今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「十一谷義三郎」 (小説家『唐人お吉』)の忌日

2007-04-02 | 人物
今日(4月2日 )は、「十一谷義三郎 」(小説家『唐人お吉』) の1937年 の忌日である。・・・と言っても、『唐人お吉』の名前は知っていても、十一谷義三郎 の名を知っている人はどれだけいるだろうか?私も良くは知らない。以下兵庫文学館の「文学史年表 」に記載の十一谷義三郎 についての記述を中心に、以下参考に記載の「樽屋日誌: 灘五郷が育てた小説家 十一谷義三郎」などを参考にしてその生い立ちを見ると以下の様になる。
十一谷義三郎 は、1897(明治30)年10月14日、我が地元である神戸市元町に父・春吉の三男として生まれる。1906(明治39)年9歳の時、兵庫県立御影師範学校附属小学校に転校。父が肺を病み、一家で武庫郡御影町東明に転居。1910(明治43)年13歳 の時、兵庫県立第一神戸中学校入学。前年に父が死去したため神戸市東灘区にある明治3年創業の歴史ある酒造家(高嶋酒類食品)の高嶋家(二代目高嶋太助)の家僕となっているが、義三郎の父親春吉は、この高嶋家の親戚川西家の網善というマッチの材料を商う薬問屋の番頭だったそうで、その関係から、高嶋家に引き取られたようだ。その高嶋邸は、今、甲南漬資料館となっているいるようだが、高嶋は、現・甲南漬の本社横に「明徳軒」という文化サロンのようなものをつくっていたようで、義三郎少年は主人から可愛がられ、少年時代の12歳のときから18歳まで「明徳軒」に入ることを許され、ここで学んでいたようだ。
「明徳軒」は、成績優秀なのに、家計の事情で進学できない子供たちを援助する活動もしていたそうだ。旧高嶋邸がどのようなところかは、以下を見れば分かる。↓
建物とって歩き:旧高嶋邸見学(1)旧高嶋邸見学(2)旧高嶋邸見学(3)
そして、苦学して学校に通いながら和漢洋の書籍を濫読していたという。1911(明治44)年14歳 の時、兄が家出したこともあり、1915(大正4)年18歳の時、神戸第一中学校卒業後は、マッチ原料染料薬品商川西家の小僧となっている。家庭の状態は暗澹(あんたん)を極めていたようだ。1916(大正5)年、19歳、神宮皇学館(皇学館大学の前身)を受験するが、左肺運動不足のため落第。京都第三高等学校(現在の京都大学の前身)に入学。宗教への疑惑を深め、志を文学に転じたようだ。1919(大正8)年、22歳 、東京帝国大学(現東大)英文科に入学。在学中、三宅幾太郎らと同人雑誌「行路」を創刊。
1922(大正11)年、25歳 、東京帝国大学卒業。東京府立第一中学校に英語教師として赴任。1923(大正12)年、 『静物』創刊。1924(大正13)年、27歳 の時、与謝野晶子夫妻に招かれて文化学院英語英文学の主任教授になっている。この年、横光利一川端康成今東光らと「文藝時代」の同人となり、翌1925(大正14)年 『青草』、1927(昭和2)年 『生活の花』を創刊。1928(昭和3)年、31歳の時に、1月、「跫音」、11月には、村松春水の”実話唐人お吉”をもとに、「唐人お吉」(連載)を中央公論に、昭和4・5年には東京朝日新聞に発表(連載)され、1929(昭和4)年『唐人お吉』は、木村荘八の挿絵装丁で単行本化された。又、 『あの道この道』も創刊。1930(昭和5)年、33歳の時、 紫田春子と結婚。 『時の敗者』『キャベツの倫理』創刊。
この年、『唐人お吉』は、日活(太奏撮影所)にて、溝口健二監督、主演:ハリスを山本嘉一、お吉を梅村蓉子(ようこ)で映画化され、また、戯曲化されるようになり、唐人お吉の名は一躍有名になった。
日活で『唐人お吉』が映画化されたときには、西條八十が主題歌として、唐人お吉に関する詩を2つ制作している。
1つは、中山晋平作曲、佐藤千夜子歌、「唐人お吉の唄(黒船篇)」、もう1つが、佐々紅華作曲、藤本二三吉歌、「唐人お吉の小唄(明烏篇)」である。
どちらもNETで調べたが、歌詞など分からないが、「唐人お吉の小唄(明烏篇)」のMIDIは見付かった。いい曲なので、聞きたい人は、以下の中にあるので聞くとよい。(歌手:佐藤千夜子は、藤本二三吉の記入誤りだろう)
