1945年の今日(4月7日)は、 戦艦「大和」が九州南方海上で、米軍の艦上機約千機の集中攻撃を受けて撃沈した日。
戦艦の「大和」(やまと)は、戦前の日本で建造した大和型戦艦の一番艦。艦名は、奈良県の古名である大和国にちなんで命名された。
大和型戦艦は、戦前の帝国海軍(以下海軍)が建造した戦艦の艦型であり、海軍が建造した戦艦の最高傑作として知られていた。
戦艦(battleship)とは、大砲を主要兵器とする軍艦のなかで最も大きな大砲を有し、それに対応できる強力な装甲を持ち、大きな航洋性を持つ軍艦を指す。「battleship」や「戦う艦(ふね)=戦艦」と呼ばれるように、第二次世界大戦までは海軍の主力として戦うために建造されており、そのため「主力艦」と呼ばれていた。
第二次世界大戦に参加した日本の戦艦には、以下の種類がある。
金剛型。元は巡洋戦艦。(1913年、金剛のみ英国製他は国産、31,720t、35.6cm砲8門)=金剛、比叡、霧島、榛名 。
扶桑型(1915年、34,700t、35.6cm砲12門)= 扶桑、山城 。
伊勢型(1917年、36,000t、35.6cm砲12門)=伊勢、日向 。
長門型(1920年、39,130t、41cm砲8門)=長門、陸奥 。
大和型(1941年、64,000t、46cm砲9門)=大和、武蔵、信濃(信濃は建造中に空母に変更) 。
「大和」は、当時としては世界最強の戦艦であった。例えば、アメリカ海軍の新鋭戦艦アイオワ級の2番艦「ワシントン」に比べても、排水量はほぼ2倍、機関出力で2倍以上大きく、主砲の威力は、4割も強力で、重量1.5トンの巨弾を40キロ先まで撃ち込めたという。日本の工業技術の全てを結集、造波抵抗を少なくするための球状艦首(バルバス・バウ)、敵の弾丸や魚雷被害をくい止めるため艦体は多数の水密区画に区切られた蜂の巣構造などの工夫がこらされ、艦載用としては世界最大の超大型測距儀、世界最大の探照灯を備えていたという。
このような、大和型戦艦建造の経緯は、戦艦・空母等の保有の制限を取り決めたワシントン海軍軍縮条約明けに際し、艦艇数で勝る米英を質で凌ぐため、第三次補充計画の際に海軍の持てる建艦技術の粋を集めて建造された。当時欧米諸国(特にアメリカ)はワシントン海軍軍縮条約で規定された35,000t前後の戦艦を建造していたが、これらの国の保有艦の搭載砲を大きく引き離す46cm砲を装備した結果、基準排水量64,000tの世界最大の戦艦として建造されたものであり、大艦巨砲主義の最高傑作といわれている。(もし、レーダー技術を備えていれば、世界最高の戦艦となったかもしれない。)
「大和」(計画名A140F5)は1937(昭和12)年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック(造船船渠)で起工され、米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に、丸4年の歳月をかけて秘密裏に建造され、1940(昭和15)年8月8日進水、“大和”と命名された。海軍は戦艦に対し日本各地の旧国名をその名としたが、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」を象徴する意味合いもあったようである。
1941(昭和16)年12月7日公式試運転が終了、同年12月16日海軍に引き渡されて就役。第一戦隊に編入される。(その半年後には同型艦「武蔵」も就航した。)
そして、翌・1942(昭和17)年2月12日、これまで旗艦を務めたの長門に代わり、連合艦隊旗艦となる(連合艦隊司令長官:山本五十六大将)。
そして、大和型戦艦としての初陣はミッドウェー海戦であるが、これも旗艦として機動部隊の遙か後方を進撃したのみであり、そのため空母全滅の電文を受けただけだった。
続くガダルカナル島をめぐるソロモン諸島の戦いにおいて、アメリカ軍はアメリカ海軍初の高速戦艦でワシントン海軍軍縮条約の条約明けにともない建造された新鋭戦艦ノースカロライナ級戦艦を始めとするありとあらゆる軍艦を投入したのに比べ、海軍は高速ではあるが旧式の金剛型戦艦のみを投入し、新鋭戦艦たる大和型は温存された(動かす燃料が確保できなかったともいわれる)。大きな艦体の豪華さや高い居住性を誇る大和と武蔵は、ソロモン海で激戦が繰り広げられている最中にも停泊地から動かないでいた。そのため、他の艦の乗組員からは「大和ホテル」「武蔵旅館」と呼ばれたといわれる。
