今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

献血記念日

2005-08-21 | 記念日
今日(8月21日)は、「献血記念日」
1964(昭和39)年、それまでの売血制度をやめ、全ての輸血用血液を献血により確保する体制を確立するよう閣議で決定された。
輸血と言うものは古くからあったようであるが、今のように、人の血を人に輸血すろことが行われたのは、1818(文政元)年、イギリスの産科医であったジェームス・ブランデルが、ガン患者に人間同士の輸血を行ったのが始まりと言うが、当時は、血液型発見の約70年前の試みであり、まだ血液を体外に採りだしたときに凝固するのを防ぐ方法は無論、血液型も知られていなかった時代だから、輸血に伴っておきる重い副作用や死亡事故さえも当たり前のことであったというが、今の人から見ると当然だと思うよね。
現在のように、安全にしかも、学理的に行われるようになったのは、1901(明治34)年、ウイーンのカール・ランドシュナイダーとその弟子たちがABC式の血液型に成功して以来のことで、この血液型の発見によって、輸血の成功率は飛躍的に伸び、続く、第一次世界大戦では多くの兵士の命を救ったといわれる。その後、1914(大正3)年頃、一定期間血液を保管し、いつでも輸血することが可能となると、これをきっかけで「輸血銀行」というものが生まれることになった。そして、赤十字が血液事業に着手したのは1921(大正10)年からで、その後多くの血液センターが各国に設立された後、赤十字社は血液事業をその中心的事業に位置づけたという。
日本で初めて輸血が行われたのは1919(大正8)年、九州大学外科の後藤七郎教授や東京大学外科の塩田広重教授が政府の命令により、第一次世界大戦における西部戦線の野戦病院を視察し、そこで輸血が行われているのを目のあたりにして、その効果に非常に驚き、みやげに血液型判定用血清とJeanbrau式という輸血の機械を持ち帰った。そして、帰国後、後藤教授は陳旧性膿胸の患者に、きわめて大規模な手術をしたとき、また、塩田教授は子宮出血の貧血患者に輸血して、ともに成功したのが日本における輸血成功第一例と言うことになっているらしい。しかし、輸血が盛んに行われた戦後の1948(昭和23)年の輸血事故(梅毒感染)が発生後、輸血の安全対策が問題となり、日本赤十字社中央病院内に、日本赤十字社血液銀行東京業務所を開設して、採決、保存血液製造などの業務を開始した。その後、各地に血液銀行(現在の赤十字血液センター)や民間の血液銀行が次々と設立されたが、まだ、「献血」と言うものがまだ広く国民に浸透していなかった時代であり、結局、定職につけない人たちが、生活費を得るために血液を売る、「売血」を常習化するものが多く出来てきた。その結果、そういった人達が貧血になったり、血清肺炎などの病気にかかるなど、血液事業のあり方として、「売血」が問題となる。高校生や大学生を中心に市民からも「売血」をなくす運動が高まり、一方、政府も、保存血液の製造は将来すべて「献血」でまかなうことが最善の方法であるとの結論を下し、1964(昭和39)年8月21日に閣議決定を行い、国、都道府県、日本赤十字社が一体となって献血の推進を協力におこなうこととなった。しかし、この頃は売血全盛で、献血者は、年間で僅か7万人程度に過ぎず、当時必要とされる保存血液も献血によるものは3%にも満たない状況であったという。だが、この民間による売血追放運動は次第に功を奏し、民間血液銀行が1969(昭和44)年、には売血による輸血用保存血液の製造を中止し、1974(昭和49)年には、預血制度を廃止したことにより、献血100%体制が確立した。しかし、この「献血」制度は、当時、「預血」という考え方にもとづくものであった。つまり、自分や自分の家族の万が一輸血をうけることがある場合に備えて、その分を献血するという考え方によるものであった。
