嬉しい便り到着、コロナ禍で足止めされていた、「貧困老人(俺たち)の旅」のお誘い・・・

2023年04月16日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

筆者も今年後期高齢者を迎えそれなりに過ごしている老人ではごじゃりますが、珈琲好きでもあり、新しい銘柄を見つけたら購入し試しては見るが、結果としては味と価格は比例する様である。但しお店毎でオリジナルブレンドと称する豆があり一番お値打ちである様です。

勿論淹れ方も様々ではあるが、筆者は基本ドリップ方式を取り入れているが淹れ方にもテクニックな箇所があり色々試しながら味見し繰り返し最近は美味い淹れ方が固まった様であり、遊びに来る友人達も美味いと言っている。
但し原産地の値上がり、輸送価格の高騰により珈琲豆もずいぶん値上がりをしている傾向がある。

確かに珈琲豆の違いで味も千差万別だが筆者の場合はオリジナルブレンドでの豆の違いでの味の楽しみも面白く、必ずオリジナルを試し飲みする。



今回見つけた珈琲は「やなか珈琲店 」オリジナル ブレンド品にて配合生産国(ブラジル、コロンビア、ニカラグア、ペルー)満足感の高いコクとスムーズでバランスのとれた味。質感の高い後味。エリア指定のブラジルをベースに生産者の生活と農園の持続性に配慮したニカラグアとペルーのコーヒーをプラスの豆を一人前100グラムを抽出する。引き方は8番です。

尚梱包も丁寧で紙製の包装も気に入っています残りは冷蔵庫の保湿ルームで保管、早速いただくとこの味わいは少し薄めであり、110グラム程が良い塩梅と思う、しかし実にスッキリした味わい飲み心地は大変良い塩梅で合格である。



後は最近東北の友人から吉報が入った!
コロナ騒ぎで延び延びになっていた「貧困老人(俺たち)の旅」。のお誘いである、以前露天風呂から一面に見える日本海の温泉で秋田方面の話もあったが、最近海外の訪れたい都市で有名になった盛岡地方も最近観光客が多く混雑を避けるため、検討の結果候補は青森の三内丸山遺跡を含めた温泉旅行で期間は6月下旬で2泊3日であるそうでした。

入梅時期も重なるが基本は温泉と美味しいお酒と会話が楽しみですので、青森地方の温泉三昧と爺さん達の楽しい会話を肴に美味しい日本酒が楽しみでもある。

最近注目される筆者の学生時代の教科書には縄文時代の文字のみの紹介で終わる縄文時代は実に長く磨製石器時代も含め一万年以上も続いた縄文時代は勿論、興味深く一度は訪ねて見たい場所でもあり日本本州最北端での長く続いた三内丸山遺跡も面白い案件である。
縄文時代は今から約1万2~3千年前に始まり、約2千3百年前に終わった約一万年以上続いた縄文時代は実に長い歴史であろう。
今回の一番の興味は三内丸山遺跡であろう、平成4年(1992年)から始まった発掘調査で、縄文時代前期~中期(紀元前約3,900~2,200年 現在から約5,900~4,200年前)の大規模な集落跡が見つかりました。たくさんの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土したそうです。
一番興味深いことは石器時代使われた黒曜石等の磨製石器を使い続け殺戮のための武器も見つからなく、ごく自然に次の世代に上手く混じり合って行った事が解る、世界でも類を見ない種族なのであろう。



 縄文時代の建物の巨大な建築筒は興味が膨らむ、地面に穴を掘り、柱を建てて造った建物跡です。柱穴は直径約2メートル、深さ約2メートル、間隔が4.2メートル、中に直径約1メートルのクリの木柱が入っていました。地下水が豊富なことと木柱の周囲と底を焦がしていたため、腐らないで残っていました。6本柱で長方形の大型高床建物と考えられます。
一番の興味は、後は海から続く道路もあり、集落の中心から幅約12メートル、長さ420メートルにわたって、海に向かって延びています。道路は地面を少し掘り下げて、浅い溝のようになっているものや、さらに土を貼って「舗装」されているものもあります。最近の調査で、南北にのびる道路も見つかりました。石川、諏訪、岩宿等の遠方からヒスイ、黒曜石、琥珀、アスファルトなどが舟を使って運ばれてきました。集落が大きくなる約5000年前から、他地域と活発に交流・交易がさらに行われるようになりましたそうです。

