今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

「旅の日」松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅へ旅立った日

2006-05-16 | 記念日
今日(5月16日)は「旅の日」
日本旅のペンクラブが1988(昭和63)年に制定。せわしない現代生活の中で、ともすれば忘れがちな「旅の心」を大切にし、旅のあり方を考え直す日だそうだ。1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)は、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅へ旅立った日である。
近世期を通じて、各層の人々に広く愛されている文芸に俳諧がある。松尾芭蕉は貞享から元禄にかけての約10年間、蕉風と呼ばれる独自の作風を示して、当時の新興文芸である俳諧に高い文芸性をもたらした。芭蕉は1644(正保元)年、伊賀上野(三重県上野市)に農民の子として生まれたようだ。芭蕉は、伊賀で京都の古風な貞門俳諧の影響下にあったが、1672(寛文12)年、発句合(ほっくあわせ)『貝おひぬ』をまとめ、それを携えて江戸に下り、その地で出版した。芭蕉独自の蕉風俳諧は、1684(貞享元)年の旅と、旅先の名古屋で成った連句集『冬の日』によって、確立したとされている。その旅の記は冒頭に、「野ざらしを心に風のしむ身かな」の句を揚げるところから『野ざらし紀行』と呼ばれる。翌年4月末に芭蕉は江戸に帰ったが、蕉風開眼の句として知られる「古池や蛙とびこむ水の音」が作られたのは、その翌年の1686(貞享3)年のことである。さらに芭蕉は、貞享4年から5年にかけて、10ヶ月に及ぶ『笈の小文(おいのこぶみ)』『更級紀行』の旅などによって心境を深め、蕉風俳諧は次第に完成の域に近づいた。『笈の小文』冒頭の、「旅人とわが名呼ばれん初しぐれ」の一句によっても『野ざらし紀行』の場合と、旅に向かう態度が大きく異なっていることがわかる。1689(元禄2)年3月27日(新暦5月16日)、46歳の芭蕉は、江戸をたち、東北・北陸をめぐる旅に出た。芭蕉は旅に出ることによって古人や歴史と深く交わり、旅の記によって、理想的な風雅の世界を描いた。8月下旬、大垣に着くまでの約5ヶ月の旅の記が、後にまとめられた、『おくのほそ道』である。それは、人生は旅であり、又、旅は人生であるとの言葉に始まり辺境な土地にまで風雅を追い求めるその態度や、発句と散文とが、時に照応し、時に一体となる出来栄えによって、蕉風俳諧の一つの到達点を示すものとされている。
「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」、「五月雨を集めて早し最上川」、「荒海や佐渡に横たふ天の川」など、よく知られている名句が収められているのも『おくのほそ道』である。その旅の後、芭蕉は暫く近畿の地にあって、1691(元禄4)年には、蕉風俳諧のいま1つの達成と見られる『猿蓑』を、門弟の去来(きょらい)・凡兆(ぼんちょう)に編纂させて刊行した。その書名は巻頭の芭蕉の句「初しぐれ猿も小蓑をほしげなり」によるものである。1691(元禄4)年冬、江戸に帰った芭蕉は、しばらく江戸にあったその間、新しく「かるみ」の風潮を工夫する。最晩年に江戸でまとめられた蕉門の選集『炭俵』は「かるみ」をよくあらわしているものだとされている。「梅が香につと日の出る山路かな」は、その巻頭の歌仙連句の発句である。1694(元禄7)年夏、江戸を立った芭蕉は、途中、故郷で月見の会を催したりしたが、その後、大坂に出て、病の床につく。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して、12月12日にこの世を去った。『奥のほそみ道』は、紀行文であるが、旅の実際を忠実に記録したものではない。それは、曽良の「随行日記」によって、事実と作品の違いが指摘されているが、それは、『おくのほそ道』が、旅を素材にして、理想の世界をつくりあげた文学的作品であり、表現効果の為に虚構が用いられているものと言われている。
