今日は「十日えびす」の日
毎年、1月10日の早朝6時に、壮麗な朱塗りの「赤門」から勢いよく飛び出してきた男たちが、本殿までの200メートルを脱兎の如く駆け抜けていく「福男」選びの映像がTVで放映されるので見られた方は多いでしょう。兵庫県西宮市にある西宮神社恒例の「開門神事福男選び」である。十日えびすの、前日の9日は「宵えびす」、10日は「本えびす」、11日は「残り福」と呼ばれ、この本えびすの早朝に行われる「福男選び」が、今では、最大の祭事となっている。
この福男選びのルーツは古く、鎌倉時代に迄さかのぼるというが、もともとは、「十日えびす」の朝、えびす神の信者たちが「参拝一番乗り」をしようと、自宅から神社まで走って参った・・・というのが起源だといい、現在の「門前に集まり、開門を待つ」という形になったのは、江戸時代に入ってからとのことだそうだ。今でこそ「神事」だが、元々は、庶民のえびす神信仰の中から自然発生したものなのだが、今では、マスコミ報道等により、全国区のイベントになり、参加者も増え続け、参加者が多すぎ、そのため事故まで起こることもある。
この西宮神社は、通称「えべっさん」の名で親しまれている商売繁盛の神で、毎年、十日えびす(1/9~11日)には、100万人を越す人出で賑わっている。全国3000社のえびす神社の総本社である。大阪の今宮戎神社がTV放映などされ有名であるが、実は本家はこちらである。今宮戎は、昔は、今西宮戎神社、つまり(今=新しい)西宮戎神社と呼んでいたものが、短縮され今宮戎になったもので、後に作られたものとの事。西宮よりも商都大阪にあるため、商売繁盛で賑ったのだろう。
西宮神社の祭神は、第1殿・西宮大神(蛭子命)を主神に、第2殿が天照大神・第3殿が大国主大神・須佐之男大神を祀る。当社はすでに平安時代に当社地に鎮座されていたことは、境内より出土の蓮華文古瓦により明証され、また『伊呂波字類抄』を徴しても明らかであり、平安時代末期にはすでに皇族、貴族が拝観に訪れていたとされている。
中世以来えびす神を福徳の神とする信仰が広まり、大漁満足・海上安全・商売繁昌に霊験ありと全国に知られていったが、その効を一層深めていったのは、神社の社人として境内の北隣に住居していた「傀儡師」(人形使い)がえびす神の人形操りを行って津々浦々に巡回していったことも大きな要因となっており、人形操りの祖神として百太夫神が境内に祠られている。新春の初詣(1月1日~3日)のあと、5日午前11時から「百太夫神社祭」というお祭りがある。この傀儡師の人形操りが淡路人形浄瑠璃や大阪文楽の源流と言われている。
江戸時代に入り、徳川家綱の寄進により本殿(三連春日造76平方メートル)が再建されたが、これを契機として全国各地に頒布していた恵比須神の神像画札の版権を徳川幕府から得、現在も全国に配布されているという。
本殿は昭和20年戦災で焼失。昭和36年総桧造で元の姿に復元されたが、さきの阪神大震災で大きな被害を受けた。しかし、本殿及び拝殿はもとより、赤門・南門・北門・大練塀他一切が4年の歳月をかけて復興されている。
ここの御祭神・西宮大神(蛭子命)は、先にも述べたが全国のヒルコ系えびす神社の総本社である。(事代主系えびす神社の総本社は出雲の美保神社)
「えびす」は恵比寿・恵比須・愛比須・夷・戎・海老主などと書くが、蛭子と書いてもえびすと読むが、「蛭子」は「ヒルコ」という読み方が本来のもの。このヒルコとは日本の国生の神様である、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の最初の第一子で、生まれて3年たっても足がたたなかったため葦船に乗せて流される。その流されてきたえびす様が拾われ祀られている。
西宮神社では、日本第一の大神事として、治承4(1180)年に始ったみこし渡御(山槐記にも記されている)を400年ぶりに復活。この神幸は、えびす様の御神像を和田岬の沖で得たという御鎮座伝説に由来するものだが、織田信長の介入によって船渡御が廃絶してしまい祭典のみが例祭として斎行されてきた。昭和29年からは例祭の後、神輿行列が巡行する渡御祭が再興されたが、平成7年の阪神大震災以降中断。平成12年、震災復興記念として約四百年ぶりに海上渡御を実現し、西宮まつりと名付けられている(9月23日)。