以前にも当ブログにて紹介はしたが、黒曜石ガラスとよく似た、鋭く割れる石です。北海道十勝や白滝、秋田県男鹿、山形県月山、新潟県佐渡、長野県霧ケ峰など、日本海を中心として地域の黒曜石が運ばれてき海洋交易が盛んに行われ当時の定着ぶりが伺える様です。海上航海による交易も盛んで想像する船も大きな船であったように想像できる。ある程度は定期航海していた様にも思える。

今まで縄文人は獲物と共に移動しての生活が常識と言われていたが、現在の資料では安定した定住型生活を営んでいた外が解る。
一番驚くことに下図は当時の航路図である。この頃から北前航路があったのであろうか?確かにこの当時の海の航路に使われていた船の遺跡も見たいですね、海洋国民の事実は興味ある話でもあります。当時は良質の黒曜石採取のために神津島の恩馳島にて採取していた事実もあるそうです。
最近の研究では人間の脳の重さは1,400g程あるそうですが、近年の脳の重量は少し減っているそうです。確かに縄文時代の人は現在より脳を使っていたのかも知れません。


 
最近特に面白く興味をそそられるは、日本の歴史である、旧石器時代を含め縄文時代、弥生時代とあるが、世界の歴史と全く違う日本の国は大きな戦争もなく、温暖で適度な安定した自然環境も整い穏やかで暮らしやすかったのであろう。

この様な大きな遺跡を訪ねる旅も実に面白さ、興味深さがあり縄文時代の世界を覗く気持ちでじっくり楽しんで見るつもりである。



最近DNA解析が進み歴史が解き明かされる状態にはなった様であるが今後益々細分化された情報が楽しみでもある、
日本人男性のY染色体を調べて判明した世界でも実に珍しいハプログループD1b2と言う遺伝子を持っていることであろう「ハプログループ」は、人間の細胞内の「ミトコンドリア」と呼ばれる器官のDNAの多型を用いて分類される遺伝的なグループを指します。 ミトコンドリアは祖母から母親、母親から自分と母系を伝って受け継がれるため、ミトコンドリアのDNAを調べることによって母系の祖先のルーツを辿ることができると考えられています。ゲノムも船泊23号F23と解析されている。

この様な事実は発見され20年程経過しないと本にはならなく、一番面白い事は一般的には違った学校教育問題が残るであろう、近隣諸国条項等の事があり歴史的には闇の世界の話になるのであろう。
全く役人は時代遅れも甚だしく全く馬鹿馬鹿しい限りで今後の教育より役人の立場ばかりを考え今後も間違った歴史を押し通すつもりであろうか?疑問視する。



中世が「暗黒の時代」と言われるのは、度重なる悪天候や戦乱により農作物の栽培が安定せず、文化が成熟できるほどの社会基盤が整っていなかったためと言われています。この様な時代は、1,000年間も続いたということになります。
ここでは一般的な区分でもある「ローマ帝国の崩壊(5世紀)から、ルネッサンスの始まり(15世紀)まで」の間を指して中世とすることにします。ここで面白い事はキリスト教は全く広まって無かった事が事実でローマが滅び欧州の平野部は落葉樹の樹海ができ、所心にいた貴族がキリスト教徒で庶民は森を伐採し農地に変えて生活をし日曜は貴族の館に行きキリストを祈り、やがて街の中央にバロック建築を大聖堂として建築して、礼拝のために讃美歌を演奏者を雇い演奏し歌った事で徐々にキリスト教徒を増やしていったのである。

王や貴族たちは、市民から搾り取った血税で夜な夜な豪華なパーティをして、国が揺らぐほどのお金を浪費するのは日常茶飯事でした。
この貴族は世襲がほとんどなので、貴族に生まれたら貴族だし、一般市民として生まれたら、市民としてしか生きていけない時代です。アメリカンドリームのようなサクセスストーリーなんてありえない時代なので、一般市民はぐっと耐えるしかなかったのです。
このような時代背景の中、市民の不満がたまることは明白で、市民の怒りのパワーが徐々にたまっています。そうなると、市民が暴動やクーデタを起こすのは当然ですよね。そのパワーにより、あっけなく王政の時代は終わってしまいます。

クーデタにより王や貴族を倒した市民は、今度はその市民によって国づくりが行われるようになります。そして現代にもつながっていく資本主義へと、世の中は大きく進化していきます。



