今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

沖縄県誕生の日

2007-04-04 | 記念日
今日(4月4日)は、「沖縄県誕生の日」
1879(明治12)年の今日(4月4日)、琉球藩を廃し沖縄県とすることが布告され、沖縄県が誕生した。
沖縄は歴史的には、明治時代の琉球処分( 以下参考に記載の琉球大学附属図書館明治政府と琉球処分琉球処分参照)まで、日・両属の琉球王国(正式には琉球國)であった(詳しくは沖縄の歴史参照)。その為、他の都道府県とは異なる独特の文化・習俗が根付いている。(沖縄県庁ウェブサイト沖縄の文化参照)
1853年、米国・ペリーが艦隊を率い鎖国をしていた日本へ来航し、開国要求、1854年に日米和親条約を結ばせ、強制的に開国させることに成功した。(黒船来航)。その後、新しい時代の波に呑み込まれた徳川幕府は滅び、日本は明治政府によって、近代国家への道のりを急ぐ事となった。
そして、歴史的には、日本の明治政府は、1871(明治4)年に全国で廃藩置県を実施した。しかし、明治政府は、全国的に廃藩置県が実施されると、琉球はひとまず鹿児島県の管轄下においた。そして翌・1872(明治5)年、明治政府は、琉球王国を強制廃止して琉球藩を設置した。これによって鹿児島県(薩摩藩)の管轄下にあった琉球を、明治政府の直轄に移し、藩王および摂政・三司官(王府行政機構図参照)の任免権を明治政府が掌握することになった。これによって、琉球の王である尚泰王は「琉球藩王」となった。これがいわゆる「琉球処分」のはじまりである。
明治政府が、琉球に対してすぐに廃藩置県を実施せず、いったん藩とし、さらに尚泰を「藩主」ではなく「藩王」としたのは、琉球や中国の反発を回避するためにも段階的に王国解体をおこなう必要があったからであろう。しかし清はこの日本の政策に反発、琉球は古来中華帝国に服属していたものとして、琉球の領有権を主張。ちょうどそのころ、宮古島の船が遭難して台湾に漂着、そこで乗組員66人のうちの54人が地元住民に殺害されるという事件が起こった。明治政府は琉球領有の正当化のため、この事件を利用して台湾での琉球船(宮古島島民遭難事件)に対する報復処置として1874(明治7)年、台湾に出兵を実行し勝利した。この間、清国軍艦が現れて主権侵害を訴えたが、清国と日本の戦争にまでは至らなかった。事件の結果は英国公使の調停によって、清国は日本の出兵の正当性と、琉球の日本帰属を認め、賠償金を支払い解決した。宮古島島民遭難事件のことは以下参考に記載の「日本の再生・世界の再生 」の中のWR2131日中戦争の問題点を検証する(第28話 日清戦争前夜 「征台の役」) を見ると良い。
そして、1875(明治8)年、明治政府の琉球処分の方針を伝達し、実施するために松田道之(内務大丞)が琉球に派遣され、琉球藩に対し、(1)清国に対する朝貢使・慶賀使派遣の禁止、および清国から冊封を受けることを今後禁止すること、(2)明治の年号を使用すること、(3)謝恩使として藩王(尚泰)みずから上京すること、などの政府の命令を伝えたが、琉球藩はこれらの命令を拒否し、嘆願を繰返したが、1879(明治12)年3月27日、明治政府は軍隊と警官を派遣して琉球藩の廃止を宣言し、鹿児島県に編入。同年中に沖縄県を設置し、王族士族の抵抗(サンシー事件など)を退けた。そして、琉球は日本政府のもとで中央集権的近代日本国家に組み入れられていき、琉球は完全に滅亡した。このような琉球藩設置から、廃藩置県までの一連の流れを沖縄では琉球処分と呼んでいる。
どこの国でも長い長い歴史の中では、他国を侵略するか・・・それともされるか・・・、強いものが勝ち弱者が負ける。そのような元で弱者は常に悲哀を味わってきた。第二次世界大戦後、昔のような、酷い弱肉強食の世界は表面的にはなくなったかに見えるが、実際には、強いものが弱いものを支配している構図が変ったわけではない。
近代の日本が、アジアの国際舞台にはじめて登場したのがこのときの台湾への出兵であるかもしれない。その後、歴史の流れの中で、日清日露戦争などを経て太平洋戦争へと突き進み、結果的に敗戦。戦後の悲哀をこうむる事になるのだが、その中でも、太平洋戦争が激しくなると、沖縄は航空基地あるいは本土防衛のための前線基地という位置づけが強かったため、本土決戦に先駆けての沖縄戦ではアメリカ軍のすさまじい攻撃を受けた。そして、最後には、圧倒的なアメリカ軍と日本軍との間で凄惨な地上戦が戦われ、多くの沖縄県民が日本軍と共に戦死し、街も農地も破壊した。復興に手をつける間もなく土地は占領軍に強制接収され、米軍基地となった。