この頃、私の子供が小学校1年生の時に、心臓の手術で、輸血が必要となったが、私の分だけでは足らず、家人は貧血で採決してもらえないし、病院から何人分かの献血手帳の提出を求められた。それで、仕方なく、親戚や友人に協力をお願いをしたことを思い出す。今では、献血による血液も十分に確保され、献血手帳の有無にかかわらず輸血は平等に受けられるようになった。当時の献血手帳の裏面などには「あなたやあなたのご家族が輸血を必要とするとき,この手帳で輸血が受けられます」という優先還元の項目があったが,1980(昭和55)年に廃止され、また,献血手帳の内面に供給欄(使用したという記録 )があったのも,同じく1892(昭和57)年に廃止され,今は、献血手帳は献血の記録としての手帳となっている。今は、ありがたいことに、誰でも手術用の輸血を受けられるようになったが、それも、日頃から、献身的に献血されている方のお陰であり、健常者の方は、是非、これからも、献血に協力をして貰いたいと願っている。
しかし、最近、若者の献血離れや、血が薄いために採決できない薄血病とHIV感染者の急増など、血液にまつわる問題が多く起きているという。
血液が基準より薄い「比重不足」で献血が出来ない人は、今、若い女性だけでなく男性でもその傾向が増えてきており、この比重不足で献血を断ったのは10年前の2倍以上にもなっているという。この比重不足の原因には、鉄分不足や栄養状態の問題もあるのだが、本当の原因はまだつかめていないそうだ。ただでさえ、若い献血者が減少している状態で比重不足で献血が出来ない人の増加は非常に心配されているという。
今、献血不足で、輸血用の血液が不足していると、言われるが、病院では、これらの血液を金儲けの為に本来の目的外に使用したりしている話も聞く。また、折角献血者が献血に行っているのに、係の人が献血者は200ml献血を望み、400ml献血を望んでいないのこれをしつこくお願いしたり無理強いをして、トラブルを起こすなどの問題も出ているようである。今日の記念日を機会に、皆さんも、献血や輸血の問題を今一度、考え直してみてはどうだろうか。
(画像は、献血手帳)
参考:
献血の知識を知るためのホームページ
http://www.geocities.jp/kenketsutishiki/index.html
HIV検査結果の献血者への通知を考える
http://www.lap.jp/lap2/nlback/nl22/nl22-6.html
献血手帳
http://homepage1.nifty.com/tamako/2-1tetyou.htm
Yahoo!ニュース - 献血血液感染問題
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/infection_of_blood_donation/











交通信号の日,三色信号設置の日

2005-08-20 | 記念日
今日(8月20日)は、「交通信号の日,三色信号設置の日」
「今日は何の日~毎日が記念日~」で今日の記念日を見ると、1931(昭和6)年8月20日の今日、銀座の尾張町交差点(現在の銀座4丁目交差点)・京橋交差点などに、日本初の3色灯の自動信号機が設置された。・・・とあった。
それで、今日は、以下参考の神奈川県警のHP他などを見て、信号機のことをいろいろ調べてみた。信号機で、道路交通を整備するための「灯火式信号機」が世界で初めて設置されたのは、1868年(明治元)年、英国のロンドンであり、この時の装置は,緑色・赤色の2色の灯器で,光源としてはガスを使用していたそうである。
又、電気を利用した世界初の「電気式信号機」は,1918(大正7)年に、米国のニューヨーク市5番街に設置された。この時、黄色は「進め」、赤が「止まれ」、緑が「右左折可」であったという。
日本で初めて設置された「電気式信号機」は、1930(昭和5)年に、東京の日比谷交差点に設置されたもので、米国からの輸入だったそうだ。ただし、緑黄赤の表示は現在と少し違い、緑色の最後に黄色を同時に点灯していたようだ。しかし、今と違って、 「黄色が進め」だったとはね~。
そして、この年の12月に,国産第1号の自動交通信号機が,京都駅前ほか2か所に設置されたそうである。
しかし、今日の記念日に書いてあることと、神奈川県警などが書いてあることに少し差異がある。両者の書いている「日本初の三色信号機」と言うものが、違った種類のものなのであろうか??。設置された、年月日や場所がちょっと違っているが・・・?。どちらが正しいのかは私には判断がつかない。私は、一応敬意を表して、県警HPに書いてあることを信用することとする。
これ以降、学童が安全に横断できるよう、1934年に、東京都内の国道15号梅屋敷、六郷町交差点に、押ボタン式信号機が初めて設置されたそうだ。
