今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

玉の輿の日

2005-01-20 | 記念日
今日(1月20日)は、「玉の輿の日」
1904(明治37)年、アメリカの金融財閥モルガン商会の創立者ジョン・ピアポン・モルガンの甥、ジョージ・モルガンが祇園の芸妓・お雪を見初め、結婚した。
1903年9月30日、京都祇園の芸妓・加藤ユキ(雪)がアメリカ人富豪ジョージ・モルガンに見初められ、落籍され、翌1904年1月20日に2人は結婚し、渡米した。「モルガンお雪」の誕生である。
しかし、お雪がモルガンと結婚した当時、日本は日露開戦を控え、戦意高揚の最中であり、芸妓が外国人と結婚すること自体、衝撃的であるが、それ以上に世人を驚かせたのは、落籍料4万円、という巨額の金額であった。そして、この結婚費用は約10万円だったという。当時の小学校教員の初任給が12円か13円であったらしいから当然のことであろう。そのため、「玉の輿」とうらやむ人もいただろうが、反面、「大金に目がくらんだ大和撫子(なでしこ)」と非難・中傷する人も多かったであろう。
お雪には京都帝国大学学生川上俊作という恋人が居たが、彼は家族・親族から芸妓と結婚することに反対され結婚してしまう。モルガンの度重なるプロポーズを断っていたお雪もとうとうモルガンの三年越しの恋、執心に負けて結婚したらしい。
結婚後、お雪は、パリに定住するが、1915(大正4)年、夫が死亡。以後、パリやニースなどに約30年滞在していたが、1938(昭和13)年、帰国し京都に住む。滞仏時代にカトリック信仰に目覚め教会堂建設に多額の寄付をするなどしたが、平常の暮らしぶりは質素そのものだったという。1963年(昭和38年)5月18日、京都の自宅で死去。81歳。お雪の墓は京都・東福寺にある。
また、神戸市須磨区の「安徳宮(宗清稲荷社)」前に、加藤コト、モルガン・ユキ親子の名を刻んだ石燈籠(モルガン灯籠)がある。
燈籠の【説明板】には、この一対の灯籠はモルガン・ユキ(京都の美妓「雪香」旧姓加藤ユキ)がこの辺りが異人山とよばれた頃この東にすんでいた。信仰心の高いユキは宗清稲荷・安徳宮の社前に二基の石灯籠を献納した。一基に加藤コト、モルガンユキと母子の名を並べて刻み、一基は明治四十四年九月十日と刻まれている・・・とある。神戸にも一時住んでいたのだろうか。それに、お雪の芸妓時代の名は「雪香」のようですね。
祇園の芸妓お雪は、色白、面長で売れっ子というほどではなかったが胡弓の名手だったらしい。彼女の半生は、1951(昭和26)年、帝国劇場で、故越路吹雪主演、日本初のミュージカル「モルガンお雪」として上演された。
皆さんもご存知の、越路 吹雪は、昭和14年「宝塚花物語」でデビュー。男役スターとして人気を博したが、1951(昭和26)年、宝塚在籍のまま帝劇ミュージカル「モルガンお雪」に出演し、その大成功を機に宝塚を退団。その後はミュージカル、リサイタル、映画、テレビ、新派、新劇など様々な舞台でスケールの大きなエンタテイナーとして活躍した。
また、有吉 佐和子が、1970(昭和45)年「婦人公論」に発表した戯曲「ふるあめりかに袖は濡らさじ」を舞台化した「ふるあめりかに袖はぬらさじ」は、新派の沢村貞子や水谷八重子、また、坂東玉三郎などが演じ人気を得ているが、有吉佐和子のこの戯曲は、結婚を、断るためにわざと膨大な落籍料を提示したというお雪が、川上俊作との失恋の悲嘆からかモルガンの熱意に負けてかどうかはわからないが結婚し、見知らぬ国に渡るお雪の心情を想定しながら書かれたものではないだろうか・・・・。
(画像は、パリ時代の「モルガンお雪」。朝日クロニクル・週間20世紀より)
参考:
日々激動31 /東京新聞
モルガンお雪(上) 米富豪と結婚、芸妓に非難
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040706.html
モルガンお雪(下)三十四年ぶり感涙の帰国
http://www.tokyo-np.co.jp/120th/henshu/gekidou/gekidou_040707.html
神戸市文書館「須磨区」
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/06/014/map/suma21_28.html
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