今日(4月28日)は「象の日」
1728(享保13)年、江戸幕府8代将軍徳川吉宗自らが注文したオス・メス2頭の象が清の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。牝は上陸地の長崎にて死亡したが、牡ゾウは長崎から江戸に向かい、途中、京都では、1729(享保14)年の今日(4月28日=グレゴリオ暦5月25日) 中御門天皇の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」・・・と感銘を和歌に表しているのだそうだが、お偉い人に見てもらうには象も骨がおれるよね~。
以下参考に記載の「描かれた動物・植物・江戸時代の博物誌(国立国会図書館)」によると、当時国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを、買えるのは、幕府や大名であり、そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って御用伺いをしていたそうだ。幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、取り寄せていたという。珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。この吉宗が注文したゾウは、1728(享保13)年6月に長崎港に到着後、牡象は翌・1729(享保14)年3月、長崎を出発。江戸に向けて徒歩の旅が始まる。同年4月に中御門天皇に拝謁後、また江戸への旅に出るが、5月、旅の疲れからか箱根で病気になるが、まもなく回復。 江戸に到着後、浜御殿で飼われ、吉宗に拝謁した後、 1730(享保15)年6月、早くも幕府から「御用済み」を申し渡されるが引き取り手がなく、ひきつづき浜御殿で飼われる。(この間、相当な飼育費がかかったらしい)。そして、1741(寛保元)年 4月、中野村の源助に下げ渡され、見世物になる。1742(寛保2)年 7月、暴れまわって騒ぎを起こすが、大事には至らなかったようだが、同年12月には21歳で死亡したというが、源助の管理が悪かったらしい。牡象は吉宗から中野の源助に厄介払いされたが、源助は源助で、当時はものめずらしかったこの象を利用して、金儲けに利用していたようだが、象は源助の思い通りにはならず、寒さとひもじさで衰弱し21才で病死しているが、象の平均寿命は人間とほぼ同じだそうであり、非常に早死にしたことになる。死んだ象の皮は、幕府におさめられ、頭の骨と2本の牙と鼻の皮は源助がもらいうけたらしいが、源助はその像の骨や牙をも見世物にして金儲けにしていたという。その後最終的には、宝仙寺の和尚が、源助の子孫が持っている象の頭の骨や牙のことを耳にし,参拝者を集めるため、買取り,宝仙寺の宝物として、保存されていたようだが、第二次世界大戦で、寺が焼け、象の骨や牙も消失したらしい。
貼付の画像「『[享保十四年渡来]象之図』 川鰭(かわばた)実利画 写本」 (国立国会図書館蔵より)の象が、将軍吉宗が注文した牡の子象で、江戸への道中に京都で描かれた烏丸 (からすま) 家蔵図の転写だそうだ。
8代将軍徳川吉宗は、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの享保の改革を行iい、破綻しかけていた幕府財政を再建したことから江戸幕府中興の祖と呼ばれている。
一般的には、質素倹約の慎ましやかなイメージが強いのであるが、吉宗は海外のものに強い関心を持った進取果敢なところがあったようである。享保と言う時代は、鎖国体制下にありながらも日本人の海外への関心が高まり開明的な雰囲気のあった時代でもあったのである。
生きた象が日本に渡来したのはこのときが初めてではなく5回目である。以下参考に記載の「明治前動物渡来年表 」によれば、生きた象が日本に初渡来したのは、
1408(応永15)年6月22日で、足利義持の時代、南蛮船で若狭国に到着。孔雀2対などと共に像(インドゾウ)献上される。(後鑑)幕府は朝鮮国王に贈呈(李朝実録)。
2 度目の渡来は1575(天正3)年、明船が豊後・臼杵に到来し、博多に象と虎を持ち込み、大友宗麟に贈る。(長崎略史)
3度目は、1597(慶長2)年7月24日、ルソン総督が豊臣秀吉に送った象が大坂に到着(日本王国記、鹿苑日録)し、29日禁裏(きんり=皇居の事)でお目見え、30日には京都の人も見物する。(左大史亮記)
4度目は、1602(慶長7)年6月28日、交趾国から虎,1、孔雀2とともに象1が徳川家康に献上されている。家康はその虎と象を秀吉に贈った。(通航ー一覧171、時慶卿記)
