今日(1月9日)は「クイズの日,とんちの日」
とんちで有名な一休さん(一休宗純)から、「いっ(1)きゅう(9)」の語呂合せ記念日。
広辞苑に寄れば、一休(1394~1481)は、室町中期の臨済宗の僧。諱(イミナ)は宗純、号は狂雲。一休は字(アザナ)。後小松天皇の落胤といわれる。京都大徳寺の住持。詩・狂詩に巧みで書画をよくする。禅院の腐敗に抗し、奇行が多かった。詩集「狂雲集」。一休諸国咄などに伝説化され、小説・戯曲に描かれるとある。
一休といえば、頓知のきく可愛い小坊主を思い浮かべるが、この一休のイメージは、江戸時代初期に刊行された仮名草子(かなぞうし)のひとつ「一休咄」(いっきゅうばなし)によるもので、これは没後130年ほどたってから書かれたものであり、実像とは大きくかけ離れている。
一休は21歳の時と54歳の時の二度も自殺を試みており、寛政の大飢饉から応仁の乱へと続く退廃した世に対し、痛烈な批判行動から「風狂」とも称され、大徳寺住持の論旨までをも賜る程の高僧であったが、公然と酒を飲み、女性も愛した。ここに書かれた一休とはかなり別の顔を持った人物ともいえる。
彼は、南北朝の動乱が終わった頃の1394年(応永元年)1月1日京都嵯峨野で生まれ、父は、後小松天皇であるともいわれているが出生について一休は語ったことがないと言われよく判らないが、6歳の頃、安国寺という禅寺の童に出され、以来京都の寺を幾つか転々としている。
21才の時煩悩に悩まされた一休は、京を出て琵琶湖で入水自殺を図ったが命をとりとめた。自殺し損ねた一休はその後、大津市堅田で峻厳をもって聞こえていた華雙(けそう)禅師のいる臨済宗大徳寺派祥端寺の門をたたき、華雙禅師のもとで修行をした。
「一休」の名は、ここで修行している25歳の時に詠んだ、
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の歌の中から華雙禅師によって授けられたといわれている。
そして、一休は、自らを「狂雲」と呼んだが、一休の奇矯(ききょう)な言動は、すでに華雙の弟子の時から始まっていたらしい。
一休の肖像画は多くあるが、その大部分は、他の禅僧とは異なり、髪をのばし、無精髭まではやしている。これは当時では考えられない姿で、破戒僧の姿であった。一休は生涯野にいた野僧であり、決して大きな寺に居座るようなことはせず、弟子も持たなかった。あの華雙より印可(いんか=師僧が弟子に悟道の熟達を証明すること)の証明書を貰ったがそれを焼き捨ててしまったという。
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」 狂雲子
一休はこの歌を唄いながら、棒の先に髑髏をくっつけて正月の町をねり歩いたとう。 又、腰に朱太刀をさして町を歩き回ったりもしていた。これらの行動が「奇行」とされているが、髑髏は「人の命のはかさな」を説いたものであり、朱太刀の中身は木刀で「みせかけだけの坊主にだまされるな」という意味で、これは、庶民に仏教の理を分かりやすく説くための行動の一つであったようである。一休にすれば、世間の人を驚かせて、その驚きにおいてハッと気づかせるというのが目的であったように思える。この種の頓知、ユーモアというか風狂が、後に頓知一休となったのではないだろうか。
当時、一般の禅僧たちが大寺に出世することを立身と考え、権力者やパトロンたちに取り入っている俗僧たちを軽蔑し、死ぬ数年前に大徳寺の住職になったが直ぐその座から降りている。一般に、大徳寺の再建は一休のように言われているが、その再建に並々ならぬ才幹を示したのは、一休より18才年長の兄弟子、養雙(ようそう)の方が大きいようで、この養雙は学問にもすぐれ、詩文も良くした秀才らしいが、一休の目には、この秀才の中に人間の嘘を見抜いていたという。その為、一休が残した「自戒集」には、養雙に対する激しい罵倒の言葉が書き連ねられているという。
一休は晩年から生涯の終わりまで、京都府綴喜郡田辺にある「酬恩庵」俗に一休寺と呼ばれるところで過ごした。一休の過ごした時代は、10年以上も続いた戦争があり、金閣寺の北山文化から銀閣寺の東山文化へと移る転換期であり、そのような移行の時代に一休は大きな役割を果たした。一休の交友範囲は広く単に、仏教界だけでなく能の世阿弥、禅竹、茶の殊光、俳諧の山崎宗鑑、宗長、更に、墨絵のや墨斎など当時の文化を推進した錚々たる顔ぶれに影響を与えている。
そして、晩年の一休の身辺にいつも侍っていたという盲目の女性森女(しんにょ)との逸話も残すなど、人間らしい自由奔放な生き方もしている。一休は森侍者への愛情を幾つかの詩に詠んでいるが、「狂雲集」のなかには、情痴といっても過言でないくらいの露骨な愛欲の詩も多いという。そこには、今の自然つまり、人間には誰にでも色情心とか煩悩が強くはびこっており、自分にはどうしても焼き尽くせないことを告白しているのだと言う。非常に、大きくって、そのくせ日本一でたらめで、八方破れで、矛盾だらけの計り知れない人物といえるかも知れませんね~。そこが、一休の一番の魅力じゃ~ないでしょうか。
(画像は、国立国会図書館・肖像集索引より「一休宗純」)
参考:
仮名草子
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/kana/
一休宗純と茶の湯 No.1
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/ikkyu-1.html
