今日(1月18日)は、「振袖火事の日」
1657(明暦3)年、1月18日、本郷丸山の本妙寺から出火した火事、翌19日小石川伝通院近くの武家屋敷から出荷した火事、同19日夕刻麹町5丁目の町屋から出火した火事が延焼し大災害となったのを総称して明暦の大火と呼んでいる。
この2日間に及ぶ明暦の火事による被害は、資料により異なるらしいが、江戸城にも飛び火し、天守閣、本丸、二丸、三丸の御殿を消失したといい、江戸神田を代表する文化人・斎藤月岑(文化元年1804-明治11年1878)は、この大火の被害状況を『武江年表』に「万石以上の御屋敷五百余宇、御旗本七百七十余宇、堂社三百五十余宇、町屋四百町、焼死十万七千四十六人といへり」と記しており、現在の千代田区、中央区の両区にあたる当時の江戸市街の大半が灰燼に帰したという。出火原因は不明であるが、当時由井小雪残党の放火の噂があったほか、後世には、大施餓鬼の火に投じた振袖衣装が燃え上がったのが原因との伝説が生じ「振袖火事」の名称がつけられた。この明暦の大火は、目黒行人坂の火災(明和9年2月29日)、丙寅の火災(文化3年3月4日)と並んで、江戸三大大火の一つに数えられているが、これらの火災の中でも筆頭格の火災である。
この明暦の大火後、幕府は、実測地図を作成し、江戸の改造計画に着手。その主なものは、一、建築の分散化、ニ、町地の拡大、三、町割の改正といったもので、広小路の設置、寺院・大名屋敷の移転、遊廓吉原の移転などが行われた。これらの一連の都市改造の直接的な目的はなんといっても火災に対する延焼防止であリ、これらの目的は、あくまで、最終的に守るべきものは領主の居館である江戸城であり、町地の拡大や町割の改正も、つまるところは、そこで、火事が広がっても江戸城に被害が及ばないようにとの考えからであり、また、武家の生活を実質的に支えている町地の災害が大きくなっても困るという事情があったものと考えられる。
しかし、これらも根本的な改革といえるものではなく、防災効果のある土蔵造や瓦葺屋根も贅沢禁止のために制限され、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われている。
この明暦の大火の様子を記録した国立国会図書館蔵、浅井了意の「むさしあぶみ」には、絵もつけられており、火事の様子などを興味深く見ることができる。
神田地域の民衆は猛火に追い立てられ、北方へ逃げようと神田川にかかる浅草橋に殺到した。しかし、囚人脱獄のデマに門は閉ざされてしまい、行く手は川にさえぎられ、多数の焼死者を出し、ここだけで2万3千人が死亡したと伝えている。阪神大震災ではないが、いかに正確な情報を早く伝えるかが、災害時にもっとも重要なことですね~。
(画像は、閉じた浅草門、東京都立中央図書館蔵)
参考:
消防防災博物館-本館-
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=BGG2&ac2=&ac3=1497&Page=hpd_view
東京消防庁<消防マメ知識><消防雑学事典>
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_30.htm
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1657(明暦3)年、1月18日、本郷丸山の本妙寺から出火した火事、翌19日小石川伝通院近くの武家屋敷から出荷した火事、同19日夕刻麹町5丁目の町屋から出火した火事が延焼し大災害となったのを総称して明暦の大火と呼んでいる。
この2日間に及ぶ明暦の火事による被害は、資料により異なるらしいが、江戸城にも飛び火し、天守閣、本丸、二丸、三丸の御殿を消失したといい、江戸神田を代表する文化人・斎藤月岑(文化元年1804-明治11年1878)は、この大火の被害状況を『武江年表』に「万石以上の御屋敷五百余宇、御旗本七百七十余宇、堂社三百五十余宇、町屋四百町、焼死十万七千四十六人といへり」と記しており、現在の千代田区、中央区の両区にあたる当時の江戸市街の大半が灰燼に帰したという。出火原因は不明であるが、当時由井小雪残党の放火の噂があったほか、後世には、大施餓鬼の火に投じた振袖衣装が燃え上がったのが原因との伝説が生じ「振袖火事」の名称がつけられた。この明暦の大火は、目黒行人坂の火災(明和9年2月29日)、丙寅の火災(文化3年3月4日)と並んで、江戸三大大火の一つに数えられているが、これらの火災の中でも筆頭格の火災である。
この明暦の大火後、幕府は、実測地図を作成し、江戸の改造計画に着手。その主なものは、一、建築の分散化、ニ、町地の拡大、三、町割の改正といったもので、広小路の設置、寺院・大名屋敷の移転、遊廓吉原の移転などが行われた。これらの一連の都市改造の直接的な目的はなんといっても火災に対する延焼防止であリ、これらの目的は、あくまで、最終的に守るべきものは領主の居館である江戸城であり、町地の拡大や町割の改正も、つまるところは、そこで、火事が広がっても江戸城に被害が及ばないようにとの考えからであり、また、武家の生活を実質的に支えている町地の災害が大きくなっても困るという事情があったものと考えられる。
しかし、これらも根本的な改革といえるものではなく、防災効果のある土蔵造や瓦葺屋根も贅沢禁止のために制限され、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われている。
この明暦の大火の様子を記録した国立国会図書館蔵、浅井了意の「むさしあぶみ」には、絵もつけられており、火事の様子などを興味深く見ることができる。
神田地域の民衆は猛火に追い立てられ、北方へ逃げようと神田川にかかる浅草橋に殺到した。しかし、囚人脱獄のデマに門は閉ざされてしまい、行く手は川にさえぎられ、多数の焼死者を出し、ここだけで2万3千人が死亡したと伝えている。阪神大震災ではないが、いかに正確な情報を早く伝えるかが、災害時にもっとも重要なことですね~。
(画像は、閉じた浅草門、東京都立中央図書館蔵)
参考:
消防防災博物館-本館-
http://www.bousaihaku.com/cgi-bin/hp/index.cgi?ac1=BGG2&ac2=&ac3=1497&Page=hpd_view
東京消防庁<消防マメ知識><消防雑学事典>
http://www.tfd.metro.tokyo.jp/libr/qa/qa_30.htm
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