今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

第7回冬季オリンピックで、トニー・ザイラーがアルペンスキー競技で初の三冠王。

2005-01-26 | 歴史
今日(1月26日)は、第7回冬季オリンピックで、トニー・ザイラーがアルペンスキー競技で初の三冠王となった日。
1956(昭和31)年1月26日、第7回冬季オリンピックがイタリアのコルチナ・ダンペッツォで開会された。この大会で、オーストリアのトニー・ザイラーがアルペンスキー競技で初の三冠王に輝いた。当時のアルペンスキーは滑降、大回転、回転の三種目しかなかったのでこれら三種目全てを制覇したことになる。この3種目全てをを制覇したのはトニー・ザイラーとフランスのジャン・クロード・キリーが1968年のグルノーブル大会で成し遂げたのみと言う大変な偉業なのである。トニー・ザイラーは、三冠達成後、映画界入りし、「ザイラーの初恋物語」(1958年、オーストリア作品)に続いいて、同年「黒い稲妻」(西ドイツ作品)に主演、この映画はあくまで白銀のスターが主役で、スタントマンなしのスキーシーンが最大にして唯一の見せ場であった。かっこいいスキーの妙技と彼の甘いマスクで人気を獲得し、以降も「白銀は招くよ!」(1959年)、「銀嶺の王者」(1960年)、「白銀に躍る」(1961年)、「アイガー氷壁 決死の救援」(1962年)と映画で活躍。
そして、この1956(昭和31)年の第7回冬季オリンピックでは、日本の猪谷千春選手がアルペン回転競技で銀メダルを獲得。冬季オリンピック史上初の日本人メダリストとなった。彼は、冬季オリンピック、アルペン種目においては、今なお日本唯一のメダリストのはずである。彼の父六合雄は日本のスキーの草分けである。彼は3歳から父よりスキーの英才教育を受け、16歳で全日本選手権V。高校卒業後欧米を転戦して腕を磨いてきた成果であった。
この猪谷千春の半生を描いた長編伝記アニメーション映画「栄光へのシュプール 猪谷千春物語」(1997)も作成されている。
トニー・ザイラー(オーストリア)の来日、彼の主演するスキー映画の上映、そして、猪谷選手の活躍などは、1950~1960年代に、スキーブームを巻き起こし、日本のスキーの普及と発展に大きな影響を与えることになった。そして、日本にも多くのスキー場ができ、ウインタースポーツの花として、飛躍的にスキー人口を広げていった。
トニー・ザイラーの出演作品で一番記憶に残っているのは『白銀は招くよ!』だろうか。この映画は、警官が得意のスキーを使って強盗事件を解決するという物語である。毎年冬になるとスキー映画が封切られたが、当時は、まだ、スキーなど一般化していない時代であり、夢の銀幕の世界でのトニー・ザイラーのスキーの妙技を、まるで夢の世界を見ているような気持ちで見ていたのを思い出す。
(画像は、猪谷千春選手。朝日クロニカル、週間20世紀より)

