今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

日本初の海洋気象台が観測事業を開始した日

2005-08-26 | 歴史
今日(8月26日)は「日本初の海洋気象台が観測事業を開始した日」
現在、神戸市中央区脇浜海岸通1の神戸防災合同庁舎内にある同気象台の前身は、1896(明治29)年に今の同市中央区中山手通7に設置された県立神戸測候所である。関西の海運業者らの出資で1920(大正9)年8月26日、 海洋気象観測が始まり、世界に先駆けて船舶向けの気象警報を発信した。 残念ながらこの神戸海洋気象台は阪神・淡路大震災で倒壊してしまった。
ところで、桜前線というのをご存知でしょう。桜開花予報は日本中どこでも見られる染井吉野の開花を基準にしているが、神戸の桜の標本木は神戸市立王子動物園にあるが、元々、この神戸の標本木は中山手通の神戸海洋気象台跡地に残る高さ4.5mの桜であったが、神戸海洋気象台が阪神・淡路大震災によって移転し、標本木もその後、2002年に市立王子動物園(正面ゲート入ってすぐの「パンダ花壇内」)の桜に変更されたのだそうだ。
以下のHP震災記録写真(大木本美通撮影) 神戸海洋気象台では、阪神大震災後の倒壊した海洋気象台の取り壊しの光景が写真に撮られている。こんな写真を見ていると震災の時を思い出し本当に切なくなるよ。
今日は、海洋気象台のことを少し調べてみた。
気象庁は、海洋の大規模で長期的な変動と気候変動との関係を調べるために、5隻の海洋気象観測船によって、西太平洋および日本周辺海域において定期的に水温・塩分などの海洋観測および海洋における二酸化炭素などの温室効果ガスや海洋汚染物質の観測を行っているそうだ。1980年代半ば以降、日本沿岸の海面水位は上昇傾向にあり、現在、平均的な海面の水位はこの100年間で最も高い状態にあるという。(海面水位の監視と情報)の、IPCC(気候変動に関する政府間パネル)地球温暖化第3次評価報告書(2001)によると、20世紀中に地球全体の平均海面水位は温暖化に伴い0.1~0.2m上昇したとされており、更に21世紀末までに最大約0.9m上昇すると予測されている。これらの数値は世界の海洋全体で平均した値であり、海域によってはこれより高くなったり低くなったりする可能性があるが、海域ごとの海面上昇についてはまだよくわかっておらず、日本沿岸など海面水位変動の大きい海域における見積もりもまだできていないそうだ。
地球は、二酸化炭素やメタンなどの「温室効果ガス」によって、人間や動植物にとって住みよい温度に保たれている。しかし、近年人間の経済活動が拡大して石油や石炭などのエネルギーの消費量が増大し、二酸化炭素等の温室効果 ガスが大量に大気中に排出されているため、温室効果が強まり地球の温度が上昇する地球温暖化という現象が生じている。 その結果、地表の平均温度は、20世紀に約0.6℃上昇しているらしい。気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の予測では、1990年から2100年までの間に、1.4℃~5.8℃高まると予想されている。(気象庁ホームページにIPCC第3次評価報告書の詳細がある)このような温度上昇があれば、水面だけでなく、いろいろなところに深刻な影響が現れると考えられている。陸地でも蒸発や降雨といった水の循環が激しくなり、その結果、洪水が多発する地域がある一方、渇水や干ばつに苦しむ地域がでるといったように水資源のバランスが崩れると考えられおり、近年日本各地で発生している洪水などもこのような地球温暖化と関係しているのだろう。これらを防止するために京都議定書などが作成され、防止しようとしてもなかなか守られない。そのうち、温暖化により、海面の上昇によって、水没してしまう島も発生するかも・・・。
今、米国他大国は、宇宙開発をし、宇宙基地まで作っているが、私達の生きている時代はともかくとして、そのうち、地球には住めず、宇宙へ逃げ出さなければならないというSFの世界がやって来るかもしれないね~。