これらの信号機が設置されて以来、現在の青信号は法令上「緑信号」と呼ばれていたそうだが、新聞紙上や一般の間では「青信号」との呼び名が定着していたため、1947年に法令上も「緑信号から青信号へ」と呼ぶようになったという。その後、目の不自由な人が安全に横断歩道を渡れるように「音響式信号機」が設置 されたり、1990年、京都府で視覚障害者、身体障害者、高齢者等用に、ボタンを押すか、ペンダント型又はカード型の発信機からの電波により、青時間を通常より長くし、横断者の安全を確保する高齢者等用「感応型信号機」が初めて設置されるなど、信号機も、改善、進歩をしてきている。以下、参考の「ようこそ交通信号機のページへ」では、信号機の豆知識や変わった信号機、不思議な信号機など、さまざまな交通信号機を紹介しており、信号機のことなら何でもわかるよ。
そういえば、最近「光のつぶがたくさんある信号灯」を見かけることが多くなったと思いませんか?従来の信号機より、どの色も見やすいと思うのだが、これは、それまでの電球とレンズを使ったものとは違い、発光ダイオードのつぶを使っているものだそうだ。 ただ、健常者には見やすいと思う信号機も弱視者には見難いこともあるようだ。LEDは、日光が強く当たったときに反射する疑似点灯が起きないため視認性が高く、また、電球式に比べ消費電力が少ないため、環境にもやさしい信号機だといわれており、歩行者用信号機をLED(発光ダイオード)式の新型(人形型)に順次取り替えているところがあるが、従来の電球式の信号機は、四角い部分全体が光っていたが、新型では人形の部分しか光らなくなるため、弱視者にはかえって見づらく危険になるおそれもあることがわかったという。いろいろ、難しい問題があるのだよね~。
横道にそれるが、発光ダイオードと言えば、日亜化学とそこの元社員中村修二氏 が青色発光ダイオード(LED)の発明対価の問題で争っていたことが思い出されるね~・・・。ところで、この信号機、場所によっては赤色の信号が長かったり、押しボタンを押してもなかなか青にならず、イライラしたことがあるのでは・・・。
この信号機は、一日中、赤、青、黄のサイクルをそれぞれ同じ時間、点灯させているわけではなく、周辺の交通量を計算して反応するよう仕組まれているんだよね~。だから、いくら押しボタンを押しても、すぐ青に、というわけにはいかないんだよね。信号機って実に頭のいいハイテク器機なんだよ。ただ、むやみやたらと信号機を多く付けるわけにも行かない。東京都の「交通安全に関する世論調査」で車に乗っていて、交通事故の不安があると思うことでは、「急に自転車や歩行者が横道から飛び出してきた」が62%でトップであるのに対し、「自分自身がスピードを出しすぎた」は8%と最低となっている。反面、歩行中や自転車利用中の人で、交通事故の不安が「ある」は69%あり、不安を感じた場面は、「歩行者や自転車のすぐ横を車がスピードをゆるめずに走り抜けた」が63%でトップとなっている。
歩行者も横道からの飛び出しに気をつけなければならないが、車を運転している人は、街中ではスピード制限を守って欲しいものだね~。
(画像は、歩行者用信号灯器のLED(発光ダイオード)左と電球式右。以下、参考の神奈川県警HPのものを借用)
参考:
神奈川県警/交通管制ニュース 第6号「交通信号機の誕生と歴史 」
http://www.police.pref.kanagawa.jp/mes/mesf3news006.htm
「交通安全に関する世論調査」の調査結果について
http://www.metro.tokyo.jp/INET/CHOUSA/2000/03/60A3V200.HTM
弱視者の立場から見た交通・バリアフリーと望ましい案内表示
http://homepage3.nifty.com/kytjakumon/index.html
ようこそ交通信号機のページへ

俳句の日

2005-08-19 | 記念日
今日(8月19日)は、「俳句の日」
正岡子規研究家の坪内稔典氏らの発案で1991年(平成3年)に制定。「8」月「19」日を「は」「いく」の語呂合わせから。
『暁や白帆過ぎ行く蚊張の外 正岡子規 』
この句は、神戸の須磨寺境内にある「子規句碑」に刻まれているもの。
1934(昭和9)年9月、正岡子規33年忌に、弟子の1人、青木月斗により建立された。子規が1895(明治28)年7月22日より1か月間、現在の須磨浦公園みどりの塔付近にあった「須磨保養院」で寮養中の作。