文人墨客の旅といえば、松尾芭蕉の「おくのほそ道」などを思い浮かべる人が多いが、芭蕉ばかりではなく、遥か昔から風雅を愛する人たちの間では、古跡を尋ね、由緒ある古寺を訪れては古(いにしえ)を偲ぶ旅がされていた。その例としては、平安末期の旅人西行法師があり、戦国時代の連歌師・紫屋軒宗長(さいおくけんそうちょう)もその1人である。宗長は、連歌を全国に広めたことで知られる。
文人のような自分を究めるための高尚な文学のための旅ではなくても、知らない土地に行き、その地の古跡や由緒ある古寺を訪ね古を偲ぶことは、楽しくもあり意義のあることである。しかし、そのような難しいことは別としても、東京には、大きな建物が建っていること、大勢の人がひしめき合って仕事をし、生活をしていること、若い人が多くいること、電車に乗って座っている人は眠っている人が多いこと、また、京都に行き、街の区画がスッキリして判りやすいこと、夏暑く冬寒いこと、蝉の声がうるさいこと、大阪は食べ物屋が多くて安いこと、電車に乗るのも信号待ちも余りルールを守らないこと、非常にせわしなく歩くこと、名古屋へ行けば、ギャルが多いこと、風俗店が多いこと、長崎へいってタクシーに乗るといくら車が込んでいても運転手がブーブー言わせないこと(観光都市で仕方ないことを認めている)などなど、その土地の知らないことを知り、又、知っていてもそれを見聞きするだけでなく実際に体感することによって、本当にその土地のことがよく理解できる。テレビや本で見たことのある観光名所も自分が実際に旅行をし自分の目で見た所であれば、テレビや本などの情報だけで知っているところが、以外に、それより悪かったり又、逆に良いことがわかり、テレビや本の情報にも関心が深くなる。知らない土地の風景・風俗・習慣・産物・人などを知ることは、本当に人の心を豊かにする。
先日北陸に家人と二人で小旅行をした。初日金沢に宿泊したが、「奥の細道」の旅で芭蕉は、日本海沿いに南下し、越後、越中を経て金沢に入ったのは、7月15日(陽暦8月29日)であった。芭蕉と曾良は、金沢城下北の玄関口、浅野川のほとりで宿(京屋吉兵衛方)をとり、金沢に10日間滞在している。そして、私達も歩いた金沢を代表する犀川の大橋南詰めの近くには、「あかあかと日はつれなくも秋の風」の芭蕉句碑が立っている。この一句には、目にはさやかに見えないけれども、かすかに忍び寄ってくる秋を感じ、その季節の変わり目を描いており、背後には、「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる」『古今集』(藤原敏行)があるのだとか。そして、私達は次の日山中温泉に止まり、小松にある那谷寺へ観光に行ったが、芭蕉も又、山中温泉・和泉屋に7月27から8日間宿泊。那谷寺にも来ている。この寺は、西国三十三ヵ所の別格、巨大な岩の上に建てられたお寺として有名。『おくのほそ道』には、このお寺は、花山法皇が三十三カ所の観音堂の巡礼をすまされたのちに、ここに観音像を安置したこと、那谷の名前の由来は、那智、谷汲の二字をわかち合わせたものだということ。そして、「奇石さまざまに、古松植ならべて、萱ぶきの小堂、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也」と記している。境内には、ここで詠んだ芭蕉の句碑「 石山の石より白し秋の風 」が立っているが、これは、「那谷」の秋は、ここ白山の白い石よりもっと澄明な秋だ。風水から、秋の色彩は白と決まっている。 ・・・といった意味があるそうだ。北陸の地には他にも多くの芭蕉の句碑があるが、これ以上は書くのはよそう。・・・旅に出かける前に、又、旅先の観光案内所などで貰ったパンフレットなどにより、ほんの少しでも予備知識を持てば、旅の楽しみ方は、数段良くなる。多くの方がこの、ゴールデンウイークには、有意義な旅を楽しまれたことでしょうね。
(画像は、那谷寺の芭蕉句碑)
参考:
日本旅のペンクラブ
http://www.tabipen.com/
芭蕉のふるさと伊賀上野「芭蕉翁記念館」
http://www.ict.ne.jp/~basho-bp/
芭蕉庵ドットコム(学校教育教材・生涯学習教材提供サイト)
http://www.bashouan.com/index.htm
芭蕉db・芭蕉総合年表
http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/index.htm
奥の細道 芭蕉と金沢(教育用画像素材集)
http://www.spacelan.ne.jp/~daiman/data/zatugaku11.htm