そして、5度目の渡来が、1728(享保13)年のものである(通航ー一覧175、享保日記)が、今回は、海外の船が象を積んで日本にやってきたのではなく、徳川吉宗自らが「象が見たい」と発注し求めたものであるところが従来の場合と大いに異なるところである。そして、象が長崎から陸路で江戸まで運ばれて来る間には随分多くの人たちもが目にする事ができた。そのことにより、色々な書物や瓦版・錦絵などや歌舞伎等の分野に象ブームを巻き起こしたことだろう。
それにしても、「明治前動物渡来年表 」を見ていると、古くから海外からは、ずいぶんといろいろな鳥獣が入ってきていたのには驚かされるよ。
江戸時代に入ると、おびただしい量の薬物や砂糖などが輸入され、その代金として莫大な額の金銀が海外に流出するようになった。そこで吉宗は、国内で自給が可能な体制を整えようと、いくつかの方策を実行しているが、吉宗の物産政策として、①採薬使の派遣②全国的な動植物調査③海外産動植物の調査④海外産植物の国産化の4点が挙げられている。その中の③海外産動植物の調査では、漢名で記されている動植物が和産のどの品に当たるか、日本にもある品かない品かなどの疑問を解くために、実物を取り寄せての調査も行われたという。そのようなことが全国的に動植物への関心を高め広めることにもなり、特定のグループを扱う専書 (モノグラフ) や養禽書 (鳥類飼育書) 、異国産動植物の博物誌の登場。俳人のための図鑑なども刊行されるようになったという。
鎖国の時代、国際貿易の窓口であった長崎に、異国からの珍しい品々が次々に舶来したなかで、今まで見たことも聞いたことのないような珍獣や怪鳥を、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、それを江戸の幕府に送って御用伺いをしていたそうだ。幕府はその絵図を吟味して欲しいものだけを選び出し、取り寄せていたわけであるから、吉宗もそのような絵図をみて象が見たいと注文したのだろう。最初は、吉宗らが単にお金と暇をもてあましていたから興味本位だけで見たいと思ったのだろうと思っていだが、それだけでなかったようだ。そこには、産業の育成という目的、そして何よりも、海外の産物などへのあふれんばかりの好奇心と博学の精神があったからのようだ。改めて、敬意を表することにしよう。ただ、吉宗の象を見たいとの意図は別として、象の飼いかたもわからないのに取り寄せられ、人間の好奇心や欲に翻弄され早死にした可愛そうな象の生涯を思うと、冥福を祈らずにはいられないよね。
(画像は、『[享保十四年渡来]象之図』 川鰭(かわばた)実利画 写本 。国立国会図書館蔵より)
ゾウ(象)- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1#.E5.B0.86.E8.BB.8D.E3.81.AB.E7.8C.AE.E4.B8.8A.E3.81.95.E3.82.8C.E3.81.9F.E3.82.BE.E3.82.A6宝仙寺
http://www.housen.org/index.html
[PDF] 明治前動物渡来年表 磯 野 直 秀
http://review.keio-up.co.jp/PaperFolder/pdf/06/2007/0604104.pdf
長崎から江戸まで歩き、六郷の船橋を渡った象の物語
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_16_5_1.html
「描かれた動物・植物・江戸時代の博物誌」(国立国会図書館)・・第参章珍獣奇獣異魚を参照
http://210.128.252.171/nature/index.html
「江戸の珍獣イメージ」-金沢美術工芸大学 -高田 智絵
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/www/contents/gallery/zuroku/07book/aesthetics/11.html
動物園へよーこそ・象史《日本に渡来した象》
http://members.jcom.home.ne.jp/ikuzou/frame2.html
[PDF] 「明治前動物渡来年表」 磯 野 直 秀
http://review.keio-up.co.jp/PaperFolder/pdf/06/2007/0604104.pdf
中野歴史館~中野に住んでいた象物語
http://sakaue.vis.ne.jp/sanpo/sakaue/nakasaka.elephant.html
戦国時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
