今日(1月13日)は「たばこの日,ピース記念日」
1946(昭和21)年、高級たばこ「ピース」が発売された。当時、10本入りで7円で、日曜・祝日に1人1箱だけに限られていた。
黄金の国ジパングを目指して大西洋を西に向かったコロンブス(1451~1506)の探検隊は、苦しい航海の末、1492年、西インド諸島のひとつの島・、サンサルバドル島に到達し、ここで、先住民への贈り物の返礼に差し出された「香り高い乾燥した葉」が、たばこであった。この煙草はヨーロッパでは、当初、薬品・観賞用の植物であったが、次第に喫煙の風習が広まり嗜好品として流行。それがやがて、世界各地に伝えられ、日本には南蛮貿易によって伝えられ、16世紀の末以降、日本にも喫煙の風習が広がり、国内でもたばこの栽培が始まり、江戸時代の庶民を中心に、嗜好品として広く親しまれながら、日本独自の文化を形成してきた。
江戸時代に形成されたたばこ文化の特徴のひとつは、「細刻みをきせるで吸う」ことであり、煙草を毛髪のように細く刻むという例は、外国には見られないものだそうだ。刻み煙草を吸うための喫煙具など独特の文化を創ってきたが、この刻み煙草も、明治時代に入り、洋風化していくなかで、紙巻たばこ(シガレット)がもてはやされるようになり、中でも紙巻たばこは、ハイカラな風俗のシンボルとして日本人の興味を引き、日本の国内でも、シガレット作りに挑戦する人々が登場し、新しい産業へと育っていった。
政府は、1876(明治9)年、「煙草税則」で、営業税と商品個々の印紙税の徴収を実施し、そして1904(明治37)年「煙草専売法」により、原料葉たばこの買い上げから製造販売までを国の管理(製造専売)で行われることにした。以来、大蔵省専売局から日本専売公社へと引き継がれながら、昭和60年3月まで専売の時代が続いた。
昭和20年(1945)、日本敗戦。極端な品不足が続き、たばこも配給制で、終戦直後には一日三本という状況であった。
今、思い出せば、ヤミ市では私製の手巻たばこや進駐軍横流しの外国たばこが出回っていたが、これらからたばこが手に入らない人は、たばこを吸わない人と米などと物々交換してまで吸っていた。私の父は酒飲みではあったが、たばこはすわなかったので、配給のたばこを、親戚のたばこ好きの人にあげていた。そういえば、当時は、きざみたばこを専用の器械で紙に巻いて吸っていたな~。人にあげるために、たばこを紙に巻いたのを思い出す。食べるものもない戦後の時代に、嗜好品のたばこ欲しさにお米などと交換していた人もいたが、家族は泣いたんだろうな~。
そして、1946(昭和21)年、高級たばこ「ピース」が発売されたが、ピースの新しいデザイン「鳩がオリーブの葉をくわえている」ものは、1952(昭和27)年の4月に発売され、その斬新なデザインが大評判となった。このピースの新デザインは、アメリカの商業デザイナー、レイモンド・ローウィによるもので、ローウィに支払われたデザイン料は150万円だったという。当時の内閣総理大臣の月給が11万円だったというからいかに高額であったか推察できるが、この斬新なデザインのピースが発売されるや売り上げは、前年同月に比べ3倍にもなったといい、また、その濃紺地は「ピース紺」という新しい色調を生むなど、産業界はもとより、一般の人々の間にもデザインに対する関心を深めるきっかけとなったという。
その後、1957(昭和32)年、国産初のフィルター付たばこ「ホープ」が登場したのをきっかけに、フィルター付紙巻たばこが主流になっったが、私は、その頃就職し、少ない小遣いの中から奮発して、缶入りのピースを買って持ち歩いていたね~。もう、フィルター付たばこが出ているのに、かさが張り、邪魔なのに香りが良いので、ピースの缶入りたばこを持ち歩いていたが、今、思うと、一寸、キザだね~。
以来、たばこは長く愛用してきたが、たばこは害になると、いうので、嫌煙運動が盛んなり、職場でも喫煙場所でしか吸えない環境になってきた。特に、諸外国、中でも、アメリカなどでは、吸える場所は限られており、そこで吸っていても周りの人からは軽蔑の眼で見られるようになった。その為、約10年前にアメリカへ行く時に禁煙した。周りの人が、軽蔑の眼で見ている中で、遠慮して吸っても楽しくないからね~。でも、今となっては、そのとき、禁煙してよかったと思っている。10年前からするともっと、喫煙環境が厳しくなっているのに、まだ、止められない人が居るが、もう、やめた方がいいんじゃ~ない・・・?やめた方が健康には良いと思うよ・・・。
(画像はタバコのピース)
参考:
日本たばこ産業(JT)
http://www.jti.co.jp/JTI/Welcome.html
