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江戸時代後期の廻船業者「高田屋嘉兵衛」の忌日

2007-04-05 | 人物
今日(4月5日)は、江戸時代後期の廻船業者、海商である「高田屋嘉兵衛」の1827(文政10)年の忌日。50歳で没す。
高田屋嘉兵衛(たかたや かへえ)は、1769(明和6)年1月1日(新暦2月7日)淡路島(現在の兵庫県洲本市五色町)の農民の子として生まれる。 幼名は菊弥。
18歳で、淡路と大坂とを往復する瓦船に乗る。1790年、22歳で兵庫津(現・神戸市)へ出た嘉兵衛は、廻船業者・堺屋喜兵衛のところで大坂と江戸の間を航海する樽廻船の水主(かこ)となる。やがて、船頭として力をつけた嘉兵衛は、北前船の廻船問屋・和泉屋伊兵衛のもとに移り、沖船頭(船の責任者)となる。兵庫第一の廻船問屋・北風荘右衛門の支援を得、また、紀州での鰹漁で資金を得て、1796(寛政8)年、28歳のときに、出羽国の酒田で初めての持舟、それも当時国内最大級の千五百石積みの巨船「辰悦丸」を建造し、本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。近藤重蔵間宮林蔵最上徳内などの幕府役人と接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。そして、これを期に、兵庫津・西出町に「諸国物貨運漕 高田屋嘉兵衛」の看板をあげる。
北前船は、大阪や兵庫(神戸)の港を出発して、瀬戸内海から下関海峡を経て日本海各地の港に立ち寄りながら江差や松前まで行き、再び商いをしながら大阪や兵庫の港まで帰っていた。大阪や兵庫では、酒、そうめん、油、木綿、古着などを積み、瀬戸内の港では、塩、砂糖、紙を、さらに日本海側の港では、鉄、米、縄、陶器、酒などの生活用品を積み込んで、それぞれの港でこれらの産物を売買しながら蝦夷地松前(北海道渡島(おしま)半島南端にある町)に運んでいって売った。そして、蝦夷地からは、帰り荷として、数の子、昆布、鰊などを海産物を積み込み瀬戸内海の各地で売った。
しかし、松前は当時まだ未開の地であったことから函館にも支店を設けた。
また、当時千島列島を南下してくるロシアとの国防対策を急ぐ幕府に協力して、幕府の近藤重蔵の命を受けた嘉兵衛は国後島択捉島間の航路開拓を行い、北方領土の開発に大きく貢献した。そして、択捉島近辺は鱒・鮭が豊富なことから,択捉島や根室などに多数の漁場を経営し、島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上にも資した。これが昭和50年代末期まで隆盛を誇った北方領土周辺の海域を含むオホーツク海べ一リング海など北太平洋で行われる漁業つまり北洋漁業の先駆となるものである。
1801(享和元)年、国後航路の発見・択捉島開拓の功により、33歳の嘉兵衛は幕府から「蝦夷地常雇船頭」を任じられ、苗字帯刀を許されている。巨万の富を一代で築いた嘉兵衛だが、1806(文化3)年、箱館の大火で街の大半を焼失したとき、高田屋は被災者の救済活動と復興事業を率先して行い。市内の井戸掘や道路の改修、開墾・植林等も自己資金で行なうなど、箱館の基盤整備事業を実施。 造船所も建設し、兵庫から腕利きの船大工を多数呼び寄せ、官船はじめ多くの船を建造していった。
1807年~1809年にかけ、ロシア帝国ロマノフ朝)の海軍軍人であり、探検家でもあるヴァーシリー・ゴローニンクリル諸島の測量を行なう。1811年、軍により千島列島の測量を命じられ、自らが艦長を務めるディアナ号で択捉島・国後島を訪れるが、国後島にて幕府役人に捕縛され、箱館で幽閉された。
1812(文化)9年、幕府によるゴローニン幽囚の報復として、国後島で嘉兵衛らが副艦長のリコルドにより捕えられディアナ号でロシア領ペトロパブロフスク・カムチャツキーへ連行された。(ゴローニン事件)。この事件をきっかけとして、日露の対立が深まったが、捕らえられた嘉兵衛は獄中より両国を説得。ゴローニンを解放するのと引き換えに嘉兵衛は翌年解放され帰国したが、帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無い事を納得させ、人質解放に尽力したという。双方の捕虜釈放に関して、嘉兵衛とリコルドの間の友情に結ばれた協力と努力があったという。
帰国したゴローニンは『日本幽囚記』を執筆し、各国語に翻訳されている。そして、この事件が嘉兵衛を主人公にした司馬遼太郎の小説『菜の花の沖』の中心的な題材にもなっている。
幕府の蝦夷御用船頭に任ぜられた。1818(文化15)年に隠居し、病気のため生まれ故郷に戻って59歳で死去。なお、嘉兵衛の死から6年後の1833(天保4)年に、高田屋を継いだ弟の金兵衛が幕府から密貿易の疑いをかけられ、全財産を没収されて高田屋は没落したという。
司馬遼太郎が嘉兵衛の一生を描いた小説「菜の花の沖」の中で、嘉兵衛はこう言っている。「商人というものは利を追うものでありながら、我欲ではそれが出来ない。我欲の強い人間は既にその為に盲目になっている、(中略)だから利という海で泳ぎながら自分自身の利については鈍い人間でなければならない」
高田屋嘉兵衛は、商人として才が有っただけではなく、大変な人格者であり、また鎖国時代の日本では希にみる国際人でもあったようだ。