なのでこのバロックの時代は、「近代化」への架け橋に過ぎない、、、という時代だったと言えます。
その音楽カンタータ単声、または多声の器楽伴奏付の大規模な声楽作品のことです。または交声曲。「歌われるもの」を意味します。オラトリオイタリアで始まった、宗教や、道徳的なテーマによって作られた、独唱、合唱、管弦楽のための大規模な音楽作品のことを言います。オペラなどとは違い、動きや衣装、舞台などの背景装置を伴わない叙事的な楽曲のことです。

今回は意外とコーラスが妙に生々しく聴こえた英国の鍵盤勝者が指揮する、勿論録音も大変優れ音質もよい。
ジョン・バット(John Butt)は、(1960年11月17日、ソリハル、イギリス生まれ)は、オーケストラと合唱の指揮者、オルガニスト、ハープシコーディスト、学者です。彼はグラスゴー大学のガーディナー音楽委員長であり、ダニーデンコンソートの音楽監督であり、彼は歴史的知識に基づいたパフォーマンスで受賞歴のある録音を行っています。それらの多くは、ライプツィヒのクリスマスの日にバッハの最初のクリスマス礼拝など、特定の歴史的パフォーマンスの再構成を備えています。



これがリフキンの導き出した結論!ダニーデン・コンソートのロ短調ミサ!
.S.バッハ:ミサ曲ロ短調 BWV.232(ジョシュア・リフキン校訂ブライトコップ版/2006)

話題をよんできたジョン・バットとダニーデン・コンソート&プレーヤーズ。音楽学者としても高名なジョン・バットが取り組んだバッハの名作『ロ短調ミサ』。演奏に使用した楽譜は、2006年末に出版されたジョシュア・リフキン校訂によるブライトコップ版。

ジョン・バットと共にダニーデン・コンソート&プレーヤーズの芸術監督を務めるスコットランドのソプラノ歌手スーザン・ハミルトンや、古楽唱法に長け、名匠たちからの信頼も厚いバスのマシュー・ブルックなど、各声部1名という「OVPP」で重要な役割を担うソリスト陣への期待にも大きなものがあります。
ジョシュア・リフキンが導き出した『ロ短調ミサ』の最終形態の全容を、ダニーデン・コンソート&プレーヤーズの演奏とリン・レコーズの超優秀録音が明らかにする注目盤の登場です。



スーザン・ハミルトン(ソプラノ)
 セシリア・オズモンド(ソプラノ)
 マルゴット・オイツィンガー(アルト)
 トーマス・ホッブス(テノール)
 マシュー・ブルック(バス)
 ダニーデン・コンソート・プレーヤーズ
 ジョン・バット(指揮)

 録音時期:2009年9月11-17日
 録音場所:エディンバラ、グレイフライアーズ教会
 録音方式:ステレオ(デジタル/セッション)

J.S.バッハ:ミサ曲ロ短調BWV.232(ジョシュア・リフキン校訂ブライトコップ版/2006)
1.CD
 1.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Kyrie eleison
 2.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Christe eleison
 3.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Kyrie eleison
 4.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Gloria in excelsis Deo
 5.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Et in terra pax
 6.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Laudamus te
 7.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Gratias
 8.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Domine deus
 9.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Qui tollis
 10.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Qui sedes
 11.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Quoniam tu solus Sanctus
 12.Mass in B Minor: Missa (Kyrie & Gloria): Cum Sancto Spiritu
2.CD
 1.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Credo in unum Deum
 2.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Patrem omnipotentem
 3.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et in unum Dominum
 4.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et incarnatus est
 5.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Crucifixus
 6.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et resurrexit
 7.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et in Spiritum sanctum
 8.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Confiteor
 9.Mass in B Minor: Symbolum Nicenum (Nicene Creed): Et expecto
 10.Mass in B Minor: Sanctus
 11.Mass in B Minor: Osanna
 12.Mass in B Minor: Benedictus
 13.Mass in B Minor: Osanna - da capo
 14.Mass in B Minor: Agnus Dei
 15.Mass in B Minor: Dona nobis pacem
永らくロ短ミサの理想を追求してきたら。経済的にも苦しくなってきたところに最終回答が出た。リフキン校訂によるブライトコップ版1パート1人によるものだ。ロ短ミサ堅苦しさを解放してなんと自由な拡がりになったろう。コーラス(合唱)は必然を失ったのだ、これこそがロ短ミサの原風景だ。歌手もすばらしい。とくにアルトのオイツィンガーはただ者ではない様に思った。
カンタータ:単声、または多声の器楽伴奏付の大規模な声楽作品のことです。または交声曲。「歌われるもの」を意味します。