芭蕉ゆかりの地を訪ねて(金沢)
http://www.cute.to/~tokusabu/basyou02.htm
松岡正剛の千夜千冊『おくのほそ道』 松尾芭蕉
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0991.html

ストッキングの日

2006-05-15 | 記念日
今日(5月15日)は「ストッキングの日」
1940(昭和15)年5月15日、アメリカのデュポン社がナイロン・ストッキングを全米で発売した。それまでストッキングは絹製が主力で、アメリカのストッキング市場は、日本の絹製のもので独占されていた。
米国の化学会社デュポンはハーバード大学のウォーレス・カロザースをスカウトして来て新繊維の研究を進め、1935年、石炭、水、空気から世界で最初の合成繊維「ナイロン」の開発に成功した。商品化のメドが立った1938年に発表した時のキャッチフレーズは「石炭と水と空気から出来ていて、鉄のように強くクモの糸のように細い」であった。「ナイロン」の語源は「ノーラン(伝線しない)」からだそうだ。当初は歯ブラシなどを商品化していたが、1940年5月15日、後にN-DAYと記録されるこの日、全米でナイロンストッキングが発売されセンセーションを巻き起こした。しかし、1941年には日本との戦争に突入したため、このナイロンストッキングは贅沢品とされ、生産は半減する。ナイロンが軍事目的、パラシュート素材として使われたためであった。そして、1945年、戦争の終結とともに、この女性の夢ともいえる素肌に近く、美しく、しかも絹に比べて格段に強いストッキングが絹の靴下に取って代わることとなる。以降、ストッキングは、ナイロン製のものに王座を明け渡し今日に至っている。
ストッキングとは、つま先から太ももまでぴったりとおおう長い靴下のことをいう。特に、女性用の肌の色が透けるくらい薄手のナイロンなどの長靴下のことをいう場合が多い。靴下のルーツを辿ると、原始人たちは、捕獲した動物の毛皮を衣服にしていたが、その毛皮を細く切り足に巻いて保護するようになったのが始まりのようである。靴下(爪先から脚部を覆う編み物)の技術がいつごろ、どこで発祥したもかなどその歴史はよくわからないが、1本の糸と1本のかぎ針があれば編目が作れることから、その起源は相当古いようであり、紀元前に作られたと思われる編物の一部が発見されているそうだ。以下参考の「Socks$PSBrands/NAIGAI」によると、エジプトのアンチーノの町から多くの織物や衣類と一緒に見つかった靴下や、墳墓から発見された靴下は、編目を増やしたり減らしたりした、完全な編物で作られた指付きの子供用の靴下で、4世紀から5世紀の物とみられ、これらの靴下は、レスター美術博物館、ロンドンのビクトリア・アルバート博物館に所蔵されているという。 又、靴下の発展は防寒衣料としての必要性のほか、聖職につく人が足を不浄な大地に付けないために着用し、布教とともに広がっていったとも伝えられていたそうだ。そして、手編みが広く普及していたことは、1395年頃の宗教画の中に、4本の木の針で聖なる子供の上着を編んでいる聖母マリヤが描かれいることからも明らかであるという。すでに、16世紀頃からアングロサクソン語のstock(木の枝)を語源とし、木の編み棒で編んだ靴下をストッキングと呼んでいたようで、その頃は男性用のものだった。それが、17世紀になって英国女王エリザベスⅠ世が絹のストッキングをはいてから女性がはくようになったそうだ。
編機は手編みメリヤスが栄えていたエリザベス女王時代の1589年、イギリスの牧師、ウイリアム・リー(Willam Lee.1563~1610)によって発明された。
ウイリアム・リーは、エリザベス女王に特許を申請したが許可されず、パリに渡りさらに研究を続けたが、イギリス、フランスからはともに賛意を得られず、1610年失意の内に生涯を終えたが、編機と技術は、弟ジェームスと徒弟らに継がれ、イギリスで製造が始められ、順次ヨーロッパ各国に普及していった。 その後、アーサー・パケット(英)、リューク・バートン(英)等によって、手動横編機の機械化がなされた後、1863年 、アイザック・ウィリアム・ラム(米)によって、今までのものの改良がなされたニット産業の新しい時代を切り開く画期的な横編機が開発される。そして、1864年、 ウィリアム・コットン(英)によって、編成作動中に生地を成型するための、「目減らし」と「目増やし」の出来るフルファッション編機を発明。彼の編機は「コットン機」の呼び名で現在まで伝えられている。
