長かった旧東海道歩きもいよいよ最終回となりました。歩いて訪れた街の風情、忘れられない土地のおいしい食べ物、挨拶を交わしてくれた街道沿いの人々、ひとつひとつが思い起こされ、やっと京都三条大橋に辿り着けるという喜びと、ついに終わってしまうという寂しさが交錯し、最終日は感慨深いものがありました。
最後の旅は、50番目の宿場石部から。新横浜から京都駅まで新幹線、JR草津線に乗り換えて石部まで、所要時間はおよそ2時間40分。
今回は、大阪在住の長男が最後を一緒に歩くことになりました。
石部は「京立ち石部泊まり」といわれ、京都から江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場であったと言われています。石部の街道には、今も当時の古い街並みが残っています。その中で少し趣きを異にした大きな建物、史跡「旧和中散本舗」は、家康がここ野洲郡に滞在中、腹痛を起こしたときにここの薬で治ったと言われています。江戸時代の豪商であった様子が伺えます。
まもなく、51番目の宿場草津に入り、東海道と中山道の分岐点である追分見付につきます。「右東海道いせみち 左中山道美のぢ」と彫られた石の道標が立っていました。その昔、さぞこの街道は行き交う旅人で賑わったことでしょう。
草津宿の本陣は、昔のままの遺構を伝える建物で、りっぱなものでした。
草津宿あたりから京都に続く街道の街並みは、今までの格子が紅殻の格子に変わり、甍も深く軒を並べ、都に近いことを伺わせます。
西へ進み行くと、大きな擬宝珠を持った瀬田の唐橋を渡ります。今でこそ鉄製の橋ですが、瀬田川は、緩やかになみなみと水を湛えながらゆっくり流れ、何隻ものカヌーが滑っていました。
石山寺へは、この唐橋から1.5キロほどでしょうか。紫式部は源氏物語の構想をこの寺で練ったと語り継がれています。
京阪電車の線路と付かず離れず進むと、街道は膳所(ぜぜ)の城下町に入り、街道は鍵型を繰り返して進みます。いよいよ大津に入って、お茶した喫茶店で土地の人とおしゃべりに花が咲き、今宵の宿JR大津のホテルに付いたのはもう夜8時近くになっていました。
6月8日、朝8時にホテルを出発。少し寄り道をして琵琶湖まで足を延ばしました。日本一の湖は私の想像を遥かに越えて、遠くは霞み、ただ広い水面が広がっていました。
大津の宿場を過ぎると、路面電車が走る大きな道路はゆるやかにカーブしながら高度を上げていくのがわかります。この先に百人一首でも歌われた、「これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」があり、越えるといよいよ京都山科地区へと続きます。ここには悲運の琵琶法師蝉丸を祭った蝉丸神社があり、逢坂山は今でも山の深さを感じることができます。
ひなびた街道沿いに「日本一のうなぎ かねよ」があり、昔伊勢から運ばれてくるうなぎに旅人は立ち寄ったのでしょう。今でも遠くから食べにくる人も多いと見えて、手広くやっている様子でした。
いよいよ街道は京都山科区に入り、ほどなく五条の別れ道標があり、三条大橋も間近かと思うと心躍り、一刻も早くという気持ちと、最後なんだから、ゆっくりゆっくり楽しもうという思い、気持ちがなかなか抑えきれなくなってきました。
まず、天智天皇陵に寄り、新緑のまぶしい楓のトンネルの中を通りながら大きく深呼吸しました。ところが、終点近い旧東海道は、最後の最後になって、道幅はぐっと狭くなり、道しるべもなく、旧東海道で一番狭くわかりづらい場所だったのではと思われました。
三条大橋まであと1.5キロの地点に蹴上駅の先に南禅寺があり、ちょうどお昼になったことでもあり、湯豆腐を食べて南禅寺境内にある琵琶湖疏水の流れる水路閣で一休みしました。
京阪の線路に沿って三条通を進むと、前方に三条大橋の信号が見え、日本橋からの長い旅の終点三条大橋にたどり着くことができました。
日本橋から133里9町、4年かけた旅は、述べ34日間でゴールにたどり着くことができました。やったー! そしてやれやれ。
最後の旅は、50番目の宿場石部から。新横浜から京都駅まで新幹線、JR草津線に乗り換えて石部まで、所要時間はおよそ2時間40分。
今回は、大阪在住の長男が最後を一緒に歩くことになりました。
石部は「京立ち石部泊まり」といわれ、京都から江戸へ下る旅人の多くが最初に宿泊した宿場であったと言われています。石部の街道には、今も当時の古い街並みが残っています。その中で少し趣きを異にした大きな建物、史跡「旧和中散本舗」は、家康がここ野洲郡に滞在中、腹痛を起こしたときにここの薬で治ったと言われています。江戸時代の豪商であった様子が伺えます。