オラトリオ:イタリアで始まった、宗教や、道徳的なテーマによって作られた、独唱、合唱、管弦楽のための大規模な音楽作品のことを言います。オペラなどとは違い、動きや衣装、舞台などの背景装置を伴わない叙事的な楽曲のことです。
このスタイルは、古典派、ロマン派へと受け継がれ、名曲がたくさん残されています。


今回音質を確かめるためにも鍵盤奏者の平均律クラヴィーア曲集第1集も聴きましたが。音質を探るには単一楽器を聴く事で微妙なニュアンスが分かりやすい、チェンバロ等は弦を引っ掻くので強弱での音が変わりにくく音質チェックには重宝しています。手持ちのLS3/5aとTANNOY IIILZをケーブルを切り返し綿密に聴き比べたが以前インシュレーター改良前と比べ随分キレも良く透明度が増した様に感じる、筆者としても先ず先ずの音になった様にもと思えるが、たかが音質程度の問題に随分調整に時間を費やしたものだと笑ってしまう。若い頃からJ.S.バッハの研究者でもあるジョン・バットだけに、多くの経験を経てきた現在の演奏になったのであろう完成度の近い演奏の様ににも思える。



確かに筆者のような老人が学生の頃歴史の教科書では学ばなかった事、なぜ日本は大東亜戦争を決意したのか、日露戦争の戦争費用700億ドルを何処で調達したのであろうか?欧州は何故大規模な奴隷制度は終息したのであろうか?英国、スペイン、フランスの陰謀は何処までであろうか、新しい米国の陰謀なのであろうか?現在ロシアは戦争中だがロシアの後は誰がロシアの後を引き継ぐのであろうか?は世界は打算で組み立てられている事は事実であろう。
現在様々な疑問はPCのネット情報でも手軽に解明できるようになった事と、特に興味ある事柄は市の図書館通いで情報は幅広く収集出来る。

昔から日本人にはこの打算的な気持ちが少ない民族ではあったのですが今は経済界、政治家が狙っている日本は変わって来ているのであろう。実に情けないが事実でもある。この様なことを思い、これで当分素直な心で音楽を聴きながら歴史を考察し想像力を養ってみたいと思います、ブラボー!

千葉の水郷佐倉の鰻を食べに・・・思うに日本は昔から海洋国であった、日本のルーツを考察する。

2023年03月11日 | 歴史(世界史/日本史)の考察


筆者の住む街の公園にも河津桜があり、河津桜とは静岡県賀茂郡河津町で毎年3月上旬に満開になるピンク色の桜です、意外と開花時期は早く、期間も長く楽しみが続きますが愈々散り始めた様である。

先日大阪に住む娘が遊びに自宅に立ち寄る、最近三月頃の体感気温で暖かく、皆でジュニアの厄年の御礼参りも兼ね、ドライブと美味しい物でも食べに行こうと出掛ける。以前行った笠森神社に同行した、帰りがけに少し大回りして水郷の街の利根川の美味しい鰻ランチを食べに寄り道をした。


笠森寺は、延暦3年(784年)最澄の開創で、坂東三十三霊場の第三十一番札所に数えられている。観音堂は後一条天皇の勅願で長元元年(1028年)に建立されたと伝えられていたが、昭和35年(1960年)の修理に伴う調査の結果、天正、文禄などの墨書銘が発見され、現在の建物の建立は伝統的な木造建築方法の桃山時代であることが判明したと言われている。

笠森寺の山門手前の崖の上に三基の句碑が並んで建立されている。中央の句碑が芭蕉句碑であり『五月雨に此笠森をさしもぐさ』左右にはそれぞれ各務支考、渡辺雲裏の『片枝に脈や通ひて梅の花』『すへられて尻の落着く瓢かな』の句碑が芭蕉句碑を守るかのように並んでいる。


レイライン春分の日と秋分の日に、太陽が通る道。北緯約35度23分を結ぶ直線上には、地理的な名所、歴史的な建造物が立ち並ぶ。
太陽が昇る東は、千葉県の玉前神社から、西は島根県出雲大社までを結ぶ線は、御来光の道として知られ神秘的なパワーをもらたすと言われています。

山門には正面左右には風神・雷神があるが一方は口を開きもう一方は閉じているので阿吽の仁王像をさすのだととも言われる。


お札参りに帰りに近くに有名な(怪しい寺があり)ちょいと覗いてみる。

千葉県長生郡長南町にある「長福寿寺」は“日本一の”金運寺“日本一宝くじが当たる”と名高いお寺のようです。 その篤いご利益から各メディアで頻繁に取り上げられるほど! そのご利益の所以は「人々を幸せにするためにやってきた」という伝説をもつ象・吉ゾウくんによるものなのですが、吉ゾウくんとは一体どんな石象なのか?