左遷の日

2005-01-25 | 歴史
今日(1月25日)は、右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)が醍醐天皇によって九州の大宰府に左遷された日。
菅原道真(845年-903年)は、代々学者の家系に生まれ、18歳で文章(もんじょう)生。33歳で文章博士となる。宇多天皇の信任が厚く、藤原氏を抑えるために重用された。42歳の時讃岐の国司に赴任。4年後に帰国すると宇多天皇の下、昇進を重ねた。894年、50歳の時、遣唐大使に任ぜられるが、道真の提言により、遣唐使は廃止になった。899年左大臣藤原時平(ふじわらのときひら)と並んで右大臣に任ぜられた。学者出身の人物としては異例の出世であり、これに反発した左大臣・藤原時平らは、道真が醍醐天皇の廃立を画策していると上奏、901(延喜元)年1月20日、菅原道真を太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷、筑紫国に流罪することとなった。
道真は、梅の花を好み、邸内にはたくさんの梅を植えていたので、邸宅は「紅梅殿」とも呼ばれていた。都落ちの時を迎えて、道真は紅梅との別れを惜しんで「東風吹かば匂ひ送来せよ梅の花 主無しとて春な忘れそ」と詠み、この日都を旅立った。その梅は菅原邸から太宰府の庭まで飛んで行きそこに根づいたという「太宰府の飛梅」伝説がある。道真は失意のまま、2年後の903(延喜3)年2月25日に配所先で亡くなった。
道真の死後、都では落雷などの天災、また、藤原時平一族の早世が相次いだため、人々は、これを「道真の怨霊のしわざだと…」と噂するようになり、その霊を慰めるため、その罪を取り消して太政大臣の位を贈るとともに、京都・北野に道真を祭神とする天満宮(947年)が建てられ、「北野天神」として祀った。天神とは、もともと、地神(くにつかみ)のたいする天神(あまつかみ)の総称で、道真以前にも北野には天神が祀られ(「続日本後紀」)、藤原基経は毎年北野の雷公に年穀(ねんこく)豊穣を祈っており(「西宮記(さいぐうき)」)、天神信仰とは農耕祈雨と深く結びついた雷神信仰であった。道真が大宰府で没後、先に述べた落雷などによる災害、藤原時平一族の早死などから当時流行していた、非業の死を遂げた死者の怨霊を神に祀り上げて鎮めようとする御霊信仰や雷神信仰と結合して、道真の霊を祭神とする天神信仰が京都・大宰府を中心におこり、以後、全国的に天神信仰がひろがった。
京都・北野天満宮所蔵の「北野天神縁起絵巻 」には、雷神が清涼殿の藤原時平を襲う様子が描かれている。不気味なまでの黒雲が朱塗りの柱を覆い、赤身の裸身に褌(たふさぎ)をはき、背に連太鼓を負った異様な形相の雷神が雷を落としている。逃げまどう殿上人や公卿たち。一方、気丈な時平は、凛々しく太刀を振りかざし「われ1人相手いたさん」と虚空をにらんでいる。
菅原道真が生まれたのが6月25日、太宰府に左遷されたのが1月25日、亡くなったのが2月25日であったことから、毎月25日が天神の縁日となった。この中、1月25日は、1年の最初なのでお初天神と呼ばれてれる。
編著には『日本三代実録』『類聚国史』『新撰万葉集』漢詩文集に『菅家文草』『菅家後集』などがある。
(画像は、道真の怨霊、火雷神となって御所の清涼殿を襲う。「北野天神縁起絵巻」の部分。北野天満宮蔵。週間朝日百貨・日本歴史掲載分より)
参考:
菅原道真リンク(人物)
http://www1.linkclub.or.jp/~yukos/dazaifu/person/linkmich.htm
大宰府天満宮
http://www.dazaifutenmangu.or.jp/
北野天満宮
http://www.kitanotenmangu.or.jp/
菅原道真公収録データリスト
http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7722/772201.htm
文化デジタルライブラリー「菅原伝授手習鑑」
・菅原伝授手習鑑コース・天神信仰コース・菅原道真コース
http://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/exp2/w/000.html