(画像は神戸海洋気象台)
参考:
気象庁
http://www.jma.go.jp/jma/index.html
温暖化の仕組み(京都府)
http://www.pref.kyoto.jp/kankyo/globe_prob/earthwarm/shikumi.html


即席ラーメン記念日

2005-08-25 | 記念日
今日(8月25日)は、「即席ラーメン記念日」
日清食品の創業者・安藤百福(ももふく)氏によって発明された世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」は、1958(昭和33)年8月25日に発売された。この「チキンラーメン」の誕生日を記念して、毎年8月25日を「ラーメン記念日」とし、記念日(8月25日)前後に「ラーメン記念日フェスタ」を開催、無料試食会をはじめ全国で数々のイベントを行なっているようだ。記念日は、日清食品が制定。
このチキンラーメンは、息の長い商品だな~。色んなメーカーから、次から次へと新しい商品が開発されているが、1958(昭和33)年に発売されて以来、未だに同じものが発売されている。若い頃、そう、昭和37年頃から5年ほど東京で、仕事をしていた頃、このラーメンにはずいぶんお世話になったな~。一人で下宿住まいしていたが、私の炊事用の道具と言えば、電気コンロとミルクパンだけだったからね~。出張の多い仕事で、家にいることが少なく、家にいるときは殆ど外食していたので、家での料理はこれで出来るものしかしない。出張がなく、東京にいるときは、毎日会社の飲兵衛と飲んだくれていたし、家で食事なんかすることなかったから・・・。飲んで帰って夜中に腹が減ったときなどには、このチキンラーメンを食べてた。だから何時も切らさなかったよ。兎に角、料理せずお湯を入れて3分待つだけで食べれるなんて、私のようなものにとっては最高の食べ物だったな~。ちょっと癖になる独特の味は、今食べても結構美味しいと感じるよ。最も、何処のメーカーのものであれ、この頃は歳もとったし、油分を控えるため、カップ麺そのものを食べることがなくなったけどね・・・。
そう言えば、2003(平成15)年度のNHK朝の連続ドラマ「てるてる家族」は、大阪・池田市を舞台にしたもので、主人公のパン屋さん家族をめぐる周辺の人たちの中に、後に日清食品の創業者となった安藤百福さんがチキンラーメンを発明するプロセスが描かれていたね~。役の名前は忘れたが、中村梅雀さんが演じてた。味があって面白かった。チキンラーメンは、1958(昭和33)年、TVの舞台にもなっている池田市にある安藤百福氏の自宅裏庭の粗末な研究小屋から生まれた。日清食品は発明・発見の大切さを伝えたいという願いを込めて1999(平成11)年に、発祥の地、池田に「インスタントラーメン発明記念館」をオープンしている。私は行ったことがないが、そこでは、インスタントラーメンの手作り体験ができ、その手作りチキンラーメンは持ち帰り、作りたての味を楽しむことができるのだそうだ。ラーメン好きには、たまらないだろうね~。
私は、安藤百福氏のことは、よく知らなかったが、その経歴など調べていて、一番感心したのは、安藤氏が即席麺を開発した意図だね~。戦後食べるものもなかった頃、アメリカから送られた援助物資の小麦粉からパンを製造し、パン食を奨励する運動を厚生省(現厚生労働省)が行っていた。安藤氏はこのパン食奨励に不満を持ち、東洋文化であるめん類を粉食奨励の一環として取り上げない(当時の製麺業界は零細企業ばかりだったため)ことへの疑問などから、後に、チキンラーメンの開発に取り組んだという。又、何故即席麺を開発したかについては、これからは日本も成長し「忙しい時代が来る。そんな時にも簡単でおいしく、栄養があり、保存性が高く、衛生的で、しかも安い食べ物を提供し社会に貢献したい」という気持ちからだという。