大和型戦艦による砲撃が初めておこなわれたのは1944(昭和19)年6月19日から6月20日にかけて行われたマリアナ沖海戦での対空防御のための弾幕(だんまく=多くの弾丸が幕のようにすき間なく発射)であり、続く同年10月にフィリピン・レイテ島沖で行わレイテ沖海戦に栗田艦隊として参加、この時も対空防御のための砲撃をおこなったが、この海戦では、相手の攻撃は「武蔵」に集中し武蔵は撃沈された。この際「武蔵」が示した驚くべき耐久力は大和型の防御力の面目躍如であったといわれるが、初期の攻撃で艦首無防御区画に被雷したため速力が落ち艦隊から落伍し敵艦載機に袋叩きにあったことと、またその被雷の振動で艦橋トップの主砲射撃方位盤が故障し、統一射撃ができなくなるなど後年大和型の弱点といわれた部分を次々と露呈する戦闘ともなった。
その後発生したサマール沖海戦で大和が敵の護衛空母に対しおこなった砲撃が、大和型が敵艦に対しおこなった最初で最後の砲撃である。この時大和は敵艦に損傷を与えたが、栗田艦隊は急遽、作戦を中断、反転してレイテ湾突入を諦めてしまっている。また、この海戦において日本側は、大和の同型艦、武蔵をはじめとして多くの艦艇を失い、連合艦隊は事実上、壊滅した。
そして、大和は、呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦したものの、目立った被害はなかった。
1945(昭和20)年4月1日、米軍は沖縄に上陸。これに対し、大和(艦長:有賀幸作大佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将)は、天一号作戦(菊水作戦)による、山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃した。しかし、翌7日に鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦載機386機が来襲、大和は爆弾6発、魚雷10本以上を受け、午後2時23分、約3000名の乗組員と共に海底深く沈没した。(戦死者伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存269名。)
同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではなく、米軍航空隊が「武蔵」撃沈で手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていたことによる。
日本の別名である『大和』と付けられた史上最大最強の戦艦は、本来の目的である艦隊決戦で活躍することも出来ず、その持てる能力を発揮出来ないまま、この最後の死出の旅となった沖縄への水上特攻部隊としての参戦だけで沈没してしまったといえる。
開戦時の真珠湾攻撃では、航空母艦を主力とした機動部隊による攻撃戦術で、航空機の威力を実証したにもかかわらず、日本海軍は、戦艦こそが海の王者であると言う古い発想を捨てきれなかったようだ。
しかし、この時代には、既に戦艦の時代は完全に終わりつつあった。そして、海戦の新しい主役は航空機と航空母艦に代わっていたのである。「大和」は9隻の護衛艦を従え、途中からは戦闘機のエスコートもなく、沖縄に進み、400機近い米艦搭載機の局部への集中攻撃を受け、戦闘機相手では、自慢の主砲の威力も発揮できず、沈んでしまったのである。艦隊と主砲を相手より大きくして、優勢を保つという考え方は、日露戦争の日本海海戦を想定したものだ。大和型戦艦の3番艦として建造された信濃は途中から、戦艦から空母に変えたが、既に遅きに失したといえる。だから、戦艦としての「大和」が劣っていたわけではない。
「大和」の運命は、戦艦あるいは日本海軍のまた、当時の日本人にとっての悲劇であったといえるかもしれない。そのようなことから、「大和」の勇姿と悲劇的な最期への郷愁や憧れからか、戦後、『戦艦大和』、『連合艦隊』 最近作では『男たちの大和/YAMATO』(辺見じゅん原作。2005年12月17日公開)などの映画や、アニメ、漫画などにも登場する事になっが、中でも『宇宙戦艦ヤマト』によってその知名度は若い層に広まったのではないだろうか。
(画像は、『男たちの大和/YAMATO』2005年映画チラシ。監督:佐藤純彌。)
参考:
大和 (戦艦) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
戦艦大和 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23755/index.html
連合艦隊 - goo 映画(1981)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17082/index.html
男たちの大和/YAMATO - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7954/index.html
大和ミュージアム
http://yamato.kure-city.jp/