1946(昭和21)年、高級たばこ「ピース」が発売された。当時、10本入りで7円で、日曜・祝日に1人1箱だけに限られていた。
黄金の国ジパングを目指して大西洋を西に向かったコロンブス(1451~1506)の探検隊は、苦しい航海の末、1492年、西インド諸島のひとつの島・、サンサルバドル島に到達し、ここで、先住民への贈り物の返礼に差し出された「香り高い乾燥した葉」が、たばこであった。この煙草はヨーロッパでは、当初、薬品・観賞用の植物であったが、次第に喫煙の風習が広まり嗜好品として流行。それがやがて、世界各地に伝えられ、日本には南蛮貿易によって伝えられ、16世紀の末以降、日本にも喫煙の風習が広がり、国内でもたばこの栽培が始まり、江戸時代の庶民を中心に、嗜好品として広く親しまれながら、日本独自の文化を形成してきた。
江戸時代に形成されたたばこ文化の特徴のひとつは、「細刻みをきせるで吸う」ことであり、煙草を毛髪のように細く刻むという例は、外国には見られないものだそうだ。刻み煙草を吸うための喫煙具など独特の文化を創ってきたが、この刻み煙草も、明治時代に入り、洋風化していくなかで、紙巻たばこ(シガレット)がもてはやされるようになり、中でも紙巻たばこは、ハイカラな風俗のシンボルとして日本人の興味を引き、日本の国内でも、シガレット作りに挑戦する人々が登場し、新しい産業へと育っていった。
政府は、1876(明治9)年、「煙草税則」で、営業税と商品個々の印紙税の徴収を実施し、そして1904(明治37)年「煙草専売法」により、原料葉たばこの買い上げから製造販売までを国の管理(製造専売)で行われることにした。以来、大蔵省専売局から日本専売公社へと引き継がれながら、昭和60年3月まで専売の時代が続いた。
昭和20年(1945)、日本敗戦。極端な品不足が続き、たばこも配給制で、終戦直後には一日三本という状況であった。
今、思い出せば、ヤミ市では私製の手巻たばこや進駐軍横流しの外国たばこが出回っていたが、これらからたばこが手に入らない人は、たばこを吸わない人と米などと物々交換してまで吸っていた。私の父は酒飲みではあったが、たばこはすわなかったので、配給のたばこを、親戚のたばこ好きの人にあげていた。そういえば、当時は、きざみたばこを専用の器械で紙に巻いて吸っていたな~。人にあげるために、たばこを紙に巻いたのを思い出す。食べるものもない戦後の時代に、嗜好品のたばこ欲しさにお米などと交換していた人もいたが、家族は泣いたんだろうな~。
そして、1946(昭和21)年、高級たばこ「ピース」が発売されたが、ピースの新しいデザイン「鳩がオリーブの葉をくわえている」ものは、1952(昭和27)年の4月に発売され、その斬新なデザインが大評判となった。このピースの新デザインは、アメリカの商業デザイナー、レイモンド・ローウィによるもので、ローウィに支払われたデザイン料は150万円だったという。当時の内閣総理大臣の月給が11万円だったというからいかに高額であったか推察できるが、この斬新なデザインのピースが発売されるや売り上げは、前年同月に比べ3倍にもなったといい、また、その濃紺地は「ピース紺」という新しい色調を生むなど、産業界はもとより、一般の人々の間にもデザインに対する関心を深めるきっかけとなったという。
その後、1957(昭和32)年、国産初のフィルター付たばこ「ホープ」が登場したのをきっかけに、フィルター付紙巻たばこが主流になっったが、私は、その頃就職し、少ない小遣いの中から奮発して、缶入りのピースを買って持ち歩いていたね~。もう、フィルター付たばこが出ているのに、かさが張り、邪魔なのに香りが良いので、ピースの缶入りたばこを持ち歩いていたが、今、思うと、一寸、キザだね~。
以来、たばこは長く愛用してきたが、たばこは害になると、いうので、嫌煙運動が盛んなり、職場でも喫煙場所でしか吸えない環境になってきた。特に、諸外国、中でも、アメリカなどでは、吸える場所は限られており、そこで吸っていても周りの人からは軽蔑の眼で見られるようになった。その為、約10年前にアメリカへ行く時に禁煙した。周りの人が、軽蔑の眼で見ている中で、遠慮して吸っても楽しくないからね~。でも、今となっては、そのとき、禁煙してよかったと思っている。10年前からするともっと、喫煙環境が厳しくなっているのに、まだ、止められない人が居るが、もう、やめた方がいいんじゃ~ない・・・?やめた方が健康には良いと思うよ・・・。
(画像はタバコのピース)
参考:
日本たばこ産業(JT)
http://www.jti.co.jp/JTI/Welcome.html