今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

シンデレラの日

2005-01-05 | 記念日
今日は「シンデレラの日」
1956(昭和31)年1月5日、突如、ハリウッド女優グレース・ケリー(Grace Patricia Kelly)とモナコ大公レーニエ(Rainier)3世が婚約を発表し、4月19日に華麗な結婚式を挙げた。当時、このシンデレラ・ストーリーは世界中の話題となった。
グレースは建築業を営み、フィラデルフィアの市長選に立候補したこともある父親と、モデル出身の母親の間に生まれ、フィラデルフィアの裕福な家庭で何不自由ない少年期を過ごす。幼い頃から上流家庭の子女のたしなみとしてダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示して12歳の時にはアマチュア劇団にも参加するようになる。高校を卒業すると、父親の反対をおしきって女優になることを志してニューヨークに移り、最初ニューヨークでモデルの仕事を経て1949年に女優としてブロードウェイに出演するが、その後西海岸に移動。1952年ゲーリー・クーパー主演の「真昼の決闘(High Noon)」でケーンの妻アミーの役を演じて注目され、その後「モガンボ」でクラーク・ゲイブルに思いを寄せる清楚な若妻役に起用され、この「モガンボ」(1953年)でアカデミー助演女優賞にノミネートされ、清楚でエレガントな魅力が注目を集めるようになり、アルフレッド・ヒッチコック監督に注目され、その後の「ダイヤルMを廻せ」「裏窓」など次々とヒット作に出演して人気を不動のものにした。そして、ジョージ・シートン監督の「喝采」(1954)では、アカデミー主演女優賞を獲得。ヒッチコックとの3作目「泥棒成金」(1955年)でのケーリー・グラントとの軽妙なタッチでの愛の駆け引きもよかったな~。この年、1955年のカンヌ映画祭のために南フランスを訪れた時に、フランスのある雑誌が彼女とモナコ国王レーニエ大公との対談を企画し二人は出会った。その後レーニエ大公にプロポーズされた彼女は、翌1956年1月に婚約を発表、4月19日に華麗な結婚式を挙げ、モナコ国王妃となった。
西ヨーロッパの都市国家・モナコ公国は、フランスの地中海沿岸地方コート・ダジュールのイタリアとの国境近くに位置し、モンテカルロのカジノや毎年開催されるF1グランプリなどで知られていたが、人口は3万人ほど、国土は日本の皇居の2倍ほどの広さしかない世界で2番目に小さな国。この二人の結婚は世界中の人たちを驚かせ、「シンデレラ物語」として囃された。そして、モナコは一躍世界中の人から注目を集めるようになり、ヨーロッパだけでなくアメリカからの観光客などがドッと押しよせ、この2~3年後には観光収入も倍近くなりモナコはヨーロッパ随一のゴージャスなリゾート地になった。
彼女が王妃になって後の映画出演はなく、彼女の最後の出演作品となったのは結婚の年(1956年)に公開されたフランク・シナトラ、ビング・クロスビーとの共演のよる「上流社会(High Society)」であり、映画のラストはクロスビー演じる元夫と結婚するシーンである。彼女の運命を暗示しているようですね。レーニエ大公との結婚後、1957年にキャロリーヌ王女、1958年にアルベール王子、1966年にステファニー王女と3人の子供に恵まれた。なお、このとき、王妃が妊娠中にエルメスのバッグでおなかを隠した写真が雑誌へ掲載され、それ以降このバッグは「ケリーバッグ」と呼ばれるようになった。その後、慈善事業にも力を入れ、国民にも慕われる王妃になったが、1982年9月14日、娘のステファニー王女の運転する車に乗っていて交通事故により急逝。52歳であった。
アメリカでは、リタ・ヘイワースやマリリン・モンローのようなグラマラスな女優が人気を得ていた中で、上流階級の人そのものの本当に清楚で品のいい“エレガンス”な女優であった。愛称も、「グレイシー」と呼ばれていた。ハリウッドの人気女優が、突然結婚し、本物の女王様になってしまったが、私も当時のアメリカの女優では一番好きな女優であった。
(画像は、映画『上流社会』1984年リバイバル時のチラシ)
参考:
グレース・ケリー  Grace Kelly
http://www.geocities.co.jp/Hollywood/5710/g-kelly.html
モナコ政府観光会議局公式サイト monaco
http://www.monaco.or.jp/info/history/main.html