不沈戦艦大和の最期
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/yamato/sub_yamato.html
戦艦の「大和」(やまと)は、戦前の日本で建造した大和型戦艦の一番艦。艦名は、奈良県の古名である大和国にちなんで命名された。
大和型戦艦は、戦前の帝国海軍(以下海軍)が建造した戦艦の艦型であり、海軍が建造した戦艦の最高傑作として知られていた。
戦艦(battleship)とは、大砲を主要兵器とする軍艦のなかで最も大きな大砲を有し、それに対応できる強力な装甲を持ち、大きな航洋性を持つ軍艦を指す。「battleship」や「戦う艦(ふね)=戦艦」と呼ばれるように、第二次世界大戦までは海軍の主力として戦うために建造されており、そのため「主力艦」と呼ばれていた。
第二次世界大戦に参加した日本の戦艦には、以下の種類がある。
金剛型。元は巡洋戦艦。(1913年、金剛のみ英国製他は国産、31,720t、35.6cm砲8門)=金剛、比叡、霧島、榛名 。
扶桑型(1915年、34,700t、35.6cm砲12門)= 扶桑、山城 。
伊勢型(1917年、36,000t、35.6cm砲12門)=伊勢、日向 。
長門型(1920年、39,130t、41cm砲8門)=長門、陸奥 。
大和型(1941年、64,000t、46cm砲9門)=大和、武蔵、信濃(信濃は建造中に空母に変更) 。
「大和」は、当時としては世界最強の戦艦であった。例えば、アメリカ海軍の新鋭戦艦アイオワ級の2番艦「ワシントン」に比べても、排水量はほぼ2倍、機関出力で2倍以上大きく、主砲の威力は、4割も強力で、重量1.5トンの巨弾を40キロ先まで撃ち込めたという。日本の工業技術の全てを結集、造波抵抗を少なくするための球状艦首(バルバス・バウ)、敵の弾丸や魚雷被害をくい止めるため艦体は多数の水密区画に区切られた蜂の巣構造などの工夫がこらされ、艦載用としては世界最大の超大型測距儀、世界最大の探照灯を備えていたという。
このような、大和型戦艦建造の経緯は、戦艦・空母等の保有の制限を取り決めたワシントン海軍軍縮条約明けに際し、艦艇数で勝る米英を質で凌ぐため、第三次補充計画の際に海軍の持てる建艦技術の粋を集めて建造された。当時欧米諸国(特にアメリカ)はワシントン海軍軍縮条約で規定された35,000t前後の戦艦を建造していたが、これらの国の保有艦の搭載砲を大きく引き離す46cm砲を装備した結果、基準排水量64,000tの世界最大の戦艦として建造されたものであり、大艦巨砲主義の最高傑作といわれている。(もし、レーダー技術を備えていれば、世界最高の戦艦となったかもしれない。)
「大和」(計画名A140F5)は1937(昭和12)年11月4日、広島県呉市の呉海軍工廠の造船ドック(造船船渠)で起工され、米国に本型を超越する戦艦を作らせぬ為に、丸4年の歳月をかけて秘密裏に建造され、1940(昭和15)年8月8日進水、“大和”と命名された。海軍は戦艦に対し日本各地の旧国名をその名としたが、「大和」とは奈良県の旧国名(大和)というばかりでなく、「日本」を象徴する意味合いもあったようである。
1941(昭和16)年12月7日公式試運転が終了、同年12月16日海軍に引き渡されて就役。第一戦隊に編入される。(その半年後には同型艦「武蔵」も就航した。)
そして、翌・1942(昭和17)年2月12日、これまで旗艦を務めたの長門に代わり、連合艦隊旗艦となる(連合艦隊司令長官:山本五十六大将)。
そして、大和型戦艦としての初陣はミッドウェー海戦であるが、これも旗艦として機動部隊の遙か後方を進撃したのみであり、そのため空母全滅の電文を受けただけだった。
続くガダルカナル島をめぐるソロモン諸島の戦いにおいて、アメリカ軍はアメリカ海軍初の高速戦艦でワシントン海軍軍縮条約の条約明けにともない建造された新鋭戦艦ノースカロライナ級戦艦を始めとするありとあらゆる軍艦を投入したのに比べ、海軍は高速ではあるが旧式の金剛型戦艦のみを投入し、新鋭戦艦たる大和型は温存された(動かす燃料が確保できなかったともいわれる)。大きな艦体の豪華さや高い居住性を誇る大和と武蔵は、ソロモン海で激戦が繰り広げられている最中にも停泊地から動かないでいた。そのため、他の艦の乗組員からは「大和ホテル」「武蔵旅館」と呼ばれたといわれる。
大和型戦艦による砲撃が初めておこなわれたのは1944(昭和19)年6月19日から6月20日にかけて行われたマリアナ沖海戦での対空防御のための弾幕(だんまく=多くの弾丸が幕のようにすき間なく発射)であり、続く同年10月にフィリピン・レイテ島沖で行わレイテ沖海戦に栗田艦隊として参加、この時も対空防御のための砲撃をおこなったが、この海戦では、相手の攻撃は「武蔵」に集中し武蔵は撃沈された。この際「武蔵」が示した驚くべき耐久力は大和型の防御力の面目躍如であったといわれるが、初期の攻撃で艦首無防御区画に被雷したため速力が落ち艦隊から落伍し敵艦載機に袋叩きにあったことと、またその被雷の振動で艦橋トップの主砲射撃方位盤が故障し、統一射撃ができなくなるなど後年大和型の弱点といわれた部分を次々と露呈する戦闘ともなった。