神戸の旧西国街道から少し東にはずれにある竹尾稲荷神社(西出町1-3)に、司馬遼太郎作「菜の花の沖」の主人公・高田屋嘉兵衛の顕彰碑がある。神社の鳥居がある前の道は明治時代に埋め立てられる迄は水路だった。高田屋嘉兵衛の本店跡は、この水路の向かい側にあったと伝えられている。また、竹尾稲荷神社の北、約100mにある鎮守稲荷神社(西出町)入口には、1824(文政7)年に嘉兵衛が、海上安全のために奉納した石燈籠がある。以下参考に記載の「西出町ぶらり探訪」参照。
かって平清盛が開いて発展した兵庫津も、江戸時代になると幕府が大坂を経済の中心として保護したため、発展は制約されるが、北前船による日本海地域や蝦夷地(えぞち)との交易で、大坂の外港としての枠を超えた独自の発展を見せた。
素朴な菜の花を好んだ司馬遼太郎の忌日は「菜の花忌」と呼ばれているが、菜の花を、菜種油にするため、水車利用で急速に絞油量を伸ばしたのは灘目 (なだめ= 摂津西部の海岸地帯)と呼ばれる地方に、六甲 山地から流れ落ちる芦屋川や住吉川の急流を利用した水車が作られ、(東灘区文化施設マップ・灘目の水車参照)その大量生産技術が価格的に有利となった事や、酒造業の発展により、兵庫の海運業が栄えたという歴史的な背景がある。
小説『菜の花の沖』の主人公の高田屋嘉兵衛の屋敷のあった兵庫津の対岸・嘉兵衛が生まれた淡路では多くの菜の花が栽培されていた。菜の花の実が結べば六甲山麓の多くの細流の水で水車を動かしている灘目の搾油業者に売られ、そこで、油にされたものが兵庫港より北前船で諸国に運ばれていたのである。
嘉兵衛は、菜の花や木綿を育てるための土地の肥料が、北洋の魚粕(鰊粕)である事を知ると、大量にその肥料を取り寄せ綿や菜の花の栽培に活かした。そして菜の花から採れる菜種油がランプの灯となり、人の心に安らぎを与えられるよう努力した。嘉兵衛は、生まれ故郷の菜の花畑一面の黄色い花を見つめながら、北辺の緊迫した情勢を案じ、人々の心のなかにいつまでも、暖かい灯をともしたいと願い、波乱とロマンに満ちた59才の生涯を郷里の淡路島で閉じた。作者・司馬遼太郎の忌日名が「菜の花忌」であるのは、一つにはこの小説の題名にも由来しているのであった。
(画像は、「菜の花の沖〈2〉」 (文庫) 司馬 遼太郎 (著) 」
高田屋嘉兵衛 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%94%B0%E5%B1%8B%E5%98%89%E5%85%B5%E8%A1%9B
高田屋嘉兵衛物語
http://www.takataya.jp/nanohana/kahe_abstract/kahe.htm
蝦夷物語 / 渡辺◆コウ◆高田屋嘉兵衛の人となり、エトロフ島開島について嘉兵衛の弟善兵衛の証言。北大付属図書館。
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/kyuki/doc/0A018900000000.html
菜の花の沖 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%9C%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%AE%E6%B2%96
北風正造 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%A2%A8%E6%AD%A3%E9%80%A0
摂津国八部郡兵庫津北風家文書目録 1785-1895
http://archives.nijl.ac.jp/DB/dispeadfile.php?xmlfdir=1951023&xmlfname=26W_ead.xml&xslfname=ead4dhdphp.xsl#top
高田屋嘉兵衛
http://home4.highway.ne.jp/mgoto/chou/cho1.html
神戸市兵庫区のホームページ・高田屋嘉兵衛
http://kouhou.city.kobe.jp/kids/data/kr/kr02/kr02014.htm
ゴロヴニンの『日本幽囚記』と仏露辞典・歴史の周辺(3)
http://homepage2.nifty.com/shirooka/sankou.htm
通訳キセリョフ善六(4)第四章・ゴロヴニンと高田屋嘉兵衛
http://homepage2.nifty.com/snowwolf/zen4.htm
西出町ぶらり探訪(竹尾稲荷神社,西出町鎮守稲荷神社等)
http://www.nishidemachi.jp/burari/index.html
兵庫区歴史花回道(兵庫区HP)
http://www.city.kobe.jp/cityoffice/84/hana/h001.html
「菜の花忌」小説家・司馬遼太郎の忌日
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/790a075459d1f56345c8c2253c119a3c
高田屋嘉兵衛画像ほか<北方資料高精細画像電子展示(北大附属図書館)
http://ambitious.lib.hokudai.ac.jp/hoppodb/photo/doc/0B032020000000.html
「菜の花の沖」
http://naturebear.hp.infoseek.co.jp/nanohananooki.htm