1900年代初頭まで、当時の洋服の流行は重たく高価なヴィクトリア朝風ベルベットあるいは錦であった。ところが、第1次世界大戦(1914年~1918年)後、フランスのデザイナー、ココ=シャネルが洋服デザインに革命を起こした。その結果、細身で可愛らしい姿が流行したことから、1920年代にはアメリカでも上質の軽い絹製ドレスや下着が流行した。それまで、西洋ファッションは、胸腰尻を強調したが、脚線美だけは追及することがなかった。これは、当時まだ、野暮ったいストッキングしか手にはいらなかったからだそうである。この状況は編機の発達により、脚にスムーズにフィットする絹製ストッキングの生産が開始され、アメリカ人女性は当時1足2ドルのストッキング(現在の40ドル相当)を購入するようになった。その後、1930年の大恐慌等により、絹製のストッキングの需要は落ち込んだが、ハリウッドが映画のなかで絹製ストッキングにロマンチックな役割を与えるようになると、絹製ストッキング人気は又回復。これが、1940代に入って、ナイロンストッキングがアメリカで発売され、この女性の夢ともいえる素肌に近く、美しく、しかも絹に比べて格段に強いストッキングが絹の靴下に取って代わることとなる。そのため、アメリカでの絹靴下製造のための絹の輸出大国でもあった日本が受けた衝撃は大きかった。ナイロンの特許が公示されるやいなや、商社はその写しや見本の糸を日本に送った。そして、大学や紡績会社の研究室で、小数点以下何㍉グラムという糸くずの分析が行われた。
ナイロンは本来、デュポン社の商品名だが、現在ではポリアミド系繊維の総称として定着している。種類としては、ナイロン6、ナイロン6,6、ナイロン46、ナイロンMXD6(数字は、合成原料の炭素原子の数にちなむ)などがある。デュポン社のカロザースが合成したナイロンの種類は、6,6である。それに対して、日本では、デュポン社からの技術導入により東洋レーヨン(現在の東レ)が1941年(昭和16)にナイロン6の紡糸に成功。そして戦後の1951(昭和26)年には、ナイロンの生産を始め、翌1952(昭和27)年には郡是製糸(現グンゼ)がナイロン製ストッキングを発売した。当時絹のストッキングの生産も再開されていたが、ナイロンを使用したフルファッションストッキング(Full-Fashioned Stockings)の生産が主流となる。フルファッションストッキングとは、「体の形にぴったりあうように編まれたストッキング」。普通は、ナイロン100%の編み地を脚に後ろで縫い合わせたストッキングのことを言い、特徴は後ろに一直線に伸びた縫い目、シームがあることである。これがあることで脚を細く見せるという視覚的な効果もあったようだ。この当時は、ナイロンストッキングは輸入されてもいたが、1足1,000円という庶民にとっては高嶺の花。しかも、うたい文句では絹より細く強いはずが、よく伝線してしまうため、街には多くの伝線直し屋が生まれた。料金は1本につき5円だった。また、トリコット編地を縫製して作ったナイロンストッキングも商品化された。フルファッションに比べて、生地はやや厚いが伝線しないという特徴があり、さらに丈夫で安いこともあって、全盛期にはフルファッションの何倍も出回った。しかし、この当時の後ろに線のある靴下の常識に挑戦したのが厚木編織(現アツギ)であった。流行ってみるとシームレスの方が、シームをまっすぐに履く面倒がなくて楽なので、それ以後ストッキングは縫目が無いのが当たり前になり、トリコット編地のものやフルファッションは、1963(昭和38)年頃から姿を消した。
その後、マリークァントが1959(昭和34)年に発表し、アンドレ・クレージュが1965(昭和40)年のコレクションで採用したミニスカートは、イギリスのモデル、ツイッギーがはいて一世を風靡した。このころから、従来のストッキングの需要が減少し始め、1965(昭和40)年アツギの販売したパンティーストッキングにその座をゆずることとなる。このヒザ上20センチ、30センチというミニスカートでは、従来のガードルとストッキングの組み合わせによってできる隙間(スキンギャップ)を覆うことができない。そこでストッキングの延長上にパンティーを付けた形のパンティーストッキングが考案されたのである。下半身の露出感を弱め、「何か」はいているという安定感を与えるこの新発明は、女性たちに、スカートの丈を短くしても決して肌が見えないという保険として急速に受け入れられ、パンストの普及がミニスカートの流行に拍車をかけるという、なんだかとても矛盾した関係式ができあがった。