境内の両側に像の石像がありこの像が吉ゾウくんで説明がありお参りすると金運に預かると言われているそうです。



筆者が一番驚いた光景は像の石像の前で真剣にお参りする姿を見たからである、宝くじの当選には興味はあるが、どこか当たらないと思う自分が入ることで、真剣に当たる事を願う人に何故か驚きを覚えた。

勿論、出来れば宝くじでも当たり余裕があればオーディオ装置も最終的に完成したいので一千万ほどが当たれば良いイコライザー付きのマニュアルプレイヤーシステムEMT930stの程度の良いプレイヤーとか、WEのトランスを組み込む真空管アンプが欲しいのですが?未だまだ物欲欲望があり思うは当分元気で暮らせそうである。

簡単に拝観し場所は少し離れるが美味しいランチを求めひた走る。香取神社等東国三社巡りの途中で寄る方も多く。日本地図の編纂で有名な伊能忠敬の出身地でもある、小江戸佐原にある老舗鰻店『うなぎ割烹山田』に向かう。

この鰻調理は、新鮮な鰻を割く、そして炭で焼く、蒸す、其れからタレを付け炙り炊き立ての米の上に鰻を乗せムラシを入れた状態で配膳の運びとなる、筆者は調理人ではないので詳しくは知らないのですが、この様な手の込んだ仕事は日本文化の象徴でもあろう、支那料理も西洋料理もこの様な手の込んだ調理方法は珍しい方法だとも思う、又付けタレも昔からの秘蔵のタレを継ぎ足して使い次の世代に受け継ぎ伝統を継承する文化は日本の歴史を感じて止まない。



いつも別館に行くのだが生憎木曜は定休日で本店は初めて尋ねた。2時迄に受付すればランチタイムで食べられますとの案内早速受付を。20分程で携帯電話が鳴った。店からの呼び出しである。
お店からの鰻を焼く匂いがたまらなく食欲をそそり、上じか重(ご飯の上に鰻が載る一般的な鰻重)、を注文した。肉厚で表面はカリカリに香ばしく焼かれていて脂がのった身肉はふっくらしていてとても美味しかった。ご飯も炊きたてタレの味も大変よく鰻と相性も良い。通常でもかなり盛りがよいのでジュニアは大盛りにした為相当な量になったが、勿論それでも見事に完食した。
鰻も肉厚で絶品でボリューム満点です、珍しく娘も完食した、鰻はやはり関東風が一番美味い。



上鰻丼と写真が上じか重。うなぎ割烹山田の鰻は箱蒸しという技法を用いていて余熱で軽めに蒸すことで旨味を損なわないように下準備した蒲焼きを備長炭でじっくり焼いていることにより独特の香ばしく肉厚ふっくら感がある鰻に仕上げることが出来ているのだそうです。それにこのかえしダレの深い旨味が絶品。

お店が火事に遭った時もこのタレだけは大切に抱えて無事だったそうです。その他にも鰻屋はあるそうで鰻文化は古い様である。



食後大正末期創業、地元の味醂を使って作る佃煮屋 麻兆を覗く、近くの古くから水郷の町として栄えたこの町には多くの老舗が残っています。
すずめ焼とは佐原の地域の様々なお店で販売されている佃煮の一種で、はぜ、小鮒等の小魚を串に刺したもの。姿が小枝に止まっているすずめに似ているから、や、お殿様がすずめを焼いたものと勘違いしたから、等様々な説があります。

思えばこの様な調理方法は実に手間、暇がかかり例えばハゼを釣り、内臓を出し炭火で焼き、それを天日干しして、その後煮込んで味付けをする調理である。またアサリも有名であるが生のアサリの身をを取り出し、作る方法と茹でて身をとり出し作る方法では仕上がりの味にに雲泥の差がつくのである。

娘の土産も購入し、自宅用のお酒のお供ににも購入した。筆者は勿論ハゼを注文した、後はアサリが美味しそうであった。此の地域の「わかさぎ」も注文した。
後日、炊き立ての白飯と味噌汁にすずめ焼きで食べる米の飯の旨さを味わう楽しみは格別で日本人として生まれた喜びを噛みしめる、楽しみでもある。



