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日本黄檗宗の開祖・隠元禅師の忌日

2007-04-03 | 人物
今日(4月3日)は、日本黄檗宗の開祖・隠元禅師の1673(寛文13)年の忌日。
隠元隆(いんげん・りゅうき)は、1592年12月7日(万暦20年・文禄元年11月4日)、中国福建省福州福清県の生まれで俗姓は林。29歳で、生地である福州の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山万福寺(古黄檗)の鑑源興寿の下で得度し、後、禅宗の中の臨済宗を代表する費隠通容禅師の法を受け継ぎ臨済正伝32世となった初の高僧であったそうであり、その名声は日本にも届いていた。隠元が招かれて来日するのは1654(承応3年)年、63歳の時である。
江戸初期、当時の日本は鎖国政策を取り、海外との行き来は非常に限られていたが、長崎の港のみは開かれ、明人が居住し、崇福寺興福寺のような唐寺(中国式の寺院)が建てられていた。
隠元を日本に招請したのは、長崎・興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)らである。興福寺は、1620(元和6)年中国人が、キリシタンでないことの証と唐船の航海安全の神、媽祖(まそ)を祀る寺として創建されたわが国における最初の唐寺で、南京出身の船主らの寄付によって建てられたので「南京寺」とも呼ばれていた。逸然性融は近世漢画の祖ともいわれている人物であるが、中国浙江省杭州府出身で、貿易商として来日していたが、1645(正保元)年出家して三代目住持となったが、逸然は、新しい禅宗の日本への伝来を熱望し、当時中国の福建省黄檗山万福寺の住職であった隠元を長崎へ招請するための運動を中心になってやっていたようだ。当初、逸然は、隠元の弟子の也嬾性圭(やらんしょうけい)を招いたのだが、途中船が座礁して帰らぬ人となってしまった。
そこで逸然は也懶の師であり、日本でも名の知られていた隠元を招くこととした。隠元は高齢を理由に最初は渡日を辞退していたが、日本側からの度重なる招請に応じて、また、志半ばで亡くなった弟子・也懶性圭の遺志を果たしてやりたいとの思いから、ついに渡日を決意し、隠元自ら、鄭成功が仕立てた船に乗り、弟子20人他を伴っって来日した。 逸然は隠元禅師を興福寺の住職に推薦し、自らは監寺(かんす=住持に代わって寺務の監督、衆僧の統率に当たる役)に下がたという。
隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈したそうだが、長崎滞留1年後の1655(明暦元)年、隠元の弟子となる京都妙心寺住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山(しんざん=僧侶が初めて正式に一寺の住職となること)するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限されたという。
隠元の渡日は、当初3年間の約束だったようであり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが日本に留まることを強く希望し、その旨を幕府にも働きかけ、1658(万治元)年隠元は江戸へおもむき、将軍徳川家綱と会見。 家綱も隠元に帰依し、幕府から、1660(万治3)年、後水尾法皇の生母、中和門院の別邸の地山城国宇治郡大和田に寺地約9万坪を与えられ、隠元も日本に留まることを決意。翌年、新寺を開創し、寺名は旧を忘れないという意味を込め、故郷福州の寺と同名の黄檗山萬福寺と名付けられ、寛文元年(1661年)に開創され、造営工事は将軍や諸大名の援助を受けて1679(延宝7)年頃にほぼ完成すると、完成したばかりの法堂で祝国開堂(かいどう=禅宗で新しい住職が着任した時、最初に説法を行う儀式)を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒(じゅかい=修行者・信者としての守るべき戒を授けること)「黄檗三壇戒会」を厳修したというが、「黄檗三壇戒会」は黄檗禅の基本のようだが、それがどのようなものかは私は知らない。
萬福寺開山によって、隠元は日本禅界の一派(黄檗宗)の開祖となったが、当初から黄檗宗と名乗っていたわけではなく、本人は歴とした臨済宗を嗣法している自負があったので、臨済正宗を名乗っている。もっとも、宗風(しゅうふう=宗教的特色)や叢林(そうりん=禅寺)としての規矩(きく=行動の規準となる手本。規則。)清規は当時の中国・明時代の臨済禅に倣っていたことから、既に日本に根付いていた臨済宗とは趣を異にし、その違いにより、自ずから一派を形成する方向に向かったもののようである。以後、中国の黄檗山万福寺は「古黄檗」と呼ばれる。隠元には、後水尾法皇を始めとする皇族、幕府要人を始めとする各地の大名、多くの商人たちが競って帰依した。また、万福寺の住職の地位にあったのは3年間で、後席は弟子の木庵に移譲し、松隠堂に退いた。