MIDI曲カラオケ→http://www.geocities.jp/thirty30mydoog/_freemidilist.htm
この後、1931(昭和6)年、『近代愛戀帖(モダン・デカメロン)』 『ジェイン・エア(翻訳)』創刊。1932(昭和7)年、37歳 の時、 『太陽よ!隣人よ!(前・後)』 『笑ふ男・笑ふ女』、1934(昭和9)年、 『神風連(上・下)』 『ちりがみ文章』 『戀愛清談(翻訳)』 『通百丁目』 『英文学の知識』を創刊。 「神風連」を「福岡日日新聞」に発表。この年、長女・町子が生まれている。1936(昭和11)年、『あど・ばるうん』『英米短篇集(翻訳)』、1937(昭和12)年、 『開化ちりがみ圖繪』 『善人の書(翻訳)』を創刊と活躍するも、1937(昭和12)年4月2日、肺結核のため40歳 の若さで死去した。(翌1938(昭和13)年 『街に芽ぐむ』創刊)。
十一谷義三郎 は昭和初期に活躍した作家であるが、40歳の若さでなくなっている。その死因は、以下参考にも記載の豊島 与志雄 「十一谷義三郎を語る」(青空文庫)を見ると、肺結核であるが、その死を早めたのは、ヘビー・スモーカーであったことも影響しているようだ。豊島 与志雄は、十一谷と最も親しかったようであるが、彼の記載によると、”十一谷の愛煙は余程有名であったようで、愛煙のタバコはバットに限るものであり、それを一日に少くとも十五箱は吸っていたという。そして、遂には、バットの模様の二匹の蝙蝠をつけた原稿用紙を、わざわざ拵えさしたほどだったそうだ。しかし、それほど好きだったバットも、肺を病んでから、「吸うと苦しいから自然にやめた。」と云って淋しい顔をしていたいうが、その10ヶ月後亡くなった”ようである。また、十一谷は、当初、英語が得意である事から翻訳物を発表していたようだが、”「唐人お吉」発表以後歴史物に手をつけるようになってからは、文字の駆使、表現技法などに、独特の精緻な風格を増してきて、「読者の眼を廻させるスタイルだ。」と或る人に云わせるに至ったが、そればかりでなく、「唐人お吉」に関するものの蒐集研究に一方ならぬ苦心を費したものだった”ようだ。そして、”そのような反故(ほうぐ)の中に埋まり、茶をすすり、バットをやたらにふかして、余り外出もせず書斎に閉じ籠ってる十一谷君の健康を、親しい者たちは早くから心配していて、「酒でも飲んでおれば肺病になんかならずに済んだ筈だ。」と私が怒って云った時に初めて、十一谷君は素直に同意を表してくれた。そうした十一谷君が、ただ一度、昭和三年から四年にかけて四五ヶ月、酒か何かに耽溺したことがあった。本郷肴町の裏の方に小さな鳥料理屋があって、一時は殆んど毎日そこに入りびたっていた。さすがに私も多少心配し、それとなく意見したこともあったが、十一谷君は何となく私を煙ったく思ってる様子で、少しも心境を打明けてくれなかった。その料理屋の主婦とその伯母らしい人と家族同様に馴染み、また後で聞いたことだが、新橋の或る芸妓をそこに呼び寄せたりしていたそうだが、固より色恋の問題はなかったらしい。なお、或る婦人記者と非常に懇意になっていたし、過去に或る婦人関係の紛雑もありはしたが、私の知ってる限り、それも大したものではなかった。そして当時十一谷君は「唐人お吉」を書いた後で、文名隆々たる頃だった。然るに、後になって「昭和三年――この年、しきりに死を念う。」と自身で書いたので、私は唖然とした。何故に酒に親しみ、あの料理屋に入りびたっていたか、そして何故にしきりに死を念っていたか、私には遂に分らずに終った。そして昭和五年に十一谷君は春子夫人と結婚したのだった。”・・・と述懐している。
「唐人お吉」のモデルは、幕末、明治期に実在していた芸者の斉藤きちであるとされている。
以前に「唐人お吉」のことは、私のブログ「唐人お吉が川に身投げし絶命した日」でも書いたので、詳しくは書かないが、17才で下田奉行所支配頭取・伊差新次郎に口説かれて異人(ハリス)の侍妾(じしょう)となり、大きく人生が変わった。ハリスに仕えた期間は、ほんの僅かであったが、お吉は、「唐人」とののしられ横浜に流れ、後に下田へ戻って小料理屋「安直楼」を開いたが、酒に溺れて倒産。明治24年3月27日の豪雨の夜、遂に川へ身を投げ、自らの命を絶っている。波瀾にみちた51年の生涯のあまりにも哀しい終幕であった。