即席麺と言うと手抜き食のイメージが起こるが、彼はこれからの時代を読んだ上で、その時代に合った商品開発をしたのだよね。この先見性が企業を発展させたのだろう。彼は、アメリカ進出を考え、渡米したとき、どんぶりという食器がアメリカにはないことに気が付いたそうだ。そこから紙コップを使うカップ麺の発想が生まれ、1971年に世界で初めてのカップ麺「日清カップヌードル」を発売したんだそうだ。そして、最近のニュースでも報じられたが、今年2005(平成17)年7月26日、日本人宇宙飛行士野口聡一さんが搭乗するスペースシャトル「ディスカバリー号」が打ち上げられた。この「ディスカバリー号」には、JAXA(宇宙航空研究開発機構)と日清食品が共同開発した世界初の宇宙食ラーメン「スペース・ラム」が搭載され、それを食べている映像が報じられたよね。宇宙食ラーメンは、通常のラーメンだと、めんと汁が無重力空間では飛び散ってしまうため宇宙で食べれるように開発したもの。味覚も地球上とは異なるため宇宙用の味付けがされているらしいが、野口さんは「宇宙食ラーメンは、びっくりするぐらい地上のラーメンのおいしさが再現されていた」と言っている。池田の「インスタントラーメン発明記念館」では、この宇宙食ラーメン「スペース・ラム」を、世界に先駆け一般公開中でだそうだ。興味のある人は、一度、同記念館へ行ってみるといいね~。この「スペース・ラム」は、「宇宙食を開発したい」という日清食品の創業者会長、安藤百福(95歳)氏の強い意向を受けて日清食品で研究を重ねてきたものという。その安藤氏は、今年の5月末に、「私がまだ元気なうちに(若い経営陣に)経営を引き継がせたい。」と言って自ら取締役を退任している。本当に偉い人だね~。たいした能力もない経営者が何時までも社長などに居座っている会社もあるが、爪の垢でも煎じて飲むと良いよね~。
チキラー島は、日清食品のHP。ここでは、ゲームや占いなどして楽しめるよ。
(画像は、チキンラーメン)
参考:
ディスカバリー:初の「宇宙食ラーメン」搭載
http://www.mainichi-msn.co.jp/science/kagaku/news/20050727k0000e040030000c.html
ラーメンの歴史
http://www.uraken.net/zatsugaku/zatsugaku_21.html
ラーメン - 語源由来辞典
http://gogen-allguide.com/ra/raumen.html
新横浜ラーメン博物館
http://www.raumen.co.jp/home/Default.asp
日清食品の安藤会長が退任 即席めんとともに半世紀
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050601-00000187-kyodo-bus_all




愛酒の日

2005-08-24 | 記念日
今日(8月24日)は「愛酒の日」
酒をこよなく愛した歌人・若山牧水(本名:若山繁)の誕生日。
「秋草の花のうち、最も早く咲くは何であらう。萩、桔梗、などであらうか。
 桔梗も花壇や仏壇で見ては、厭味になりがちである。野原のあをあおとした雑草のなかに、思ひがけない一輪二輪を見出でた時が本統の桔梗らしい。」・・・【秋草と虫の音の一節(若山牧水)より】
人間や自然への溢れる想いを歌い、日本の短歌史に偉大な足跡を残した国民的歌人「若山牧水」は、旅を愛し、酒をこよなく愛した歌人でもある。
「白玉の歯にしみ透る秋の夜の酒は静かに飲むべかりける」
牧水の酒を歌った歌は多いがその中でもこの有名な歌は私の大好き歌である。明治、大正、昭和にかけて活躍した牧水は
「幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく」
の歌のごとく牧水は旅を愛し、放浪の果てに沼津に落ちついた。1928(昭和3)年の初秋、この地に病で床に伏すが、衰弱したなかでも微かに眼をあけ、酒をのぞんだというが、1928(昭和3)年9月17日病で逝く。<43歳>
「酒ほしさまぎらはすとて庭に出でつ庭草をぬくこの庭草を」
上の歌は牧水最後の歌である。