確かにこの辺り関東近県は江戸を中心にしての運河、河川を利用した交通網が昔から栄えており、海運業は荷物運送には無くてはならない常套手段であり、ここから利根川沿いに銚子港に出て江戸に物を運び栄えたわけであり考えれば昔の日本は想像を超える海運大国であったのであろう。勿論河川から河川に繋ぐ運河も多く工事した様である、そのような事を思い帰路に着いた。

今回は久しぶりに日本史について考えてみようではないか。筆者日出身は東三河地区で関東の江戸幕府以前お歴史ついては知らない事柄が多いのですが・・・色々日本の歴史を紐解くと、想像以上に水との関わり合いが強い、昔から海洋国であり交通機関も海。河川を利用して生活していた事も理解できる。

日本の石器時代については旧石器時代は、「打製石器」というものを使用して、狩猟や漁労、採集などを行っていた時代のこと。洞窟や小さなテント式の小屋を作って移住生活をしていたそうです。旧石器時代は200万年前に始まったそう。ホモ属(ヒト属)が誕生したころでしょうか。
地質学的には、約258万年~1万年前までを更新世と呼びます。氷河期とも被っています。氷河期は、氷期(めっちゃ寒い時期)と間氷期(比較的暖かい時期)を繰り返していて、氷期に氷が増えると海水面が下がります。

最近見つけた戦国時代の尾張地方の地図であるが戦国時代は埋立作業もなく湿地帯が多く海水面は多く残っていたそうである、桶狭間の戦いの頃の地図であり、熱田、大高、小牧などは海沿いであり海運だ栄え城を築き町を繁盛させたのはいまの交通網とは違い海運の交通網はかなり綿密であったのであろう。大高(おおたか)等は遠州地方からの大量の荷物を引き取った港でもあったのであろうと思える、古地図によって合点の行く話になろう。
今川方が東三河を制圧したのも田原の港、幡豆港等を制圧し西三河、と続き尾張港を制圧して行った海の制圧も十分考えられる。



話を戻し氷期はそのおかげで、日本とユーラシア大陸は陸続きになっていました。この時期に、北からマンモスとヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカが上陸したそうです。それを追いかけて、ご先祖様たちはやってきたのかもしれません。また、現在は「もう氷河期は終わった!」という考え方と、「いや、今は暖かい間氷期なんだ!」という考え方があるそう。

そして此処で発見された「岩宿遺跡」(いわじゅくいせき:群馬県みどり市)は、1946年(昭和21年)に発見された旧石器時代の遺跡です。 現代では、日本における旧石器時代は約40,000年前から15,000年ほど前までとされていまが、岩宿遺跡が発見された当時、日本に旧石器時代は存在しないというのが一般的な学説でした。
兎に角文明は支那から日本に伝わったとされる事が多く、現在日本人のDNAと朝鮮、中国とは全く違っていることが確認されているそうですが、DNAの研究も新しいテクノロジーは解明されれば違う歴史も解るのかもせれない。日本の土壌は弱酸性で人骨は溶けて無くなり証明は難しいとされている。これは歴史というよりむしろサイエンスと思考することが正しい考えである。

新たな考え方は、ジャワ原人のように日本原人が居たのかも知れないと思うは夢であろうか?そう言う考えに歴史を考えると何故か辻褄が妙に合うと思うは筆者だけであろうか?
旧石器時代の遺跡の発掘から文化は支那から来たという歴史は違うのかも知れない?氷河時代アフリカから陸路を渡った原始人達の移動は無理があり、海を渡った説が濃厚になる。



岩宿遺跡とは第2次世界大戦の頃までの考古学者は、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出るとそれを「地山」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことをはじめて明らかにしたのが、岩宿遺跡です。
此処で素人の遺跡好きの人が発見する岩宿遺跡は、昭和21(1945年)に相澤忠洋(あいざわただひろ)氏により発見されました。昭和24(1949年)・25(1950年)に、その後頑張った明治大学考古学研究室による発掘調査により「日本列島に旧石器時代には人類が住んでいない」とされていたそれまでの学説をくつがえした遺跡として脚光を浴びました。日本最古の人類の歴史は数千年前の縄文時代から一挙に数万年前まで遡り、戦後の日本考古学の重要な出発点の1つとなりました。日本の旧石器時代を「岩宿時代」と呼ぶ研究者もいます。
日本歴史の黎明期のあり方を知る上で不可欠の遺跡である」ことから学術研究上も重要な場として国の史跡に指定されました。