しかし、ストッキングと言うものは、モンローの作品「バス停留所」(1956)や「ナイアガラ」((1953)にも、モンローのコケティッシュな魅力を引き出すアイテムとして登場しているように、映画などだけではなく、実際に、女性の魅力と深いかかわりがあるようだね~。ストッキングの魅力は女性の脚を非常に美しく見せる。それは、ナイロンの透明感だろう。ストッキングの厚さは普通「デニール」という単位で表されるが、デニールが大きくなると糸は太くなる。、ナイロンの場合、1グラムのナイロンを均一に9000 メートルの長さに引き伸ばしたときの太さが1デニールである。ちなみに平均的な日本人の髪の毛の太さは50~60 デニールほど。今のストッキングは、超薄手タイプの7デニールから厚地の70デニール 以上のものまであるらしいが、通常のものは、15デニールから20デニールくらいのものである。だから、このクラスでも、ナイロンの糸の太さは、髪の毛の1/3から1/4の太さである。私は、昭和30年代後半から40年代前半、仕事で女性のストッキングにも関係していたが、当時国内のシームレスストッキングでは、断トツにアツギのシェアーが高った。知名度もさることながら、色がきれいであった。アツギのメーカーに聞いたが、当時非常に多くのカラーストッキングを生産していたが、他のメーカーとの特色は、そのどの色にも肌色が入っているのだといっていた。そのため、ピンクでもブルーでもどんな色の靴下でも、女性の肌に合い、違和感がないよう工夫されているのだといっていた。実際に、ストキングは、女性の足を美しく見せるが、パンストは、撚糸を使っているためやはり、普通のプレーンなストッキングよりも美しさには劣る。また、男性から見ると、どうも、パンスト、にはいいイメージが湧かない。やはり、昔ながらのガーターで留めるプレーンなストッキングが美しいし、セクシーである・・・・なんて、思うのだが・・・・。
(画像は、アツギのストッキング。)
参考:
ナイロン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%AD%E3%83%B3
Socks$PSBrands/NAIGAI
http://www.naigai.co.jp/03brands/03/index.shtml
ストッキングの歴史 (NAIGAI website)
http://www.naigai.co.jp/05mos/items/07/index.shtml
ストッキング辞典:ストッキングFAQ
http://www.atsugi.co.jp/styleupcafe/dictionary/faq.html
【アツギ】HP
http://www.atsugi.co.jp/
ATSUGI:ストッキング便利帳
http://210.189.83.134/benri.htm
デュポン株式会社
http://www2.dupont.com/ja_JP/index.html
日米経済摩擦の歴史的考察(1881年ー1941年)/エドワード S. ミラー(歴史家)
http://www.okazaki-inst.jp/alliance-pro-jap/miller.jap.html

種痘記念日

2006-05-14 | 記念日
今日(5月14日)は、「種痘記念日」
1796(寛政7)年、イギリスの外科医エドワード・ジェンナー(Edward Jenner )が初めて種痘の接種に成功した日。
天然痘(てんねんとう)は、天然痘ウイルスを病原体とする感染症の一つ。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。発症すると、高熱を発して、引き続いて、全身に化膿性の発疹ができるため、運良く治った人もあばた面になった。古くから定期的な大流行を起し、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきた代表的な感染症であるが、当時、一度天然痘にかかった人は、二度とこの病気にならないことが知られていたそうだ。そして、民間療法として症状の軽い天然痘患者の膿疱(のうほう)から採取した膿汁を健康な人に接種して予防、つまり、擬似的に一度天然痘にさせてしまうといった方法もとられていたという。このやり方は、既に古代中国で行われていたもので、いつしかヨーロッパにも伝わったものだったそうだが、この療法は安全確実な予防方法ではなく、逆に天然痘に感染・発病して、死亡する人も多かったようだ。
