今日(4月15日)は、「阿國忌」。
~今日は何の日毎日が記念日~によると、阿国歌舞伎の創始者・歌舞伎芝居の祖の出雲の阿國の忌日とされている。
出雲 阿国(いずもの おくに)は、歌舞伎の創始者とされる安土桃山時代の女性芸能者で於国、国、国子、おくに、くになど、さまざまに表記されているが、実際には生没年不詳で、お国の出自や経歴についても、確実な資料が少なく、はっきりしていない。
忌説では出雲大社の巫女とされているが、地方から京に上った歩(き)巫女の一人であったとする説や,洛北出雲路河原(以下参考に記載の出雲路橋参照)の時宗の最先端で活動した鉦打聖の娘との説もある。
伝説によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘とされ、、天正・文禄年間(1573~1596)に出雲大社修覆勧進のため諸国を巡回したところ、容貌美麗で神楽舞に妙を得ていたので評判となり、京に上って歌舞伎踊を考案し、織田信長や豊臣秀吉、越前中納言秀康などに召し出されて寵愛されたということになっている。
文献資料としては、『多聞院日記』の1582(天正10)年5月に、11歳の国、8歳の加賀という娘が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事があり、また、『言継卿記』の1588(天正16)年2月に出雲大社の巫女が京都で舞を踊ったという記事があり、これらは阿国を指すと考えられている。そして、比較的確実な資料でとされているものに『時慶卿記』に1600(慶長5)年、京都にてクニと菊の2人が京都近衛殿で「ややこ踊り」を演じたという記録があるそうだ。また、徳川幕府の草創期の出来事を記した「当代記」には、1603(慶長8)年4月の条で、「此頃カフキ躍(おどり)ト云事有、出雲国神子女(みこ)、名ハ国・・・・・・京都へ上ル、縦(たとえ)ハ異風ナル男ノマネヲシテ、刀脇差衣装以下、殊(ことに)異相也、彼男茶屋ノ女トタワムル」と阿国の評判を伝えているという。
近世を代表する2つの演劇は、歌舞伎と人形浄瑠璃である。この2演劇はほぼ同じ頃に成立し互いに刺戟しあい影響しあって夫々の歴史をつくっってきた。長い戦国乱世の後にようやく平和な時代が訪れると戦乱に非業のうちに亡くなった人達の魂をなごめる祭り御霊会(ごりょうえ)という宗教行事とそれにともなう風流踊り(以下参考に記載の風流参照 )が全国的に流行したと言う。歌舞伎はこの風流踊りを母体とし、「踊りの舞台芸能」として成立した。その最初は、出雲の阿国と名乗る女性芸能者がややこ踊(幼い子供の踊り)と呼ぶ芸を見せたのに始まる。やがて北野天満宮に舞台をかけて、念仏踊りを行い、その後、以後、四条河原などで勧進興行として行われた芸能に、貴賎男女を分かたぬ大群衆が集まり、評判になった。そして、阿国はやがて、当時、巷に横行していたかぶき者の風俗を舞台化した「歌舞伎踊り」を始めた。彼女は、男装して茶屋遊びに通う伊達男の様子を真似て官能的な踊りで演じた。そして、都に公認の遊里が設けられると、大勢の遊女が出て、新しく渡来した楽器である三味線を伴奏に、はなやかな舞台を展開し、遊女歌舞伎と称した。しかし、幕府は風俗を乱すとの理由で、1629(寛永6)年これを禁止してしまった。代わって台頭したのが若衆歌舞伎である。美少年を主演者として、主として舞や物真似や軽業芸を演じた。これも女歌舞伎同様弊害をもたらすというので、1652(承応元)年に禁止された。そこで、若衆の象徴である前髪を剃って野郎頭となること、「物真似狂言」を演ずることの二条件を受け入れ、再開を許された。以後を野郎歌舞伎という。この時代、歌舞伎は「演劇」への道を歩き始めた。女形の写実的な演技を模索し、立役・敵役・道化役などの役柄が成立し夫々の扮装や演技の工夫が進む。劇場は整備され、役者の数が増し、見物の層が拡大した。役者評判記も出版され始める。元禄期(1688年~1704年)は、都市に於ける町人の経済実力が向上し、富の蓄積が進む時代である。これを背景に庶民文化がいっせいに花を開いた。歌舞伎はその代表で、三都(江戸・京・大坂)それぞれに独自の様式を育てた。江戸では、初代市川団十郎が創始したとされる荒事が、武士階級を中心として形成された。一方、京都では、洗練された公家文化の伝統に上に、和事とよぶ優雅な様式が好まれた。初代坂田藤十郎はその代表格であった。芳沢あやめらによる女方芸が完成されたのも、元禄歌舞伎の中においてであった。享保から、宝暦にかけて歌舞伎は沈滞の時期を迎えた。これに代わり大坂で人形浄瑠璃が隆盛した。近松門左衛門の『国性爺合戦』が成功してからというもの、人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に写して上演する傾向が現れる。こうして、以後、歌舞伎と浄瑠璃が互いに刺戟し、影響しあってそれぞれの歴史を作ってきたのである。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
歌舞伎の創始者とされる阿国には夫(または愛人?)の名古屋山三郎がいたと言われ、その山三郎が阿国に歌舞伎風を教えたとされている。
今日では、「歌舞伎」と呼ばれているが、「カブキ」の語源は、カブク(「傾く」が原義)の連用形からとされており、異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味はケレン味のある演出だといわれるのは、こういった背景にも由来する。つまり歌舞伎というのは当て字であるが、歌い、舞い、伎(技芸、芸人)を意味する、この芸能を表現するのに適切な文字であるといえる。阿国自身は1607(慶長12)年、江戸城で勧進歌舞伎を上演した記録を最後に、その後の消息は不明。出雲に戻ったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国の墓とされるものがある。