当時は研究者の間では決して旧石器時代の石器は日本には無かったと言われたが、磨製石器の発掘東ローム層黒土(表土)の下にあり、火山灰などが降り積もってできた1万年以上前の赤土、相沢忠洋(あいざわただひろ)1929年生-1989年没。独学で考古学を学び、納豆の行商などをしながら赤城山麓の遺跡を調査し、岩宿遺跡を発見した。主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。切り出しナイフに似た形の石器、後期旧石器時代後半期の初めに特徴的にみられる。
また実に面白き発掘は、神津島で最高の黒曜石が取れる場所そして世界最古の記録を持つ場所です。恩馳島(おんばせじま)は、神津島の前浜から見える離れ小島で、天候によって神津島からの距離感や見え方が変わる不思議な島です。
周囲はいつも白波が立っているような岩礁地帯で、かなり凪いでいる日でないと船で近づくことも容易ではない離れ小島です。最近は釣り人の穴場としても人気があり訪れる釣り人も多い島となっている様です。

先人達の冒険力と探検力は素晴らしい物があります、自由を目指より豊かな生活力を求める希望に満ち溢れていたのであろう。



一番興味深いことは、この時代に遠方の神津島のゆるキャラのモチーフにもなっている天然記念物「カンムリウミスズメ」の数少ない営巣地の一つでもあり、黒潮の影響による魚影の濃さで「釣り人の聖地」とも称される、いろいろてんこ盛りな濃い島です。
関東圏の黒曜石産地は、神津島だけではなく長野の霧ケ峰周辺や箱根、少し遠いですが福島の高原山など、幾つか存在します。しかも、長野の黒曜石などはとても質が高く、埋蔵量も多く、石器としての利用に十分適うものです。
そんな産地が比較的近くあるにもかかわらず、わざわざ命の危険を冒して海を渡り(山もいくらか危険があったとは思いますが)、神津島の黒曜石を大量に持ち出していたのかの疑問・・・?
最初はただ質の良さで利用されていたのが、それが時が経つにつれて、神津島、恩馳島、もしかしたら黒曜石自体を対象とした信仰へと変わっていったゆえ、その信仰を表現するために命がけで島に渡り黒曜石を採集していたのかもしれません。これは色々な理由で)比較的可能性が高いと考えています。しかも、現在でも恩馳島には「恩馳神社」という神社が存在し、毎年ではないそうですが神事も執り行われています。これは過去にあった恩馳島への信仰が神社という形で残ったものではないか、と考えています。そこで海運業は相当発達したと思われる所以である。



上記写真の様な黒曜石は実にキレイな波紋みたいな割れ口(貝殻状断面という)が、恩馳島で採れる黒曜石の特徴は質の良い物が多く珍重された。この恩馳島の黒曜石は石器の原料として用いていた古代人も理解していたようで、特に縄文時代においては、この黒曜石が大量に(それもたぶんトン単位で!)海上輸送によって本土に持ち出され利用されていたことが分かっています。
磨製石器の日本では磨製石器営業、磨製石器製作工場、海運業、陸上運送業等仕事分担が出来上がり充実した生活を長い間平和に暮らしていた様である。
何故なら人間を殺戮する磨製石器は出土しては無く日本独自の温和な時代が長く続いたと想像できる。



この文書を読んだ時に思ったことは人類アフリカ発祥説の他にも日本発祥生もありかも知れないと思ったことでした。磨製石器で巨大な丸太船を作り横に並べ安定させ航海術を所得していたのではあるまいか?
ある程度南の島に次々に島を渡りフィリピンまで行くのも想定内であろうと想像できる、また弥生式時代の米も支那種とは違い日本は水田利用の亜熱帯で採れる米であり伝承ルートは支那では無く今までとは違うことが想像できる。

神津島(コウヅシマ)から伊豆半島との位置関係を示す現代の地図である。これから論じたい黒曜石と海の道に対する私的イメージを赤の点線で描いてみた。
この様な資料を集め想像し探索することも全く愉快である。
当時の旧石器人は道を構築するという概念は無く、土地を所有するという概念も無く、結婚という概念も無かった。ただ自然界に現存する獣や魚や植物を採取して食べて行き、本能的に親子関係を大切にし子孫を作り育てることに専念していたに違いない。



ただ彼らが初めて神津島の黒曜石を知ってからは、その島の持つ他に類例のない地理的存在観念と黒曜石採取欲を強く感じた瞬間だったかも知れない。海を渡って如何に安全確実に黒曜石を運んだらよいか明確な目的意識が湧き、比較的安全な河口や海の浅瀬で試行錯誤を重ね、当時の採取可能で加工可能の材料で海に浮き移動可能な物体を作るため、おそらく気の遠くなるほどの年月を重ねて黒曜石を手に入れる渡航術を身に付けたものと想像される。複数人の共同作業には当然言語の発達も進んでいった。