1728(享保13)年、江戸幕府8代将軍徳川吉宗自らが注文したオス・メス2頭の象が清の商人により広南(ベトナム)から連れてこられた。牝は上陸地の長崎にて死亡したが、牡ゾウは長崎から江戸に向かい、途中、京都では、1729(享保14)年の今日(4月28日=グレゴリオ暦5月25日) 中御門天皇の御前で披露された。
この際、天皇に「拝謁」する象が無位無官であるため参内の資格がないとの問題が起こり、急遽「広南従四位白象」との称号を与えて参内させたという。拝謁した象は前足を折って頭を下げる仕草をし、初めて象を見た天皇は、「時しあれは 人の国なるけたものも けふ九重に みるがうれしさ」・・・と感銘を和歌に表しているのだそうだが、お偉い人に見てもらうには象も骨がおれるよね~。
以下参考に記載の「描かれた動物・植物・江戸時代の博物誌(国立国会図書館)」によると、当時国際貿易の窓口だった長崎には、異国からの珍しい品々とともに珍獣や怪鳥も次々に舶来したそうだが、それを、買えるのは、幕府や大名であり、そのため、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、江戸の幕府に送って御用伺いをしていたそうだ。幕府はその図を吟味して欲しいものだけを選び出し、取り寄せていたという。珍しい鳥獣は無料で幕府に献上されることもあり、わざわざ外国に発注することもあったという。この吉宗が注文したゾウは、1728(享保13)年6月に長崎港に到着後、牡象は翌・1729(享保14)年3月、長崎を出発。江戸に向けて徒歩の旅が始まる。同年4月に中御門天皇に拝謁後、また江戸への旅に出るが、5月、旅の疲れからか箱根で病気になるが、まもなく回復。 江戸に到着後、浜御殿で飼われ、吉宗に拝謁した後、 1730(享保15)年6月、早くも幕府から「御用済み」を申し渡されるが引き取り手がなく、ひきつづき浜御殿で飼われる。(この間、相当な飼育費がかかったらしい)。そして、1741(寛保元)年 4月、中野村の源助に下げ渡され、見世物になる。1742(寛保2)年 7月、暴れまわって騒ぎを起こすが、大事には至らなかったようだが、同年12月には21歳で死亡したというが、源助の管理が悪かったらしい。牡象は吉宗から中野の源助に厄介払いされたが、源助は源助で、当時はものめずらしかったこの象を利用して、金儲けに利用していたようだが、象は源助の思い通りにはならず、寒さとひもじさで衰弱し21才で病死しているが、象の平均寿命は人間とほぼ同じだそうであり、非常に早死にしたことになる。死んだ象の皮は、幕府におさめられ、頭の骨と2本の牙と鼻の皮は源助がもらいうけたらしいが、源助はその像の骨や牙をも見世物にして金儲けにしていたという。その後最終的には、宝仙寺の和尚が、源助の子孫が持っている象の頭の骨や牙のことを耳にし,参拝者を集めるため、買取り,宝仙寺の宝物として、保存されていたようだが、第二次世界大戦で、寺が焼け、象の骨や牙も消失したらしい。
貼付の画像「『[享保十四年渡来]象之図』 川鰭(かわばた)実利画 写本」 (国立国会図書館蔵より)の象が、将軍吉宗が注文した牡の子象で、江戸への道中に京都で描かれた烏丸 (からすま) 家蔵図の転写だそうだ。
8代将軍徳川吉宗は、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、目安箱の設置などの享保の改革を行iい、破綻しかけていた幕府財政を再建したことから江戸幕府中興の祖と呼ばれている。
一般的には、質素倹約の慎ましやかなイメージが強いのであるが、吉宗は海外のものに強い関心を持った進取果敢なところがあったようである。享保と言う時代は、鎖国体制下にありながらも日本人の海外への関心が高まり開明的な雰囲気のあった時代でもあったのである。
生きた象が日本に渡来したのはこのときが初めてではなく5回目である。以下参考に記載の「明治前動物渡来年表 」によれば、生きた象が日本に初渡来したのは、
1408(応永15)年6月22日で、足利義持の時代、南蛮船で若狭国に到着。孔雀2対などと共に像(インドゾウ)献上される。(後鑑)幕府は朝鮮国王に贈呈(李朝実録)。
2 度目の渡来は1575(天正3)年、明船が豊後・臼杵に到来し、博多に象と虎を持ち込み、大友宗麟に贈る。(長崎略史)
3度目は、1597(慶長2)年7月24日、ルソン総督が豊臣秀吉に送った象が大坂に到着(日本王国記、鹿苑日録)し、29日禁裏(きんり=皇居の事)でお目見え、30日には京都の人も見物する。(左大史亮記)
4度目は、1602(慶長7)年6月28日、交趾国から虎,1、孔雀2とともに象1が徳川家康に献上されている。家康はその虎と象を秀吉に贈った。(通航ー一覧171、時慶卿記)