明治天皇が初めて牛肉を試食

2005-01-24 | 歴史
今日(1872年1月24日)は、「明治天皇が初めて牛肉を試食 された日」
1872年(明治5)のこの日、明治天皇が初めて牛肉を試食された。明治初期の東京の新聞『新聞雑誌』には、「我が朝にては、中古以来肉食を禁ぜられしに、恐れ多くも天皇謂(いはれ)なき儀に思召し、自今肉食を遊ばさるる旨、宮内にて御定めこれあたりたり」とあるそうです。
よく世間では、日本人は草食人種だなどと言われるが、古来、人間の食生活は肉食から始まったといわれており、日本でも縄文時代の貝塚には貝殻に混じって熊や鹿、猪、兎、狸などの骨が出土している。稲作が盛んになっても、動物の肉を食べていたが、675(白雉26)年、仏教信仰に熱心だった天武天皇が「殺生禁断の詔」を出したものが、元正天皇、聖武天皇の時代にも受け継がれ、肉食の禁忌は宮中から始まり、次第に上流の貴族階級に浸透、時と共に一般庶民の食生活にも大きな影響を及ぼしていった。さらに1687年(貞享4年)徳川綱吉の「生類憐みの令」により、以降、千数百年にわたって肉食が忌避され続けてきたのである。
このような、仏教の殺生戎の影響による肉食禁忌は、一種の迷信化して長く日本人の食生活を縛っていたが、幕末の開国と共に来日した外国人が居留地などで肉食をするようになり、肉食は一挙に公然化した。
そして、牛肉屋と場が慶応の頃、江戸とその周辺でも見られるようになり、明治元年(1868)の神仏分離令の公布により、肉食が解禁される。
そして、天皇は、文明国の取るべき態度として断髪の上、洋装にして、和食をフランス料理に変え、1872(明治5)年1月24日には、1200年に渡る肉食の禁を破り、牛肉の試食をされ、この年より西洋料理が宮中に採り入れられるようにもなった。
天皇の名の下に肉食が公認されると、国民も肉食に対する偏見を改め、肉食は欧米文化に欠かせないものとして、今度は進んで肉食をするようになっていく。しかし、このような明治維新になり、肉食が解禁され、積極的に食べるような状況が作られていった裏には、新政府の「富国強兵」策があったようである。
まず、初期の牛鍋屋は、肉を食べることで勇気を誇示したい輩や、大阪では緒方洪庵の塾、江戸では福沢諭吉の塾などに出入りをする洋学を学ぶ書生たちによって食され、これら、知識人による肉食の啓蒙が、肉食の普及に大きく頁献したといわれる。
戯作者仮名垣魯文(かながきろぶん)が、1871年(明治4年)に著した『牛店雑談安愚楽鍋(うしやぞうだんあぐらなべ)』には「士農工商、老若男女、賢愚貧富おしなべて牛鍋食わねば開化不進奴(ひらけぬやつ)」とあるように、肉食を賛辞している。
このようなことから、文明開化にあこがれる人々は、牛肉食をあたかも欧米文化の象徴のように信じて、進んで肉食をするようになっていく。
この頃食べられていた「牛鍋」は、肉を調理する技術を持たない日本人が、作り出した独特な料理法であり、この牛肉とネギなどの野菜を味噌や醤油を使って煮る日本の伝統的料理技術を応用した調理方法は、その後すき焼きにと引き継がれていく。
ちなみにすき焼きは、文字通り農具の鋤(すき)の上で焼いたのが始まりだと言われ、関西ではこれの名残で、肉を焼いてから砂糖を振りかけ、醤油を加えていくが、牛鍋の影響により関東では最初から焼かずにすぐに割り下を注ぐようだ。今のように、一般人がステーキなどを食べるようになったのは戦後のことである。
しかし、このような、肉を食べるか食べないかといった食文化までもが、結局は、政府などの思惑に振り回されていたのだと思うと悲しくなるね~。


八甲田山の日

2005-01-23 | 歴史
今日(1月23日)は「八甲田山の日」
1902(明治35)年1月、世界の山岳遭難史上、空前の大惨事が八甲田山で起こった。同年1月23日、八甲田山へ雪中行軍に出かけた兵士210名が猛吹雪の中で道を失い寒さと飢えと疲労の為に遭難し、199名の死亡が確認された。
迫りくる日露開戦を前に、日本軍は対露作戦の準備として、シベリアを想定した寒地作戦のための訓練が急務となっていた。第8師団は、1902(明治35)年1月、青森の歩兵第5連隊第2大隊と弘前の歩兵第31連隊による厳冬期の八甲田山雪中行軍を企画、ロシアに対する寒地作戦の準備をしようとした。日本陸軍には、厳寒地域での戦闘経験がなかったため、八甲田山雪中行軍には、シベリヤなどでの作戦行動にどんな装備や野営用具が必要なのかを調べる目的もあった。1月23日に、青森の兵営を出発した第5連隊の雪中行軍隊210人は、1泊2日の行軍予定であったのだが、烈しい寒波による風雪のなかで道を失い、199人の死者を出し、生存者わずか11人の惨事となり、その生存者も手足を切断する凍傷におかされていた。この惨事は、1月29日から本格化した捜索結果が「行軍隊凍死事件」として新聞に報じられ、国民を驚かせた。
第五連隊の行軍は、中隊規模を上回る人数で、兵卒が多い上、輸送隊もかかえ、さらに地元の案内人もつけていないなど、全体として雪山を甘く見ていたのではないかと後に指摘された。
一方、弘前を1月20日に出発した歩兵第31連隊の下士官と見習い士官中心の特別選抜隊38人は出発早々黒倉山付近で深い雪に阻まれるが、雪山を辛くも登る。この隊は、八甲田山周囲一周という困難な任務を与えられたが、事前調査、夏季訓練、雪山での予備訓練を重ね、さらに、下士官中心の選抜隊であったこと、地元の案内人を雇うなど準備も周到であったため1人の犠牲者も出さず同31日に無事弘前に帰着している。
我が国史上最大の遭難事故を題材に、 新田次郎が著した『八甲田山死の彷徨』(新潮社昭和52年発行)を、森谷司郎監督が同年映画化(「八甲田山」)。見事 八甲田山雪中行軍を成功させる高倉健演じる将校の行動と、200名近い死者を出してしまった北大路欣也演じる将校の行動が対照的に描かれている。当時「洋高邦低」と呼ばれて久しかった日本映画界で未曾有の大ヒットを記録した。
この八甲田山遭難事件での将兵の難死も、やがて、愛国心の物語として語られ ていた時代があったのだから怖いね。
(画像は、「八甲田山死の彷徨 」新田次郎著、新潮社) 