アメリカ軍は、沖縄を、かって王国だった歴史から日本に恨みを持つ少数集団とみなし、昔の呼称・琉球を復活させ、分断政策でのぞんだ。沖縄の人々も、沖縄戦で日本軍にひどい仕打ちを受けたあと、「豊かで自由なアメリカ」に触れて、アメリカ軍に信頼を寄せた。アメリカの世の登場である。40年代には、指導層から独立論や、日本政府に対する賠償請求論も出た。だが、すぐに、占領は占領であることに気付く。1946年に沖縄政府が設置されたが、意に沿わないと住民の命綱である食糧配給を止める米軍の専横ぶりに手も足も出ない。援助待ちで、「ギブミー民俗」化した社会、アメリカ兵による婦女暴行の頻発、歓楽街の激増。子供たちの将来を憂える教師ら知識層に根強かった日本復帰への眺望がしゃにむに復帰にいそしんだ庶民にも広がってゆく。1950年の4群島政府知事・群島議員選挙では日本復帰派が圧勝する。1949年米国は琉球の長期保有を決めた。1950年・51年度会計年度には8600万ドルの沖縄向け予算が計上され。恒久的基地建設が本格化した。出口の見えない米軍政府の統治下で、住民等は所有地の権利を守ろうと戦い続けた。1952(昭和27)年4月1日ミニ国家を思わせる琉球中央政府が発足したが、創立記念式典で沖縄人民党の立法院議員・瀬長亀次郎が議員就任宣言を拒否した。それは、以後20年にわたって続くアメリカ軍統治と沖縄住民の確執、そして、間に立つ任命主席の苦悩を予告するものであった。(朝日クロニクル「週間20世紀」)
1952年(昭和27)4月28日、日本政府が琉球を切り離し、米国に委ねる日本と米国の平和条約を受諾した事で、沖縄は潜在的な日本の主権は認めながらも、正式にアメリカ軍の管理下に置かれるようになった。これによって、米軍は、晴れて沖縄を長期統治し、自由自在に基地を拡大強化し使用する保障を得た。琉球中央政府はこんな背景の元で設立されたのである。米国民政府は、本土との間に壁を築き自由な交流を遮断した。そして、基地の維持及び軍事に支障のある住民の動きを制圧した。しかし、そのような占領下で沖縄住民は伝統文化を復活させ、アメリカ文化を取り込んで混交文化にするなどタフに生きてきた。軍事優先のアメリカ統治は、温和な住民の権利意識を呼び覚ませ、様々な闘争を生んで、復帰運動に流入させた。米占領政策批判で弾圧された瀬長人民党書記長は、抵抗運動の英雄として世界に名を轟かせる事となる。
戦後アメリカ軍の占領下に置かれた沖縄が、日本に返還され、沖縄県となるのは1972(昭和47)年5月15日のことであった。しかし、今も日米地位協定 によって、沖縄の米軍基地の問題は沖縄の人達の望む方向では解決されていない。
(画像は、首里のドル交換所。米国政府は1958年9月15日それまでのB円に換えて米国ドルを法定通貨とし、翌16日から交換実施。これは、アメリカが沖縄を永続的・安定的に統治する必要から取られた政策だった。朝日クロニクル「週間20世紀」より)
参考:
沖縄の歴史
http://rca.open.ed.jp/history/index.html
沖縄県庁ウェブサイト
http://www.wonder-okinawa.jp/jp/text.html
沖縄県 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C
沖縄文化アーカイブ・ふるさとの歴史と文化
http://rca.open.ed.jp/city-2001/homehistory/index.html
琉球大学附属図書館
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E7%90%89%E7%90%83%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%84%E5%B1%9E%E5%9B%B3%E6%9B%B8%E9%A4%A8&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=
琉球大学附属図書館>貴重資料展2001
http://www.lib.u-ryukyu.ac.jp/digia/tenji/tenji2001/m05.html
日本の再生・世界の再生 > 歴史に学ぶ(歴史研究家:岡崎溪子 )
http://www.world-reader.ne.jp/renasci/history/index.html
日米地位協定 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E5%9C%B0%E4%BD%8D%E5%8D%94%E5%AE%9A瀬長亀次郎 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E9%95%B7%E4%BA%80%E6%AC%A1%E9%83%8E