その後発生したサマール沖海戦で大和が敵の護衛空母に対しおこなった砲撃が、大和型が敵艦に対しおこなった最初で最後の砲撃である。この時大和は敵艦に損傷を与えたが、栗田艦隊は急遽、作戦を中断、反転してレイテ湾突入を諦めてしまっている。また、この海戦において日本側は、大和の同型艦、武蔵をはじめとして多くの艦艇を失い、連合艦隊は事実上、壊滅した。
そして、大和は、呉に帰港した後の1945年3月19日、呉軍港が空襲を受けた際、敵機と交戦したものの、目立った被害はなかった。
1945(昭和20)年4月1日、米軍は沖縄に上陸。これに対し、大和(艦長:有賀幸作大佐)を旗艦とする第二艦隊(司令長官:伊藤整一中将)は、天一号作戦(菊水作戦)による、山口県徳山湾沖から沖縄へ向けて出撃した。しかし、翌7日に鹿児島県坊ノ岬沖90海里(1海里は1,852m)の地点でアメリカ海軍艦載機386機が来襲、大和は爆弾6発、魚雷10本以上を受け、午後2時23分、約3000名の乗組員と共に海底深く沈没した。(戦死者伊藤整一第二艦隊司令長官(戦死後大将)、有賀幸作艦長(同中将)以下2,740名、生存269名。)
同型艦の「武蔵」が魚雷20本以上・爆弾20発近くを被弾し、炎上しながら9時間程耐えたのに比べ「大和」はいささか早く沈んだ印象があるが、これは被弾魚雷の内1本(日本側記録では7本目)を除いては全て左舷に集中したためと、低い雲に視界を遮られて大和側から敵機の視認が困難を極めたからであり、大和の操艦や性能が武蔵に劣っていたわけではなく、米軍航空隊が「武蔵」撃沈で手間取った点を重視し、大和型の攻略法を考えていたことによる。
日本の別名である『大和』と付けられた史上最大最強の戦艦は、本来の目的である艦隊決戦で活躍することも出来ず、その持てる能力を発揮出来ないまま、この最後の死出の旅となった沖縄への水上特攻部隊としての参戦だけで沈没してしまったといえる。
開戦時の真珠湾攻撃では、航空母艦を主力とした機動部隊による攻撃戦術で、航空機の威力を実証したにもかかわらず、日本海軍は、戦艦こそが海の王者であると言う古い発想を捨てきれなかったようだ。
しかし、この時代には、既に戦艦の時代は完全に終わりつつあった。そして、海戦の新しい主役は航空機と航空母艦に代わっていたのである。「大和」は9隻の護衛艦を従え、途中からは戦闘機のエスコートもなく、沖縄に進み、400機近い米艦搭載機の局部への集中攻撃を受け、戦闘機相手では、自慢の主砲の威力も発揮できず、沈んでしまったのである。艦隊と主砲を相手より大きくして、優勢を保つという考え方は、日露戦争の日本海海戦を想定したものだ。大和型戦艦の3番艦として建造された信濃は途中から、戦艦から空母に変えたが、既に遅きに失したといえる。だから、戦艦としての「大和」が劣っていたわけではない。
「大和」の運命は、戦艦あるいは日本海軍のまた、当時の日本人にとっての悲劇であったといえるかもしれない。そのようなことから、「大和」の勇姿と悲劇的な最期への郷愁や憧れからか、戦後、『戦艦大和』、『連合艦隊』 最近作では『男たちの大和/YAMATO』(辺見じゅん原作。2005年12月17日公開)などの映画や、アニメ、漫画などにも登場する事になっが、中でも『宇宙戦艦ヤマト』によってその知名度は若い層に広まったのではないだろうか。
(画像は、『男たちの大和/YAMATO』2005年映画チラシ。監督:佐藤純彌。)
参考:
大和 (戦艦) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
戦艦大和 - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD23755/index.html
連合艦隊 - goo 映画(1981)
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD17082/index.html
男たちの大和/YAMATO - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/contents/movies/MOVCSTD7954/index.html
大和ミュージアム
http://yamato.kure-city.jp/
不沈戦艦大和の最期
http://www5a.biglobe.ne.jp/~t-senoo/Sensou/yamato/sub_yamato.html