ジャズの日

2005-01-22 | 記念日
今日(1月22日)は、「ジャズの日」。
東京都内の老舗ジャズクラブ「バードランド」「サテンドール」「オールオブミークラブ」のオーナーらによる「JAZZ DAY実行委員会」が2001(平成13)年から実施。JAZZの"JA"が"January"(1月)の先頭2文字であり、"ZZ"が"22"に似ていることからこの日を記念日にしたそうで、ジャズのファン層の裾野を広げる為に、ライブコンサート等さまなざまPR活動が行われるという。
しかし、「日本のジャズ発祥の地」は神戸だといわれているんだよ・・・。
宝塚管弦楽団を飛び出した井田一郎が、我国最初のジャズバンド「井田一郎とラッフィング・スターズ」を結成。井田一郎率いるプロのジャズバンドにより、ジャズが最初に演奏されたのが、1923(大正12)年4月、神戸でのことだからである。このバンドはやがて東京に活動の場を移し、デキシーランドジャズを演奏した。神戸でも関西学院の学生などを中心に、デキシーランドジャズ・バンドが多く生まれ、今でも、神戸はデキシーランドジャズのメッカとされている。
また、神戸ジャズの特徴は、神戸ジャズを支えてきたのは、アマチュアバンドだったということであり、神戸を訪れたジャズの神様・ルイ・アームストロングが神戸のジャズバンドを称賛したといわれている。
そして、ラフティング・スターズ結成60年目に当たる1982(昭和57)年からは毎年秋に、北野地区の異人館やライブハウスなど十数か所を会場にして「神戸ジャズストリート」が開催れている。この催しでは、演奏者が次々と各会場を出張演奏して廻る、また、アマとプロが一体となって演奏し、街にジャズが溶け込んでいるのが特徴である。
今、日本では、夏になると全国各地で「ジャズフェスティバル」と称するものが開催されているが、神戸には古くから伝統のある「全日本ディキシーランド・ジャズ・フェスティバル」があるため、「フェスティバル」に替わるネーミングとして「ジャズストリート」の名が考え出されたという。
この発想は、1930年代半ば頃のニューヨークの52丁目界隈は、ジャズを聴かせるナイトスポットが軒を並べていたそうで、当時のニューヨークっ子は、夜な夜なジャズを聴くために、それも好きな者は、何軒かの店を「はしご」したという話しであり、このやり方を、取り入れたのが神戸のジャズストリートなのである。
年に一度の「神戸ジャズストリート」では、この日を待ちかねていたように、大勢のジャズファンが集まり、ステージでの演奏と、それを聴くファンが一体になって盛り上がっているよ。皆さんも秋には是非参加してくださいね。
(画像は、美女に先導されてのパレード)
参考:
神戸ジャズストリート
http://www.kobejazzstreet.gr.jp/
KOBE JAZZ CITY
http://www.kobejazzcity.com/
神戸ジャズ物語
http://www.i-link.co.jp/index/tokushu/030215/top.htm