えびすは、「広辞苑」にも、「夷・戎」(エミシの転)、都から遠く離れた開けぬ土地の民との意があり、海を渡ってきた外来神のことではないかと言われている。
傀儡子は、海人族の流れを汲み、各地の港や街道をめぐり、人形、歌舞などの芸を演じた、芸能者集団であるが、西宮神社にも、はやくから海人族、傀儡子が属し、芸能集団をなしていたそうである。このことについては、昭和61年NHK大河ドラマ「武蔵坊弁慶」の原作(冨田常雄、講談社)にも、西宮神社と海神とのかかわりが書かれていたことを記憶している。
古来、農耕民族日本の歴史は、本土の農民社会を中心に描かれており、海で生活するものは海人(時には海賊)、山で生活するものは山人(時には山賊)と呼び蔑視していた。しかし、日本の商業の始まりは、山で猟をするものや海で漁や海外との貿易をするものが、都へ出てきて市で商いをしたのが始まりと言われている。特に海人は諸外国との貿易もしており、商いは活発であった。それが証拠に、江戸時代以降財をなした三井、住友も海人の出である。えびすさんが、漁業の神、商売の神として、賑わってきた由縁だと考えている。
(画像は西宮神社)
参考:
西宮神社(西宮えびす神社)
http://hccweb6.bai.ne.jp/~hgb90801/
西宮えびす神社
http://www.genbu.net/data/settu/nisinomiya_title.htm
西宮神社
http://www.bfortune.net/spirit/zinzya/miya/nisinomiya.htm
船渡御 西宮神社
土井国男編 「遥けき筑紫舞 --- 古代王朝の風韻、舞姿に映して」
http://www.geocities.jp/rekisi_neko/tomtom-11.html
茨城芸能史
金砂山の信仰第一節 天台宗と金砂山
http://www.jsdi.or.jp/~otagiri/kanasa/bunken/sonsi/sonsi177.htm
毎年、1月10日の早朝6時に、壮麗な朱塗りの「赤門」から勢いよく飛び出してきた男たちが、本殿までの200メートルを脱兎の如く駆け抜けていく「福男」選びの映像がTVで放映されるので見られた方は多いでしょう。兵庫県西宮市にある西宮神社恒例の「開門神事福男選び」である。十日えびすの、前日の9日は「宵えびす」、10日は「本えびす」、11日は「残り福」と呼ばれ、この本えびすの早朝に行われる「福男選び」が、今では、最大の祭事となっている。
この福男選びのルーツは古く、鎌倉時代に迄さかのぼるというが、もともとは、「十日えびす」の朝、えびす神の信者たちが「参拝一番乗り」をしようと、自宅から神社まで走って参った・・・というのが起源だといい、現在の「門前に集まり、開門を待つ」という形になったのは、江戸時代に入ってからとのことだそうだ。今でこそ「神事」だが、元々は、庶民のえびす神信仰の中から自然発生したものなのだが、今では、マスコミ報道等により、全国区のイベントになり、参加者も増え続け、参加者が多すぎ、そのため事故まで起こることもある。
この西宮神社は、通称「えべっさん」の名で親しまれている商売繁盛の神で、毎年、十日えびす(1/9~11日)には、100万人を越す人出で賑わっている。全国3000社のえびす神社の総本社である。大阪の今宮戎神社がTV放映などされ有名であるが、実は本家はこちらである。今宮戎は、昔は、今西宮戎神社、つまり(今=新しい)西宮戎神社と呼んでいたものが、短縮され今宮戎になったもので、後に作られたものとの事。西宮よりも商都大阪にあるため、商売繁盛で賑ったのだろう。
西宮神社の祭神は、第1殿・西宮大神(蛭子命)を主神に、第2殿が天照大神・第3殿が大国主大神・須佐之男大神を祀る。当社はすでに平安時代に当社地に鎮座されていたことは、境内より出土の蓮華文古瓦により明証され、また『伊呂波字類抄』を徴しても明らかであり、平安時代末期にはすでに皇族、貴族が拝観に訪れていたとされている。