子規は、俳句雑誌『ホトトギス』を創刊して、根岸短歌会を主催して俳句の世界に大きく貢献した。雅号の子規とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものであるという。子規は芭蕉の俳句には説明的かつ散文的な要素が多く含まれており、詩としての純粋性が欠けていることを避難している。一方子規は、それまで十分に認められていなかった蕪村の俳句を賞揚。蕪村の俳句が技法的に洗練されており、鮮明な印象を効率よく読者に伝えている点を高く評価した。子規は、文学や美術において、事物の簡潔な描写が表現として大きな効果を上げると確信し、「写生」の手法の重要性を説いた。短歌・俳句の改革運動を成し遂げた子規であるが、その方向性がいたずらに写実、現実密着、生活詠中心であったために、近世期以前の和歌・俳句の持っていた豊かな味わいを一方的に切り捨てる結果に終わってしまったという子規に対する批判もある。
神戸の須磨は昔から景色の良いところで知られており、芭蕉や蕪村他多くの文人達が訪れており、それら、俳人や歌人の句碑が点在している。私も若い頃に、川柳を少しやったことがあり、俳句も興味はあるんだけど、自分で作るにはちょっと敷居が高い感じ。
『こんなよい月をひとりで見て寝る  放哉』
須磨寺の句碑には、こんな、形式にとらわれない俳人・尾崎放哉(おざき・ほうさい)の句碑もある。季語や五七五の形にとらわれない自由律俳句、また放浪の俳人として知られ、明治中期から大正にかけて活躍。同時代の自由律派の俳人、種田山頭火と並び称される。放哉は須磨寺大師堂の堂守となっていたことがあり、この句はその頃に詠んだ句である。
この尾崎放哉のことについては、私も興味をもったので、4月7日のブログ「俳人・尾崎放哉忌日」でも取り上げえた。興味のある方は覗いてみてください。ここです。
又、私のHP「よーさんの我楽多部屋の」の「nostarlgia神戸」「歌・唄・詩」のページで、須磨にある句碑を紹介しているので、興味のある方は、御覧ください。ここです。
(画像は神戸の須磨寺境内にある「子規句碑」)
参考:
俳諧師・小林一茶(こばやし いっさ)1763(宝暦13年 )~1827(文政10)年の忌日。(私のブログです)
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/72a617d8c82f226b03d150a54778b12e
正岡子規(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F
インターネット俳句センター
http://www.suien.net/haiku/bbs/bbs3.htm
松山市/子規記念博物館
http://www.city.matsuyama.ehime.jp/sikihaku/
俳句の歴史
http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jhisinx.shtml


高校野球記念日

2005-08-18 | 記念日
今日(8月18日)は「高校野球記念日」。
1915(大正4)年、大阪の豊中球場で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。
現代、日本ではサッカー他、色んなスポーツが普及しているが、大衆スポーツの中では、今でも、野球が一番普及しているのでははないだろうか。中でも、地域対抗である、全国高等学校野球選手権大会の人気は衰えていない。この高等学校野球が全国的な規模で行われたのが、1915(大正4)年の今日(8月18日)であり、、大阪・豊中球場での、朝日新聞社主催の第1回全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)が始まりである。
全国73校から地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、延長13回の熱戦の末、2対1で京都二中が優勝した。優勝した同チームには大辞典と50円の図書券、選手たちに腕時計が贈られたそうだ。