そして、5度目の渡来が、1728(享保13)年のものである(通航ー一覧175、享保日記)が、今回は、海外の船が象を積んで日本にやってきたのではなく、徳川吉宗自らが「象が見たい」と発注し求めたものであるところが従来の場合と大いに異なるところである。そして、象が長崎から陸路で江戸まで運ばれて来る間には随分多くの人たちもが目にする事ができた。そのことにより、色々な書物や瓦版・錦絵などや歌舞伎等の分野に象ブームを巻き起こしたことだろう。
それにしても、「明治前動物渡来年表 」を見ていると、古くから海外からは、ずいぶんといろいろな鳥獣が入ってきていたのには驚かされるよ。
江戸時代に入ると、おびただしい量の薬物や砂糖などが輸入され、その代金として莫大な額の金銀が海外に流出するようになった。そこで吉宗は、国内で自給が可能な体制を整えようと、いくつかの方策を実行しているが、吉宗の物産政策として、①採薬使の派遣②全国的な動植物調査③海外産動植物の調査④海外産植物の国産化の4点が挙げられている。その中の③海外産動植物の調査では、漢名で記されている動植物が和産のどの品に当たるか、日本にもある品かない品かなどの疑問を解くために、実物を取り寄せての調査も行われたという。そのようなことが全国的に動植物への関心を高め広めることにもなり、特定のグループを扱う専書 (モノグラフ) や養禽書 (鳥類飼育書) 、異国産動植物の博物誌の登場。俳人のための図鑑なども刊行されるようになったという。
鎖国の時代、国際貿易の窓口であった長崎に、異国からの珍しい品々が次々に舶来したなかで、今まで見たことも聞いたことのないような珍獣や怪鳥を、代々長崎代官を務めていた高木家では、珍しい鳥獣が舶来するたびにその絵図を作成し、それを江戸の幕府に送って御用伺いをしていたそうだ。幕府はその絵図を吟味して欲しいものだけを選び出し、取り寄せていたわけであるから、吉宗もそのような絵図をみて象が見たいと注文したのだろう。最初は、吉宗らが単にお金と暇をもてあましていたから興味本位だけで見たいと思ったのだろうと思っていだが、それだけでなかったようだ。そこには、産業の育成という目的、そして何よりも、海外の産物などへのあふれんばかりの好奇心と博学の精神があったからのようだ。改めて、敬意を表することにしよう。ただ、吉宗の象を見たいとの意図は別として、象の飼いかたもわからないのに取り寄せられ、人間の好奇心や欲に翻弄され早死にした可愛そうな象の生涯を思うと、冥福を祈らずにはいられないよね。
(画像は、『[享保十四年渡来]象之図』 川鰭(かわばた)実利画 写本 。国立国会図書館蔵より)
ゾウ(象)- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1#.E5.B0.86.E8.BB.8D.E3.81.AB.E7.8C.AE.E4.B8.8A.E3.81.95.E3.82.8C.E3.81.9F.E3.82.BE.E3.82.A6宝仙寺
http://www.housen.org/index.html
[PDF] 明治前動物渡来年表 磯 野 直 秀
http://review.keio-up.co.jp/PaperFolder/pdf/06/2007/0604104.pdf
長崎から江戸まで歩き、六郷の船橋を渡った象の物語
http://www.photo-make.co.jp/hm_2/ma_16_5_1.html
「描かれた動物・植物・江戸時代の博物誌」(国立国会図書館)・・第参章珍獣奇獣異魚を参照
http://210.128.252.171/nature/index.html
「江戸の珍獣イメージ」-金沢美術工芸大学 -高田 智絵
http://www.kanazawa-bidai.ac.jp/www/contents/gallery/zuroku/07book/aesthetics/11.html
動物園へよーこそ・象史《日本に渡来した象》
http://members.jcom.home.ne.jp/ikuzou/frame2.html
[PDF] 「明治前動物渡来年表」 磯 野 直 秀
http://review.keio-up.co.jp/PaperFolder/pdf/06/2007/0604104.pdf
中野歴史館~中野に住んでいた象物語
http://sakaue.vis.ne.jp/sanpo/sakaue/nakasaka.elephant.html
戦国時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)