出雲阿国の墓 (いずものおくにのはか)
http://www2.crosstalk.or.jp/shirasuna/k02_izumonookuni.html
(画像は武士装束の 阿国。Wikipediaより)
出雲阿国-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD
財団法人 日本舞踊振興財団
http://www.nihonbuyo.or.jp/jpn/html/nihonbuyo.htm
歌舞伎と出雲の阿国/京の住人たより
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/kabuki.html
日本一のかぶき者・出雲阿国
http://www.ten-f.com/isumono-okuni.html
阿国歌舞伎
http://www.gakugeki.org/okuni2003.htm
出雲阿国と上杉景勝
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage10.htm
史料リスト・安土・桃山時代-記録-
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/siryou/am/kiroku/am-kiroku.htm
多聞院日記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E9%99%A2%E6%97%A5%E8%A8%98
出雲路橋/京都鴨川風景
http://everkyoto.web.fc2.com/report61.html
柳田国男 「踊の今と昔」
http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-02yk-odori-01.htm
時宗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%AE%97
御霊会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9A
風流 ( ふりゅう)
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n629.htm
出雲阿国の墓 (いずものおくにのはか)
http://www2.crosstalk.or.jp/shirasuna/k02_izumonookuni.html
歌舞伎事典 目次
http://www.idj.ne.jp/~tahara/japanese/JITEN/mokuji.html
歌舞伎事典 /元禄歌舞伎【げんろくかぶき】
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_ka/dic_ka_41.html
歌舞伎|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/03_kabuki.html
~今日は何の日毎日が記念日~によると、阿国歌舞伎の創始者・歌舞伎芝居の祖の出雲の阿國の忌日とされている。
出雲 阿国(いずもの おくに)は、歌舞伎の創始者とされる安土桃山時代の女性芸能者で於国、国、国子、おくに、くになど、さまざまに表記されているが、実際には生没年不詳で、お国の出自や経歴についても、確実な資料が少なく、はっきりしていない。
忌説では出雲大社の巫女とされているが、地方から京に上った歩(き)巫女の一人であったとする説や,洛北出雲路河原(以下参考に記載の出雲路橋参照)の時宗の最先端で活動した鉦打聖の娘との説もある。
伝説によれば、出雲国松江の鍛冶中村三右衛門の娘とされ、、天正・文禄年間(1573~1596)に出雲大社修覆勧進のため諸国を巡回したところ、容貌美麗で神楽舞に妙を得ていたので評判となり、京に上って歌舞伎踊を考案し、織田信長や豊臣秀吉、越前中納言秀康などに召し出されて寵愛されたということになっている。
文献資料としては、『多聞院日記』の1582(天正10)年5月に、11歳の国、8歳の加賀という娘が春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事があり、また、『言継卿記』の1588(天正16)年2月に出雲大社の巫女が京都で舞を踊ったという記事があり、これらは阿国を指すと考えられている。そして、比較的確実な資料でとされているものに『時慶卿記』に1600(慶長5)年、京都にてクニと菊の2人が京都近衛殿で「ややこ踊り」を演じたという記録があるそうだ。また、徳川幕府の草創期の出来事を記した「当代記」には、1603(慶長8)年4月の条で、「此頃カフキ躍(おどり)ト云事有、出雲国神子女(みこ)、名ハ国・・・・・・京都へ上ル、縦(たとえ)ハ異風ナル男ノマネヲシテ、刀脇差衣装以下、殊(ことに)異相也、彼男茶屋ノ女トタワムル」と阿国の評判を伝えているという。