牧水は"酒仙の歌人"とも称され、その酒量は、毎日、朝2合、昼2合、夜6合、1日合計1升を飲む大酒豪であったそうだ。そして、来客でもあると、もう1本もう1本となったようで、人生の悲哀を酒と歌とで昇華しながらの旅も、最後は肝硬変により果てたようである。
その生涯には、発表されたものだけで15冊の歌集があり、約6900首収録されているが、そのうち酒を詠ったものが200首に及ぶという。
牧水の「樹木とその葉 」(副題: 16 酒の讃と苦笑 )には、以下の様に書いている。
”「それほどにうまきかとひとの問ひたらば何と答へむこの酒の味」
 眞實、菓子好の人が菓子を、渇いた人が水を、口にした時ほどのうまさをば酒は持つてゐないかも知れない。一度口にふくんで咽喉を通す。その後に口に殘る一種の餘香餘韻が酒のありがたさである。單なる味覺のみのうまさではない。
 無論口であぢはふうまさもあるにはあるが、酒は更に心で噛みしめる味ひを持つて居る。あの「醉ふ」といふのは心が次第に酒の味をあぢはつてゆく状態をいふのだと私はおもふ。斯の酒のうまみは單に味覺を與へるだけでなく、直ちに心の營養となつてゆく。乾いてゐた心はうるほひ、弱つてゐた心は蘇(よみがへ)り、散らばつてゐた心は次第に一つに纒つて來る。・・”
本当に酒が好きなんだな~。そして、いよいよ病に冒されて酒を断たざるをえない状態に陥った時の歌には、
「膳にならぶ飯しも小鯛も松たけも 可笑しきものか酒なしにして」
があり、食卓に酒の無いのを悲しんでいるが、この牧水の歌が本当によく理解できる。私も、若い頃は、本当に無茶苦茶な酒の飲み方をしてきた。歳もとり、肝機能も低下し、今は、酒量も抑えて夕食には、2合と決めてはいるがついつい越すことが多くなりがちである。しかし、この盆に、通風の黄色信号が出てきた。医者には、危険信号の手前であるが、今の状況を続けると本当に通風なるので酒量を抑え、休肝日を作るよう厳重注意された。それで、今週から、週1で休肝日を作ることにした。止むを得ない・・・、牧水のような惨めな状況にならないよう、そして、大好きなお酒が何時までも飲めるようにある程度は我慢しなければしようがない。
彼の歌の中には、大好きな銘酒を名前をあげて讃えている歌もある。
「まさむねの一合瓶のかはゆさは 珠にかも似む飲まで居るべし」
「津の国の伊丹の里ゆはるばると 白雪来るその酒来る」
「酒の名のあまたはあれど今はこは この白雪にます酒はなし」
「とろとろと琥珀の清水津の国の銘酒 白鶴瓶にあふれ出づ」
やはり、伊丹や灘の酒が好きだったようであり、同じ酒好きの神戸っ子としては、本当に嬉しく想う。
「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ」
さ~、暑いとはいえ、多少秋めいてもきたことでもあるし、今、健康のため平素は、焼酎を飲むことが多いが、今夜は、愛する徳利と盃を使って牧水を想いながら灘の酒で燗酒でも楽しんでみようか。酒量は守って・・・・。
酒をこよなく愛している凡人よーさんのHP「よーさんの我楽多部屋」。ここでは、よーさんが酒を楽しむために集めた「酒器類」のコレクションを中心に酒の肴にと色んな我楽多類も案内している。興味のある方はご覧ください。酒器の数だけは誰にも負けないよ・・・(^0^)。酒器類のページはここ
(画像は、暮坂峠(群馬県)の詩碑。《『みなかみ紀行(1922(大正11)年』の旅路にあった牧水が暮坂峠越えを詠んだ長詩「枯野の旅」の一節が刻まれている)とともに、今しがた登って来た暮坂峠を見晴るかすかのように、旅姿の牧水の銅像が建立されている。旅を愛した牧水を彷彿させる銅像である。》
参考:若山牧水[miyazaki-c.ed.jp]
年表、牧水カルタ等。この牧水カルタでどれだけ牧水の歌を知ってるか試しては・・・。http://himuka.miyazaki-c.ed.jp/db/kyouzai/public/wakayama/boku/
青空文庫作家別作品リスト:No.162「若山牧水」