神津島から旧石器人が採取した黒曜石(コクヨウセキ)がどのようにして運ばれたのか、神津島近辺で黒曜石が現在確認されているのは利島(トシマ)と伊豆の河津(カワヅ)(段間ダンマ遺跡)と伊豆大島の三か所である。利島は古代よりミツケノ島(見付けの島)とかアズケノ島(預けの島)とか呼ばれており、海上から見るに円錐状のシンボリックな形状で海の民にとって分かり易い目印だったに違いない。

また、利島の遺跡から45kg黒曜石が発掘されており黒曜石搬送の中継基地的役割をしていたのではと推察される。(かなり後世のこととなるが大量の和鏡も発見されておりアズケノ島と呼称されて来た)一方、静岡県賀茂郡河津町見高の段間遺跡(ダンマイセキ)からは250kg以上の神津島の黒曜石が発見されていることから河津が本土側の集積地だったと推定されている。

神津島から河津まで直線距離約60kmだが、立ち寄ったかどうかは別にして現在では神津島から式根島まで約10km、式根島から新島まで約3.5km、新島から利島まで約10km、利島から河津まで約33kmとなる。つまり、島伝いを通過することにより安心が得られ、万が一の備えとして危険が生じたら島に避難したと考えられる。また、殆どの地図に載せられていないが、釣りが好きな人には知られるこの海域に海上に顔を出す岩礁も多く、海退の生じた太古ではもっと多くの岩礁があったかも知れない。



なお、伊豆大島の縄文時代中期の遺跡から神津島の黒曜石が確認されているので、旧石器人の子孫は渡航船体の構造進化に相俟って渡航技術を磨きつつ、相模湾横断も達成した可能性も高く赤の点線にて推定航路を記入した。その後、彼らの子孫は日本各地・世界に輪(倭・和)を広げて行ったと思われる。

残念ながら、今から1万年以上前の伊豆半島南東の島々の形状や海の様子に対し科学的研究がされていないが、原始宗教神話の源流の地でもあり海彦の生活の場でもある。当時山彦達(内陸)の羨望の的・黒曜石を生む宝島でもある当該エリアの考古調査解明が切望される。
鉋もノミも無い時代に磨製石器での舟の建造技術は相当難しい方法であろう、現在と比べ当時が相当未来が面白かったようにも思えます。



上写真はグーグルマップの写真版ですが日本の南の島、伊豆半島南東の島々から島と渡続けばグアム島まは意外と簡単に辿り着くであろう。それからパラオ辺りは簡単に航海していたのであろう、赤線で示した様に島々を渡り海洋生活集団も考えられる話でもあり、これも磨製石器時代の頃の話である。

ただし、最も知りたい当時の舟ないしは筏の構造を知り得る木・竹・草・皮などの遺品に遭遇することは繊維質は腐り易いことから見つけ出すことは極めて困難だと憂慮される。ただし、磨製石斧をはじめとする石器など間接証拠が見つかればと期待している。最近の風潮として、南方の民族が黒潮ルートに乗り日本列島にやって来て日本古来の旧石器人と交わり倭人を構成したとの説をWebサイトで散見される。もともと舟の操れる民族だから神津島の黒曜石を発見し運べるのは当然の帰結であると短絡して論ずることに私は否定的立場をとりたい。

なぜなら最近の遺伝子研究において日本人の遺伝子が南方系住人のそれとは異なることが証明されているからである。彼らは土器や言語の類似を主張しているようだが、3万5000年前に海で囲まれた日本列島において渡海技術を有する海洋文化が萌芽し、1万年以上に亘り渡航術を発展させ縄文時代の早い時期にロシアアムール川、壱岐、竹島、朝鮮半島、沖縄、中国沿岸部、台湾、フィリピン、東南アジア方面に足をのばして行き、私的交易や情報交換をしていた可能性が高いからだ。日本の土壌の特筆として弱酸性の土地のため人骨は溶けて無くなる弱点があるが貝塚等の貝殻があれば弱アルカリ性の土壌に変化し、五万年前の貝塚から人骨が見つかれば日本原人も成立可能となり新しい発見となるのである。
今後も新しい科学と共に太古の時代が解き明かされる日本の歴史の事実は実は大変楽しみでもある。ブラボー!