近世を代表する2つの演劇は、歌舞伎と人形浄瑠璃である。この2演劇はほぼ同じ頃に成立し互いに刺戟しあい影響しあって夫々の歴史をつくっってきた。長い戦国乱世の後にようやく平和な時代が訪れると戦乱に非業のうちに亡くなった人達の魂をなごめる祭り御霊会(ごりょうえ)という宗教行事とそれにともなう風流踊り(以下参考に記載の風流参照 )が全国的に流行したと言う。歌舞伎はこの風流踊りを母体とし、「踊りの舞台芸能」として成立した。その最初は、出雲の阿国と名乗る女性芸能者がややこ踊(幼い子供の踊り)と呼ぶ芸を見せたのに始まる。やがて北野天満宮に舞台をかけて、念仏踊りを行い、その後、以後、四条河原などで勧進興行として行われた芸能に、貴賎男女を分かたぬ大群衆が集まり、評判になった。そして、阿国はやがて、当時、巷に横行していたかぶき者の風俗を舞台化した「歌舞伎踊り」を始めた。彼女は、男装して茶屋遊びに通う伊達男の様子を真似て官能的な踊りで演じた。そして、都に公認の遊里が設けられると、大勢の遊女が出て、新しく渡来した楽器である三味線を伴奏に、はなやかな舞台を展開し、遊女歌舞伎と称した。しかし、幕府は風俗を乱すとの理由で、1629(寛永6)年これを禁止してしまった。代わって台頭したのが若衆歌舞伎である。美少年を主演者として、主として舞や物真似や軽業芸を演じた。これも女歌舞伎同様弊害をもたらすというので、1652(承応元)年に禁止された。そこで、若衆の象徴である前髪を剃って野郎頭となること、「物真似狂言」を演ずることの二条件を受け入れ、再開を許された。以後を野郎歌舞伎という。この時代、歌舞伎は「演劇」への道を歩き始めた。女形の写実的な演技を模索し、立役・敵役・道化役などの役柄が成立し夫々の扮装や演技の工夫が進む。劇場は整備され、役者の数が増し、見物の層が拡大した。役者評判記も出版され始める。元禄期(1688年~1704年)は、都市に於ける町人の経済実力が向上し、富の蓄積が進む時代である。これを背景に庶民文化がいっせいに花を開いた。歌舞伎はその代表で、三都(江戸・京・大坂)それぞれに独自の様式を育てた。江戸では、初代市川団十郎が創始したとされる荒事が、武士階級を中心として形成された。一方、京都では、洗練された公家文化の伝統に上に、和事とよぶ優雅な様式が好まれた。初代坂田藤十郎はその代表格であった。芳沢あやめらによる女方芸が完成されたのも、元禄歌舞伎の中においてであった。享保から、宝暦にかけて歌舞伎は沈滞の時期を迎えた。これに代わり大坂で人形浄瑠璃が隆盛した。近松門左衛門の『国性爺合戦』が成功してからというもの、人形浄瑠璃の当り狂言をすぐに歌舞伎に写して上演する傾向が現れる。こうして、以後、歌舞伎と浄瑠璃が互いに刺戟し、影響しあってそれぞれの歴史を作ってきたのである。(週刊朝日百貨「日本の歴史」)
歌舞伎の創始者とされる阿国には夫(または愛人?)の名古屋山三郎がいたと言われ、その山三郎が阿国に歌舞伎風を教えたとされている。
今日では、「歌舞伎」と呼ばれているが、「カブキ」の語源は、カブク(「傾く」が原義)の連用形からとされており、異様な振る舞いや装いをカブキといい、それをする人物をカブキ者と言った。歌舞伎の醍醐味はケレン味のある演出だといわれるのは、こういった背景にも由来する。つまり歌舞伎というのは当て字であるが、歌い、舞い、伎(技芸、芸人)を意味する、この芸能を表現するのに適切な文字であるといえる。阿国自身は1607(慶長12)年、江戸城で勧進歌舞伎を上演した記録を最後に、その後の消息は不明。出雲に戻ったという伝承もあり、出雲大社近くに阿国の墓とされるものがある。
出雲阿国の墓 (いずものおくにのはか)
http://www2.crosstalk.or.jp/shirasuna/k02_izumonookuni.html
(画像は武士装束の 阿国。Wikipediaより)
出雲阿国-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E9%98%BF%E5%9B%BD
財団法人 日本舞踊振興財団
http://www.nihonbuyo.or.jp/jpn/html/nihonbuyo.htm
歌舞伎と出雲の阿国/京の住人たより
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/kabuki.html
日本一のかぶき者・出雲阿国
http://www.ten-f.com/isumono-okuni.html
阿国歌舞伎
http://www.gakugeki.org/okuni2003.htm
出雲阿国と上杉景勝
http://www5f.biglobe.ne.jp/~inou/newpage10.htm
史料リスト・安土・桃山時代-記録-
http://www.netlaputa.ne.jp/~kitsch/siryou/am/kiroku/am-kiroku.htm
多聞院日記 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E8%81%9E%E9%99%A2%E6%97%A5%E8%A8%98
出雲路橋/京都鴨川風景
http://everkyoto.web.fc2.com/report61.html
柳田国男 「踊の今と昔」
http://www.kurikomanosato.jp/00x-10-02yk-odori-01.htm
時宗 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%82%E5%AE%97
御霊会 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E9%9C%8A%E4%BC%9A
風流 ( ふりゅう)
http://www.e-obs.com/top/heo/heodata/n629.htm
出雲阿国の墓 (いずものおくにのはか)
http://www2.crosstalk.or.jp/shirasuna/k02_izumonookuni.html
歌舞伎事典 目次
http://www.idj.ne.jp/~tahara/japanese/JITEN/mokuji.html
歌舞伎事典 /元禄歌舞伎【げんろくかぶき】
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/edc_dic/dictionary/dic_ka/dic_ka_41.html
歌舞伎|日本文化いろは事典
http://iroha-japan.net/iroha/C03_show/03_kabuki.html