若山牧水の色々な作品がウエブ上で読めますよ。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/person162.html
若山牧水の色々な作品がウエブ上で読めますよ。
沼津市若山牧水記念館(沼津市の公式HP)
http://web.thn.jp/bokusui/index.htm
酒の詩歌句集
http://jns.ixla.jp/users/jofuan505/myhaiku_008.htm
よもやまばなし― その六十 ― 「[若山牧水と白鶴](白鶴酒造のホームページ)
http://www.hakutsuru.co.jp/know/guide/guide_bn.html

白虎隊の日

2005-08-23 | 記念日
今日(8月23日)は「白虎隊の日」
1868(明治元)年、戊辰戦争で会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した。
1862(文久2)年、 尊皇攘夷派と幕府方との軋轢が増す中、 会津藩主・松平容保は話し合いで和解の道を開こうとするが、 攘夷派たちの行動は一層過激さを増すばかり。鎮圧に乗り出した容保は新撰組らの活躍もあって一旦は有利に立つが、 天皇崩御を境に一転して窮地へ追い込まれる。1年5ヶ月にわたる戊辰戦争で最も悲惨を極めたのが会津戦争である。
会津藩では軍を年齢により白虎・朱雀・青龍・玄武の4つの班に分けており、最年少の白虎隊は16歳から17歳までの少年で編成されていたが、本来は予備兵力であった。隊は士中隊、寄合隊、足軽隊から成り、士中とは上級藩士の師弟で編成された隊、寄合は中級藩士、足軽は下級藩士であった。
会津藩等の奥羽越列藩同盟が官軍と戦闘状態に入ると、会津藩では若松城下を死守すべく若松へと至る街道口に主力部隊を展開させて防備に努めたが、圧倒的な物量で迫る新政府軍に対しては劣勢は否めず、本来城下防衛の任に当たるべく組織された白虎隊もこれを支援する形で前線へと進軍した。しかし会津軍の劣勢は如何ともし難く、白虎隊も各所で苦戦を強いられた。なかでも最精鋭とされた士中隊も奮戦空しく撤退を余儀なくされた。このうち一番隊は藩主・松平容保護衛の任に当たったが、二番隊は戸の口原で決定的打撃を受けて潰走し、戦死者も少なからずあり、負傷者を抱えながら戸の口堰(飯盛山の中腹をうがち猪苗代湖の水を若松方面に引く灌漑用の洞穴)を通り抜けて、郊外の飯盛山へと落ち延びた。この日、飯盛山にいた白虎隊の二番士中隊員が、城下周辺の武家屋敷が燃えて噴煙を上げているのを見て、鶴ヶ城が燃え会津藩が敗北したと勘違いをし、藩と運命をともにしようと壮絶な自刃を遂げた。実際には、藩主松平容保が、敵を近付けないために城下に火を放ったのが、白虎隊には落城と写ったのだが鶴ヶ城と飯盛山は2.8Km離れており、勘違いしても仕方がないだろう。実際の落城はこの日から一ヶ月後のことである。他の隊も市街戦や籠城等の末、戦力としては壊滅した。 この時、隊士の一人飯沼貞吉が瀕死のところを救出され、後に、彼の証言によって白虎隊の悲劇が語り継がれるようになったという。彼(のち貞雄と改名)は昭和初期まで生きたという。飯沼貞雄の遺骨の一部は、遺言により飯盛山に眠る同志と同じ場所に埋葬されたという。
会津藩主松平容保が京都守護職に就き、戊辰戦争で会津藩が降伏するまでを描いた「白虎隊」のドラマ(1986年 、NHK「紅白歌合戦」の対抗番組として作成された日本テレビ系の『年末時代劇スペシャル』の第2弾)は、豪華な配役人で、スケールの大きなドラマで、よかったね~。松平容保役を風間杜夫が演じていた。年老いて参加できず城に残る年老いた武士の役を演じた森繁久弥がなんとも言えぬ味を出していた。私もその後、東北へ観光したときに会津若松城(鶴ヶ城)や飯盛山へも立ち寄った。そして、戸の口堰も見た。頭の中を、ドラマのシーンがよぎり、感動したのを思い出した。
昔は、こんな若い子供までが、藩とともに戦い、最後は、藩と運命をともにしようと壮絶な自刃を遂げた。哀れであるが、反面、命を懸けてまで戦える藩があったというのは幸せな面もあったかもしれない。今の日本の国の状況と若者を見ているとそんな感じもする。