京都の万福寺には本堂の手前に天王殿があり、内部には弥勒如来像を安置している。ところが、この像は、日本で著名な半跏思惟像(はんか-しいぞう)の弥勒菩薩像(以下参考の二人の菩薩参照)とは全く異なり、太鼓腹の布袋像として表わされた弥勒像である。布袋は、日本の七福神の中では唯一存在した実在の人物であったといわれており、中国・五代の一国である後梁(こうりょう)の禅僧で名は釈契此(しゃくかいし)という。
布袋の名は常に袋を背負っていたことから付いた俗称で、図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩き、人の運命や天候を予知したといわれている。彼が残した偈文に「弥勒真弥勒、世人は皆な識らず、云々」という句があったことから、実は布袋は弥勒の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。中国では、その後、弥勒仏の姿形は、日本の布袋の姿形となり、寺院の主要な仏堂の本尊に、弥勒仏として安置されるのが通例となったそうだ。万福寺の像は隠元が来日していた明の仏師・范道生(はんどうせい)に作らせたとされている。
余談であるが、私の地元神戸市須磨区に萩の花で有名な「萩の寺」と呼ばれる寺がある。今は寂れているが神戸で唯一の黄檗宗の寺といわれている。古くは天台宗で明光寺といい、1650(慶安3)年の検地では阿弥陀堂とあり、1692(元禄5)年には伽藍も建立され、後に黄檗宗に変わった。一時は禅道場として栄えたようだが、のち火災により衰えたが、大正時代に住職が境内に十数種の萩を植え、萩の寺とよばれるようになり、9月中下旬の満開期には、たくさんの参詣者でにぎわっている。このお寺の本堂の前にも御影石作りの布袋像がある。
隠元が宇治に黄檗山万福寺開山後、同山は宇治・長崎を中心に普及し、隠元以降も十数代にわたって後継者を中国から招請した。隠元は仏教者であるとともに画師でもあったが、彼に次いで中国画師の来訪があいついだ。伊孚九(いふきゅう)、沈南蘋(しんなんぴん)などは、長崎派を形成して多数の南宋画を教授した。江戸期文化人の伝統は渡来画師によって高揚された。そのほかにも商人・医師が多く彼らは中国典籍を持参し、長崎近辺に独自の中国風俗を作り出した。
そのほか、隠元禅師は隠元の名に由来するインゲンマメや蓮根、スイカなどの野菜や中国の精進料理「普茶料理」も紹介。普茶料理はその後、黄檗料理とも呼ばれるようになった。また、宇治は茶所でもあることから中国の煎茶を紹介し、広めたことでも知られている。このように、宗教界だけにとどまらず、広く江戸時代の文化全般 に影響を及ぼした人物なのである。
(画像は、神戸・須磨区「萩の寺」(明光寺)の布袋像)
隠元隆き - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%A0%E5%85%83%E9%9A%86%E7%90%A6
臨済禪・黄檗禪・公式サイト
http://www.rinnou.net/
長崎・黄檗宗東明山 興福寺
http://isidatami.sakura.ne.jp/koufukuzi.html
高槻市-インターネット歴史館-普門寺
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi/syazi_humonzi.html
黄檗山萬福寺(おうばくさんまんぷくじ)
http://www.obakusan.or.jp/
中国 黄檗山 萬福寺
http://www.jokyuzen.or.jp/kooubaku/index.html
神戸市立博物館・羅漢渡水図巻 ・隠元序 木庵跋 逸然性融筆
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/57/museum/meihin/061.html
黄檗宗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%84%E6%AA%97%E5%AE%97
黄檗事典 お
http://www.biwa.ne.jp/~m-sumita/jiten-o.html
二人の菩薩
http://www1.megaegg.ne.jp/~summy/miroku/miroku.html
浄智寺の布袋様
http://homepage2.nifty.com/kitakama/yorozu/yoro019.html
五代十国時代 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E4%BB%A3%E5%8D%81%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
精進料理 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B2%BE%E9%80%B2%E6%96%99%E7%90%86
日本美術シソーラスDB : 地域順索引 日本以外の東洋
http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/mokuji/indexArea2.html