今日(1月14日)は「愛と希望と勇気の日,タロとジロの日」
1959(昭和34)年、南極に置き去りにされた南極観測隊の2匹のカラフト犬・タロとジロの生存が確認された。
1956(昭和31)年の秋、南極観測船「宗谷」で11人の隊員が東京港を出発。15頭のカラフト犬も犬ぞり隊として参加した。1958(昭和33)年、第2次越冬隊が乗り込む南極観測船「宗谷」は、昭和基地の手前140キロメートルの海上で氷に行く手を閉ざされ、身動きがとれなくなった。「宗谷」は例年にない厚い氷に閉じこめられたうえ、スクリューも破損、越冬隊は、荒天のため基地への上陸も、越冬も中止せざるをえない状況になってしまった。
11人の越冬隊員はヘリコプターで救出されたが、15頭のカラフト犬は救出することができず、鎖につないだまま氷原に置き去りにされた。
1958年11月12日、第3次観測隊は「宗谷」に、輸送用大型ヘリコプターを2機搭載しして東京港を出発。翌1959(昭和34)年1月南極海に入った。1月14日「宗谷」は、昭和基地から163キロの地点から空輸を開始、この日、ヘリコプターが1年前に置き去りにしたカラフト犬15頭のうち、2頭の生存を確認した「タロ」と「ジロ」である。置き去りにされたことを恨むどころか隊員との再会を喜ぶ2頭のカラフト犬のいじらしさに日本中が胸を熱くした。ジロは、第4次越冬中に南極で死亡したが、1961(昭和36)年に帰国したタロは1970(昭和45)年に老衰死した。現在は札幌市の北海道大学植物園で剥製として展示されている。
無人の極寒の南極で、約1年間、奇跡的に生き延びた、2頭のカラフト犬の物語は、約20年前(1983年)にも映画「南極物語」としても公開され、再び多くの人に感動を与え、大ヒットした。
1957年~1958年に計画された国際地球観測年(IGY)では、未知の世界だった南極大陸を各国が協力し、観測・調査を実施することが、大きな目的になっていた。第二次世界大戦が終わって10年、敗戦国日本がようやく国際社会に復帰をはじめたころ。まだ、主食の米も十分でなかったこの時代に、日本はこの国際共同観測の大事業に参加することを決め、南極地域観測総合推進本部が文部科学省(以前の文部省)に設置された。日本が基地を設けるために割りあてられた大陸沿岸域は人跡未踏の地であった。この当時は、予算も少なく船もなく、廃船間近の海上保安庁の灯台補給船「宗谷」(4,849トン)を、砕氷船に改造修理して南極へ就航させたた。この「宗谷」は昭和13年耐氷型貨物船として建造され、第二次世界大戦では、南洋で輸送船として活躍をして再三の空撃、魚雷を受けながら無事終戦を迎えた「運の良い船」dだそうで、その後は引楊船、灯台補給船となり、1956(昭和31)年11月からは日本初の南極観測船として1962(昭和37)年4月まで、6次にわたる南極観測に活躍。その後1978(昭和53)年まで海上保安庁の巡視船として活躍したが、翌年5月から、船の科学館前に係留され永久保存展示されている。
敗戦で何もかもなくしてしまった日本、今の時代の南極観測と違って大変な苦労だったろう。兎に角、南極観測隊員だけでなく、この時代の日本国民はみんなが、良く頑張ってきた。だからこそ、今の日本の繁栄がある。大いに自負していいだろう。それにしても、犬ってってのは、どうして、こんなに人なつっこく、やさしい動物なんだろうね~。
(画像は、20世紀デザイン切手:カラフト犬タロ・ジロ南極越冬)
参考:
南極観測のホームページ(制作・国立極地研究所)
http://www.nipr.ac.jp/jare/index.html
1959(昭和34)年、南極に置き去りにされた南極観測隊の2匹のカラフト犬・タロとジロの生存が確認された。
1956(昭和31)年の秋、南極観測船「宗谷」で11人の隊員が東京港を出発。15頭のカラフト犬も犬ぞり隊として参加した。1958(昭和33)年、第2次越冬隊が乗り込む南極観測船「宗谷」は、昭和基地の手前140キロメートルの海上で氷に行く手を閉ざされ、身動きがとれなくなった。「宗谷」は例年にない厚い氷に閉じこめられたうえ、スクリューも破損、越冬隊は、荒天のため基地への上陸も、越冬も中止せざるをえない状況になってしまった。
11人の越冬隊員はヘリコプターで救出されたが、15頭のカラフト犬は救出することができず、鎖につないだまま氷原に置き去りにされた。
1958年11月12日、第3次観測隊は「宗谷」に、輸送用大型ヘリコプターを2機搭載しして東京港を出発。翌1959(昭和34)年1月南極海に入った。1月14日「宗谷」は、昭和基地から163キロの地点から空輸を開始、この日、ヘリコプターが1年前に置き去りにしたカラフト犬15頭のうち、2頭の生存を確認した「タロ」と「ジロ」である。置き去りにされたことを恨むどころか隊員との再会を喜ぶ2頭のカラフト犬のいじらしさに日本中が胸を熱くした。ジロは、第4次越冬中に南極で死亡したが、1961(昭和36)年に帰国したタロは1970(昭和45)年に老衰死した。現在は札幌市の北海道大学植物園で剥製として展示されている。
無人の極寒の南極で、約1年間、奇跡的に生き延びた、2頭のカラフト犬の物語は、約20年前(1983年)にも映画「南極物語」としても公開され、再び多くの人に感動を与え、大ヒットした。
1957年~1958年に計画された国際地球観測年(IGY)では、未知の世界だった南極大陸を各国が協力し、観測・調査を実施することが、大きな目的になっていた。第二次世界大戦が終わって10年、敗戦国日本がようやく国際社会に復帰をはじめたころ。まだ、主食の米も十分でなかったこの時代に、日本はこの国際共同観測の大事業に参加することを決め、南極地域観測総合推進本部が文部科学省(以前の文部省)に設置された。日本が基地を設けるために割りあてられた大陸沿岸域は人跡未踏の地であった。この当時は、予算も少なく船もなく、廃船間近の海上保安庁の灯台補給船「宗谷」(4,849トン)を、砕氷船に改造修理して南極へ就航させたた。この「宗谷」は昭和13年耐氷型貨物船として建造され、第二次世界大戦では、南洋で輸送船として活躍をして再三の空撃、魚雷を受けながら無事終戦を迎えた「運の良い船」dだそうで、その後は引楊船、灯台補給船となり、1956(昭和31)年11月からは日本初の南極観測船として1962(昭和37)年4月まで、6次にわたる南極観測に活躍。その後1978(昭和53)年まで海上保安庁の巡視船として活躍したが、翌年5月から、船の科学館前に係留され永久保存展示されている。
敗戦で何もかもなくしてしまった日本、今の時代の南極観測と違って大変な苦労だったろう。兎に角、南極観測隊員だけでなく、この時代の日本国民はみんなが、良く頑張ってきた。だからこそ、今の日本の繁栄がある。大いに自負していいだろう。それにしても、犬ってってのは、どうして、こんなに人なつっこく、やさしい動物なんだろうね~。
(画像は、20世紀デザイン切手:カラフト犬タロ・ジロ南極越冬)
参考:
南極観測のホームページ(制作・国立極地研究所)
http://www.nipr.ac.jp/jare/index.html