この豊中球場(当時は豊中運動場と読んでいたようである)は、1913(大正2)年、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)が、豊中市玉井町3丁目一帯約140メートル四方、1万9600平方メートルに、乗客誘致の一つとして建設したもので、豊中運動場では様々な催物が開催されていたようである。その利用策として、その当時、中等学校野球が著しく普及していた為、箕面有馬電気軌道の経営担当者がそれに目をつけ豊中運動場の利用策として、大阪周辺の中等学校野球の大会を開催する案を大阪朝日新聞社に提案したそうだ。他にも近畿連合野球大会などからも要望があり、これらを受けて、大阪朝日新聞社で検討を重ねた結果、全国的な大会として全国中等学校優勝野球大会を開催することになった。このときの旅費は朝日新聞社が負担したそうだ。
豊中運動場には固定式のバックネット、木製のスタンドがあり、球場の外側は赤煉瓦で囲まれて、当時としては最高の施設だったようだ。大会期間中は、天幕やヨシズ張りの観覧席、別に応援団席などがあったという。
この第1回大会は、8月18日から23日まで、全国から10校が参加して開かれ、1日5,000人の観客で賑わったという。有馬箕面電気軌道は全国中等学校優勝野球大会にあわせて大会観覧電車を増発させたほか、特製切符や割引の全線回遊券を発売するなどサービスに努め観客増加をはかった。また、第1日目の試合終了後に大会参加選手一同を宝塚パラダイスに招待して慰労会を催したりもしたという。
全国中等学校優勝野球大会は第2回大会もここで実施され、1916(大正5)年8月16日から20日まで12校が参加して行われた(全参加校115校)。
しかし、野球熱が高まる一方で、参加校を増やすには、ファンを球場へ運ぶ有馬箕面電気軌道の輸送上の問題などもあり、第3回大会からは西宮・鳴尾球場に移されることとなった。
既に、総合運動場の体裁を整えていた鳴尾運動場にある、競馬場内に鳴尾球場が設けられたのも1916(大正5)年のことである。阪神電気鉄道側は恒久的な事業を行いたいと考え、大阪朝日新聞社に話をもちかけた。参加校を増やしたかった同社が、会場の倍増を望んでおり、阪神電気鉄道側に野球場の併設を希望したところ、阪神電気鉄道はさっそく鳴尾競馬場に野球場を2つ建設することとなった。こうして鳴尾球場は、1917(大正6)年から全国中等学校優勝野球大会の会場となった。全国中等学校優勝野球大会は2つのグラウンドで行われていたが、一方に人気チームが出場するとそちらに観客が集まり移動式のスタンドをかついで移る光景もみられたという。(当時木造の移動式スタンドが使われていたらしい)しかし、野球熱が益々高まるにつれて、鳴尾球場のスタンドでも観客を収容しきれない状態となり、朝日新聞社はより大きな野球場の建設を希望した。一方、阪神電気鉄道も武庫川改修地に甲子園球場を建設することとなり、1924(大正13)年、第10回からは同大会をそちらで開催するようになり、学制改革により1948(昭和23)年から全国高校野球選手権大会となった。今年も、第87回大会が8月6日 より甲子園で行われている(期間は15日間)。キャッチフレーズは「君に見せたい夏がある」。
兵庫県人にとって、甲子園は、地元でもあり、全国高校野球選手権大会への関心も高いが、今年の兵庫県代表は、姫路工業である。
その姫路工業は初戦で敗退。プロ野球と違って、高校野球だけは、地元のチームが負けてしまうと興ざめで、後は見たくないのは私だけかな~?
今までの兵庫は強かったので、毎回大体は8強位までは残る。だから、盆の時期は何時も高校野球で熱くなっていたのだが、今年は、熱くなれなかったのが残念。
(画像は、豊中市・豊中球場跡に建つメモリアルパークの「ブロンズレリーフ」。当時の朝日新聞社村山龍平社長の始球式姿。以下参考の「豊中球場跡地」を参照ください。大きな画像が見れます。)
参考:
(財)日本高等学校野球連盟の歩み
http://www.jhbf.or.jp/renmei1.htm
全国高校野球選手権大会歴代優勝校
http://www1.odn.ne.jp/haru/data-result/hbb-senshuken_v.html
豊中球場跡地
http://www.d7.dion.ne.jp/~xmot/shasinkan5.htm
野球場誌
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/7539/yakyujosi/yakyujositop.htm

「蕃山忌」、陽明学者・熊澤蕃山の忌日

2005-08-17 | 人物
今日(8月17日)は「蕃山忌」。陽明学者・熊澤蕃山(ばんざん)の1691(元禄4)年の忌日である。ところで、皆さんは、熊澤蕃山のことはよく知っているかな・・・?