中世以来えびす神を福徳の神とする信仰が広まり、大漁満足・海上安全・商売繁昌に霊験ありと全国に知られていったが、その効を一層深めていったのは、神社の社人として境内の北隣に住居していた「傀儡師」(人形使い)がえびす神の人形操りを行って津々浦々に巡回していったことも大きな要因となっており、人形操りの祖神として百太夫神が境内に祠られている。新春の初詣(1月1日~3日)のあと、5日午前11時から「百太夫神社祭」というお祭りがある。この傀儡師の人形操りが淡路人形浄瑠璃や大阪文楽の源流と言われている。
江戸時代に入り、徳川家綱の寄進により本殿(三連春日造76平方メートル)が再建されたが、これを契機として全国各地に頒布していた恵比須神の神像画札の版権を徳川幕府から得、現在も全国に配布されているという。
本殿は昭和20年戦災で焼失。昭和36年総桧造で元の姿に復元されたが、さきの阪神大震災で大きな被害を受けた。しかし、本殿及び拝殿はもとより、赤門・南門・北門・大練塀他一切が4年の歳月をかけて復興されている。
ここの御祭神・西宮大神(蛭子命)は、先にも述べたが全国のヒルコ系えびす神社の総本社である。(事代主系えびす神社の総本社は出雲の美保神社)
「えびす」は恵比寿・恵比須・愛比須・夷・戎・海老主などと書くが、蛭子と書いてもえびすと読むが、「蛭子」は「ヒルコ」という読み方が本来のもの。このヒルコとは日本の国生の神様である、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)二神の最初の第一子で、生まれて3年たっても足がたたなかったため葦船に乗せて流される。その流されてきたえびす様が拾われ祀られている。
西宮神社では、日本第一の大神事として、治承4(1180)年に始ったみこし渡御(山槐記にも記されている)を400年ぶりに復活。この神幸は、えびす様の御神像を和田岬の沖で得たという御鎮座伝説に由来するものだが、織田信長の介入によって船渡御が廃絶してしまい祭典のみが例祭として斎行されてきた。昭和29年からは例祭の後、神輿行列が巡行する渡御祭が再興されたが、平成7年の阪神大震災以降中断。平成12年、震災復興記念として約四百年ぶりに海上渡御を実現し、西宮まつりと名付けられている(9月23日)。
えびすは、「広辞苑」にも、「夷・戎」(エミシの転)、都から遠く離れた開けぬ土地の民との意があり、海を渡ってきた外来神のことではないかと言われている。
傀儡子は、海人族の流れを汲み、各地の港や街道をめぐり、人形、歌舞などの芸を演じた、芸能者集団であるが、西宮神社にも、はやくから海人族、傀儡子が属し、芸能集団をなしていたそうである。このことについては、昭和61年NHK大河ドラマ「武蔵坊弁慶」の原作(冨田常雄、講談社)にも、西宮神社と海神とのかかわりが書かれていたことを記憶している。
古来、農耕民族日本の歴史は、本土の農民社会を中心に描かれており、海で生活するものは海人(時には海賊)、山で生活するものは山人(時には山賊)と呼び蔑視していた。しかし、日本の商業の始まりは、山で猟をするものや海で漁や海外との貿易をするものが、都へ出てきて市で商いをしたのが始まりと言われている。特に海人は諸外国との貿易もしており、商いは活発であった。それが証拠に、江戸時代以降財をなした三井、住友も海人の出である。えびすさんが、漁業の神、商売の神として、賑わってきた由縁だと考えている。
(画像は西宮神社)
参考:
西宮神社(西宮えびす神社)
http://hccweb6.bai.ne.jp/~hgb90801/
西宮えびす神社
http://www.genbu.net/data/settu/nisinomiya_title.htm
西宮神社
http://www.bfortune.net/spirit/zinzya/miya/nisinomiya.htm
船渡御 西宮神社
土井国男編 「遥けき筑紫舞 --- 古代王朝の風韻、舞姿に映して」
http://www.geocities.jp/rekisi_neko/tomtom-11.html
茨城芸能史
金砂山の信仰第一節 天台宗と金砂山
http://www.jsdi.or.jp/~otagiri/kanasa/bunken/sonsi/sonsi177.htm