とんちで有名な一休さん(一休宗純)から、「いっ(1)きゅう(9)」の語呂合せ記念日。
広辞苑に寄れば、一休(1394~1481)は、室町中期の臨済宗の僧。諱(イミナ)は宗純、号は狂雲。一休は字(アザナ)。後小松天皇の落胤といわれる。京都大徳寺の住持。詩・狂詩に巧みで書画をよくする。禅院の腐敗に抗し、奇行が多かった。詩集「狂雲集」。一休諸国咄などに伝説化され、小説・戯曲に描かれるとある。
一休といえば、頓知のきく可愛い小坊主を思い浮かべるが、この一休のイメージは、江戸時代初期に刊行された仮名草子(かなぞうし)のひとつ「一休咄」(いっきゅうばなし)によるもので、これは没後130年ほどたってから書かれたものであり、実像とは大きくかけ離れている。
一休は21歳の時と54歳の時の二度も自殺を試みており、寛政の大飢饉から応仁の乱へと続く退廃した世に対し、痛烈な批判行動から「風狂」とも称され、大徳寺住持の論旨までをも賜る程の高僧であったが、公然と酒を飲み、女性も愛した。ここに書かれた一休とはかなり別の顔を持った人物ともいえる。
彼は、南北朝の動乱が終わった頃の1394年(応永元年)1月1日京都嵯峨野で生まれ、父は、後小松天皇であるともいわれているが出生について一休は語ったことがないと言われよく判らないが、6歳の頃、安国寺という禅寺の童に出され、以来京都の寺を幾つか転々としている。
21才の時煩悩に悩まされた一休は、京を出て琵琶湖で入水自殺を図ったが命をとりとめた。自殺し損ねた一休はその後、大津市堅田で峻厳をもって聞こえていた華雙(けそう)禅師のいる臨済宗大徳寺派祥端寺の門をたたき、華雙禅師のもとで修行をした。
「一休」の名は、ここで修行している25歳の時に詠んだ、
「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」の歌の中から華雙禅師によって授けられたといわれている。
そして、一休は、自らを「狂雲」と呼んだが、一休の奇矯(ききょう)な言動は、すでに華雙の弟子の時から始まっていたらしい。
一休の肖像画は多くあるが、その大部分は、他の禅僧とは異なり、髪をのばし、無精髭まではやしている。これは当時では考えられない姿で、破戒僧の姿であった。一休は生涯野にいた野僧であり、決して大きな寺に居座るようなことはせず、弟子も持たなかった。あの華雙より印可(いんか=師僧が弟子に悟道の熟達を証明すること)の証明書を貰ったがそれを焼き捨ててしまったという。
「門松は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」 狂雲子
一休はこの歌を唄いながら、棒の先に髑髏をくっつけて正月の町をねり歩いたとう。 又、腰に朱太刀をさして町を歩き回ったりもしていた。これらの行動が「奇行」とされているが、髑髏は「人の命のはかさな」を説いたものであり、朱太刀の中身は木刀で「みせかけだけの坊主にだまされるな」という意味で、これは、庶民に仏教の理を分かりやすく説くための行動の一つであったようである。一休にすれば、世間の人を驚かせて、その驚きにおいてハッと気づかせるというのが目的であったように思える。この種の頓知、ユーモアというか風狂が、後に頓知一休となったのではないだろうか。
当時、一般の禅僧たちが大寺に出世することを立身と考え、権力者やパトロンたちに取り入っている俗僧たちを軽蔑し、死ぬ数年前に大徳寺の住職になったが直ぐその座から降りている。一般に、大徳寺の再建は一休のように言われているが、その再建に並々ならぬ才幹を示したのは、一休より18才年長の兄弟子、養雙(ようそう)の方が大きいようで、この養雙は学問にもすぐれ、詩文も良くした秀才らしいが、一休の目には、この秀才の中に人間の嘘を見抜いていたという。その為、一休が残した「自戒集」には、養雙に対する激しい罵倒の言葉が書き連ねられているという。
一休は晩年から生涯の終わりまで、京都府綴喜郡田辺にある「酬恩庵」俗に一休寺と呼ばれるところで過ごした。一休の過ごした時代は、10年以上も続いた戦争があり、金閣寺の北山文化から銀閣寺の東山文化へと移る転換期であり、そのような移行の時代に一休は大きな役割を果たした。一休の交友範囲は広く単に、仏教界だけでなく能の世阿弥、禅竹、茶の殊光、俳諧の山崎宗鑑、宗長、更に、墨絵のや墨斎など当時の文化を推進した錚々たる顔ぶれに影響を与えている。
そして、晩年の一休の身辺にいつも侍っていたという盲目の女性森女(しんにょ)との逸話も残すなど、人間らしい自由奔放な生き方もしている。一休は森侍者への愛情を幾つかの詩に詠んでいるが、「狂雲集」のなかには、情痴といっても過言でないくらいの露骨な愛欲の詩も多いという。そこには、今の自然つまり、人間には誰にでも色情心とか煩悩が強くはびこっており、自分にはどうしても焼き尽くせないことを告白しているのだと言う。非常に、大きくって、そのくせ日本一でたらめで、八方破れで、矛盾だらけの計り知れない人物といえるかも知れませんね~。そこが、一休の一番の魅力じゃ~ないでしょうか。
(画像は、国立国会図書館・肖像集索引より「一休宗純」)
参考:
仮名草子
http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/kana/
一休宗純と茶の湯 No.1
http://www.joho-kyoto.or.jp/~retail/akinai/senjin/ikkyu-1.html