まもなく、51番目の宿場草津に入り、東海道と中山道の分岐点である追分見付につきます。「右東海道いせみち 左中山道美のぢ」と彫られた石の道標が立っていました。その昔、さぞこの街道は行き交う旅人で賑わったことでしょう。
草津宿の本陣は、昔のままの遺構を伝える建物で、りっぱなものでした。
草津宿あたりから京都に続く街道の街並みは、今までの格子が紅殻の格子に変わり、甍も深く軒を並べ、都に近いことを伺わせます。
西へ進み行くと、大きな擬宝珠を持った瀬田の唐橋を渡ります。今でこそ鉄製の橋ですが、瀬田川は、緩やかになみなみと水を湛えながらゆっくり流れ、何隻ものカヌーが滑っていました。
石山寺へは、この唐橋から1.5キロほどでしょうか。紫式部は源氏物語の構想をこの寺で練ったと語り継がれています。
京阪電車の線路と付かず離れず進むと、街道は膳所(ぜぜ)の城下町に入り、街道は鍵型を繰り返して進みます。いよいよ大津に入って、お茶した喫茶店で土地の人とおしゃべりに花が咲き、今宵の宿JR大津のホテルに付いたのはもう夜8時近くになっていました。
6月8日、朝8時にホテルを出発。少し寄り道をして琵琶湖まで足を延ばしました。日本一の湖は私の想像を遥かに越えて、遠くは霞み、ただ広い水面が広がっていました。
大津の宿場を過ぎると、路面電車が走る大きな道路はゆるやかにカーブしながら高度を上げていくのがわかります。この先に百人一首でも歌われた、「これやこのゆくも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」があり、越えるといよいよ京都山科地区へと続きます。ここには悲運の琵琶法師蝉丸を祭った蝉丸神社があり、逢坂山は今でも山の深さを感じることができます。
ひなびた街道沿いに「日本一のうなぎ かねよ」があり、昔伊勢から運ばれてくるうなぎに旅人は立ち寄ったのでしょう。今でも遠くから食べにくる人も多いと見えて、手広くやっている様子でした。
いよいよ街道は京都山科区に入り、ほどなく五条の別れ道標があり、三条大橋も間近かと思うと心躍り、一刻も早くという気持ちと、最後なんだから、ゆっくりゆっくり楽しもうという思い、気持ちがなかなか抑えきれなくなってきました。
まず、天智天皇陵に寄り、新緑のまぶしい楓のトンネルの中を通りながら大きく深呼吸しました。ところが、終点近い旧東海道は、最後の最後になって、道幅はぐっと狭くなり、道しるべもなく、旧東海道で一番狭くわかりづらい場所だったのではと思われました。
三条大橋まであと1.5キロの地点に蹴上駅の先に南禅寺があり、ちょうどお昼になったことでもあり、湯豆腐を食べて南禅寺境内にある琵琶湖疏水の流れる水路閣で一休みしました。
京阪の線路に沿って三条通を進むと、前方に三条大橋の信号が見え、日本橋からの長い旅の終点三条大橋にたどり着くことができました。
日本橋から133里9町、4年かけた旅は、述べ34日間でゴールにたどり着くことができました。やったー! そしてやれやれ。
街道には 立派な建物、貴重な石仏、心和む
風景などなどこれからも大事に残してもらいたい
ですね。最後のカンパイの写真で、今までの
気持ち現れていますよ。
旧東海道を踏破するとは、すごいですね。
数年前に私の友人も京都から日本橋まで約1カ月かけて歩きましたが、真っ黒に日焼けし、足は豆だらけで大変でした。
お疲れ様。ゆっくり休んでください。
写真の家並みも、ちょっと懐かしい風景ですね。
疲れを取ってから、また、新しい目標ができるかもしれませんね。
私は、相変わらず近所を歩き回っています。
歴史あり、現在の町並みあり、美味しいものあり、人との出会いありと
旅の途中で出会われたものも大きかったとお察しします。
でも何よりは、続けたということ、そして完歩したということでしょう。
喜びが伝わってきましたよ、おめでとう!ございます!
ほとんどの宿場で、貴重な当時の街並みに出会うことができました。街を愛し、今もなお大切に過ごしている家を旧東海道を歩いて垣間見ることができたのは貴重な体験でした。
>kyowalkingさん
連続で、旧東海道を歩きとおしたお友達はすごいですね。私は4年をかけているので、足の豆こそ癒す時間がありましたが、同じ靴で歩いたので、さすがに靴の底は穴があいてしまいました。
>お花大好き!さん
東海道の次の目標は?と、よく聞かれますが、取り敢えずしばらくはお休みです。まず膨大な写真とメモを纏めてみようと思っています。
>はなこさん
新幹線で京都まで、ひとっ飛びですが、歩いて始めてその土地土地の食べ物にふれる事ができ、食いしん坊の私としては幸せでした。特に甘味のお店は、旧東海道が開けた当時から、何代も続いている所が多く、その味も長い間受け継がれていて、とてもおいしかったです!