十一谷が何を考えて、余り飲まなかった酒に溺れていたのかは、親友の豊島 でさえわからないといっているのだから、私などに分かるはずもないが、やはり、その時期、自殺を考えていた時期なのではなかったかと思われる。
十一谷が親しくしていた川端の生い立ちなどを見ていると、十一谷との類似点は多いが、その川端は晩年肝臓炎のために東大病院に入院したあと作品の数は激減、逗子マリーナ・マンションの仕事部屋でガス自殺している。遺書はなかったが、理由として交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺などによる強度の精神的動揺があげられているそうだが十一谷も「唐人お吉」のモデルとなる斉藤きちの自殺に影響されたのかもしれない。十一谷の書く小説の主人公はいつも、孤児、精神病者、貧民窟の人々、体の不自由な人たち、売春婦すなわち遊女、乞食、屑屋、下級船員などが多いと言う。苦労した者の姿を描きたかったのであろう。
そういえば、米国映画でも、ジョン・ヒューストン監督の 「黒船」(1958年)で、ハリスと、お吉を扱っていたね。出演は、ハリスを、 ジョン・ウェイン、お吉が安藤永子だった。 当然、映画は、ハリス中心に描かれているがね。
(画像は、映画「黒船」DVD。出演: ジョン・ウェイン / 安藤永子 、監督: ジョン・ヒューストン。)
作家別作品リスト:十一谷 義三郎(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person601.html
豊島 与志雄 「十一谷義三郎を語る」(青空文庫)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000906/files/42554_22832.html
唐人お吉が川に身投げし絶命した日。
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/s/%C5%E2%BF%CD%A4%AA%B5%C8
斉藤きち - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%89%E8%97%A4%E3%81%8D%E3%81%A1
黒船 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E8%88%B9
goo 映画「黒船」(1958年 米)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD2719/index.html
兵庫文学館
http://www.bungaku.pref.hyogo.jp/
樽屋日誌: 灘五郷が育てた小説家 十一谷義三郎
http://www.taruya.com/blog/archives/2005/02/post_5.html
建物とって歩き
http://www.js-garden.jp/html/arckitect_menu2.html
川端康成 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E7%AB%AF%E5%BA%B7%E6%88%90
皇學館大学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%AD%B8%E9%A4%A8%E5%A4%A7%E5%AD%A6
第三高等学校 (旧制) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AC%AC%E4%B8%89%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1_(%E6%97%A7%E5%88%B6)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%A8%E6%9D%91%E8%8D%98%E5%85%AB
豊島与志雄 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B3%B6%E4%B8%8E%E5%BF%97%E9%9B%84