正直なところ、私も陽明学者の一人として名前だけは知っていたが、それ以上のことは余り知らなかったので、いろいろ調べてみて、わかったことを書いてみよう。
熊澤蕃山は、1619(元和5)年京都で生まれ、名を伯継、字を了介といった。本姓は野尻、幼い頃に外祖父熊沢家の養子となった。
中江藤樹(なかえとうじゅ)から陽明学を学び、16歳で、備前藩池田光政の児小姓として仕え、一旦辞めるも、27歳から藩主光政の側近として再び仕える。そして、数々の藩政改革に着手し30歳を過ぎたばかりで、三千石の家老に次ぐ地位である番頭(バンガシラ)となる。
蕃山の藩時代には、特に治水対策や河川改修などの偉業が見られるが、10数年間、彼は新田開発を殆ど手掛けなかったという。それは後に書いた『集義外書』にもあるように、”治水のもとは治山にある、治山こそが国を富ます道であり、山々の樹木が繁茂すれば洪水を防ぎ、かつ川に土砂が堆積するのを防ぐ”というのである。また”下流に新田を開発して水を引こうとするから、古地を荒廃させる、新田の多いのは国のために良くない”と主張し、新田開発策に反対の立場をとったという。しかし、彼が新田開発に反対したのは、自然破壊だけではなく、藩の財政を潤すために、民衆を困窮させてはならない、目先の経済的利益に目を奪われて、民衆の生活・生命が損なわれてはならないということを強調したのだそうであり、彼は新田を開発するかわりに、貯水池や治水事業に力を入れて、民衆の犠牲を最小限にして従来の田畑の生産力の向上に努めたというのだ。その上で、さらに武士の家禄を減らし、年貢の取り立てをゆるくすることまでしているという。蕃山の手掛けた工事は、いずれもその場しのぎの安直な工事はひとつももなく、百年後、二百年後を見据えた永久的な造りであったという。同時に、その労務管理においても、公役の人夫として集めた百姓の負担と疲労を最小限に抑えるべくきめこまかい配慮を示していたといわれている。
こうした一連の政策によって、蕃山の経世家(政治家)としての名声は全国にとどろいたといわれる。しかし、保守勢力との権力闘争に敗れ39歳で役職を退きその後は、蕃山(しげやま)村(備前市蕃山)に移り住み、本を読み修養する日々を過ごした。蕃山の名は、この蕃山村に隠退したことから付けたものだそうである。
晩年、著書『大学或問』で参勤交代や兵農分離策などを批判したため幕府の命によって古河藩にお預けとなり古河城東南隅の竜崎頼政廓に幽閉され数年後の1961(元禄4)年8月17日、73歳で没したという。
日本で最初に「エコロジー」という言葉を使った生物学者にあの有名な南方熊楠がいるが、彼の前に、森林を守れと叫んだエコロジーの先覚者がいたのである。それが熊澤蕃山だったのだ。
江戸時代に出版された「学者角力勝負付評判記」というものに、当時の学者の人気番付が書いてあるそうで、それによると、番付の最高位(大関)は、東に熊澤蕃山、西に新井白石となっているのだとか。ちなみに、東の関脇は荻生徂徠、西の関脇は伊藤仁斎、中江藤樹が前頭に位置しているという。なんと、師である中江藤樹より上にランクされているのだ。
熊澤蕃山と新井白石の二人の勝負について、勝海舟は「勝舟談話」で「蕃山は奥底の知れぬものがある。どうも新井白石よりは上だよ」と書いているという。江戸時代を通じて、庶民にも武士にも、もっとも人気の高かった学者が熊澤蕃山らしい。しかし、熊澤蕃山は、あの有名な南方熊楠より前の、江戸時代の初期から、山林の保全の必要性を説き、実践した「わが国で最初に乱開発による国土の荒廃を指摘した学者」だったのだね~。
今回は、難しい「陽明学」のことには、触れなかったが、「陽明学」って、皆さんも、学校で習ったとは思うが、朱子による性善説の解釈と、陸象山の性善説の解釈の違いから起ったもので、王陽明が陸象山の考え(「心即理」「知行合一」「致良知」などの説)を引き継ぎ発展させたものであるが、朱子学の普遍的秩序志向は体制を形作る治世者に好まれたが、陽明学には個人道徳の問題に偏重する傾向があり、王陽明の意図に反して反体制的な理論が生まれたため、体制を反発する者が好む場合が多かった。熊澤蕃山も最後は、幕政批判のかどで幕府に睨まれることとなった。しかし、偉い人だったのだね~。今の時代、このような偉大な政治家は何時出現するのだろうね~。
(画像は「集義外書」巻一」備前玉手箱 (備前市ホームページ)より借用)
参考:
陽明学
http://www.tabiken.com/history/doc/S/S308R100.HTM
陽明学入門 
http://home.owari.ne.jp/~fukuzawa/youmei.htm
『 ひなたの~陽明学の旅~ 』
http://www.yomeigaku.com/archives/cat_1374528.html
熊沢蕃山
http://ss7.inet-osaka.or.jp/~agorisy/banzan.html
備前玉手箱 (備前市ホームページ)
http://www.city.bizen.okayama.jp/bizen/kouminkan/center/e_bizen/html/uno06.html