戦雲暗く陽は落ちて 孤城に月の影かなし ・・・
あの作詞:嶋田 磬也、作曲:古賀政男の有名な歌「白虎隊」を聞きながら、幼くして藩とともに命を絶った「白虎隊」を偲んでみませんか。
白虎隊MIDI 作詞 嶋田 磬也・作曲 古賀政男MIDI programed by K.Kebuta
(画像はDVD「白虎隊」1986年に日本テレビ系で放映された時代劇スペシャル。)
参考:
白虎隊記念館- 会津戦争の史料、白虎隊自刃の図等の展示。
http://www.h3.dion.ne.jp/~byakko/
さんぽみち- 幕末動乱の白虎隊、会津若松の史跡紹介、福島県の観光。
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1835/
白虎隊のお話・1(会津の子供達と日新館):会津若松観光公社
http://www.tsurugajo.com/history/byakotai1.htm

チンチン電車の日

2005-08-22 | 記念日
今日(8月22日)は「チンチン電車の日」
1903(明治36)年、東京電車鉄道の路面電車が新橋~品川で営業を開始し、東京で初めて路面電車(チンチン電車)が走った日であるが、実際に、日本で初めて路面電車が走ったのは1890(明治23)年5月4日に、上野公園で開催されていた内国勧業博覧会の会場内であった。また、日本で最初の一般の道路を走る路面電車は1895(明治28)年2月1日に開業した小路東洞院~伏見京橋の京都電気鉄道だったそうだ。だから、これが実質上の日本最初の路面電車と言っていいだろう。同年(明治28年)の、京都・岡崎での第四回内国勧業博覧会があったとき出来た電車である。出発のときなど、紐を引いて合図すると、ちんちんと鳴ったことから、京都の人は、この電車を「ちんちん電車」とよんだ。この日本で最初の市内電車は、京都電気鉄道株式会社(京電)によって運行された。
その後、京都市が運営する市営電車が計画され、先に運行していた京電と一部路線をダブらせる形で1912(明治45)年に、市営電車が走り始めた。京電の線路は後発の市営電車より幅の狭い狭軌であったため、「狭い(Narrow)」という語から「N電」とも呼ばれていた。この「N電」は昭和36年7月、とても惜しまれながら姿を消した。後を引き継いだ、京都市電も、昭和53年には全線廃止となってしまった。
我が地元、神戸では、1910(明治43)年4月5日、路面電車の神戸電気鉄道(市電の前身)が春日野から三宮を通り、今のJR兵庫駅前間5.9Kmを開通したのが最初である。その後、神戸の市電はグリーンをベースにしたしゃれたデザインのロマンスカーで、日本一の市電といわれたほど人気のあったものだが、モータリーぜーションの発達により、1971(昭和46)年には惜しまれながら市内から完全に姿を消してしまった。私などは、今でも、街中を走る車の方を規制すべきであり、市電はもっと存続させておくべきであったと思っている。この神戸の市電のことについては、私のHP「よーさんの我楽多部屋」の「神戸のこといろいろ」No22神戸電気鉄道開通(市電の前身)でも簡単に取り上げた。ここです。
又、明治43年、神戸電気鉄道(市電の前身)の開業を祝って「神戸電気唱歌」が作られた。この「神戸電気唱歌」も、私のホームページ「よーさんの我楽多部屋」の「うた(歌・唄・詩)」のページに掲載しているので覗いててみて・・・。歌は、少し長いが当時の神戸の町をグルット観光案内する形になっている。「神戸電車唱歌」
この「ちんちん電車の日」とは別に、「路面電車の日」(6月10日)がある。1995(平成7)年のこの日に、路面電車を持つ自治体が開催した「路面電車サミット」で制定。(6=ろ、10=でんの語呂合わせ)
(画像は、コレクションの絵葉書より、神戸の栄町を走る市電。大正時代。)
参考:
日本路面電車愛好会公式HP
http://homepage1.nifty.com/tram/