ある時、ジェンナーは、農家の乳絞りの女性から、牛痘(つまり牛の天然痘)にかかると天然痘には罹からないという古くからの伝承を聞き研究をした。
そして、牛痘にかかった乳絞りの女性サラ・ネルムズの手の水疱からとった膿を、近所に住んでいた8歳の男児フィップスの腕に接種した。10日後に発症したが6週間後に回復した。その後、少年に天然痘を接種しても天然痘にはかからなかった。この実験は、1798(寛政9)年に学会に発表したが、当時の医学会には認められなかった。は認められなかった。
しかし、ジェンナーは貧しい人たちに無料で種痘の接種を行い、次第に認められるようになった。その後、1967年に世界保健機構(WHO)のリーダーシップのもと、天然痘根絶計画を開始、ジェンナーのワクチンは改良されて世界で使用され、天然痘による死亡者は劇的に減少し、1977(昭和52)年ソマリアにおける患者発生を最後に地球上から天然痘は消え去り、その後2年間の監視期間を経て、1980(昭和55)年5月には、世界保健機構は、天然痘の世界根絶宣言を行った。
日本への天然痘は、ヨーロッパよりもかなり早く、仏教伝来の頃には大陸から伝わり、奈良時代にはしばしば流行したようであり、史書に初めて登場するのは735(天平7)年の『続日本記』といわれている。天平年間初年には凶作のほか、地震などの天変地変が相次ぐとともに、疫病が流行したが、737(天平9)年には、諸国で痘瘡に倒れる者が多く、聖武天皇の皇后光明子の兄達である参議藤原朝臣房前(ふささき:藤原不比等次男)、参議藤原朝臣麻呂(まろ:不比等の四男)、左大臣藤原朝臣武智麻呂(たけちまろ:藤原不比等長男)、参議藤原朝臣宇合(うまかい:藤原不比等三男)の藤原四氏が次々と天然痘で亡くなっている。そして、光明皇后の勧めにより日本総国分尼寺として、法華寺が創建されたが、このお寺の正式な寺号は「法華滅罪寺」。皇太子を満一歳を前に亡くし、また天然痘で兄弟4人を次々と失った皇后の悲しみが、「滅罪寺」という名前を付けさせたのだろう。
以下参考の「お薬博物館/薬と歴史シリーズ」によると、”その後近世にいたるまで天然痘はしばしば流行を繰り返し、『日本疾病史』(富士川游)によれば天平7年(735年)から天保9年(1838年)までの1103年の間に58回もの大流行が記録されており、また和歌山県の某家に伝わる古文書によると文政11年(1828年)から明治6年(1873年)までの45年間にわたり6人もの子供たちが天然痘にかかった”とのことである。江戸時代の死亡原因の第一位は天然痘と言われ、「見目定めの病」と忌み嫌われていた。種痘は江戸後期に伝わり、明治以降は政府主導の下に実施。1946(昭和21)年には、18,000人に近い数の流行が見られたが、緊急接種などが行われて沈静化し、1956(昭和31)年以降には国内での発生は見られておらず、1976(昭和51)年以降、種痘は行われていないそうだ。 現在、天然痘ウイルスはアメリカとロシアのバイオセイフティーレベル(BSL)4の施設で厳重に保管されている。
しかし、今、テロリストたちによる生物兵器に天然痘ウイルスが使用される危険性が懸念されているという。・・・オウム事件じゃないが、もし、テロリストに都市部で天然痘ウイルスを播かれたらどうなるのだろうか?・・・・。考えただけでゾットするが、このようなことへの予防や対応措置は講じられているのだろうか・・心配である。
(画像は、「デーモンズ・アイ―冷凍庫に眠るスーパー生物兵器の恐怖」リチャード プレストン 著、真野 明裕 翻訳。)
参考:
天然痘 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%84%B6%E7%97%98
国立感染症研究所 感染症情報センター
http://idsc.nih.go.jp/disease/smallpox/index.html
痘瘡(天然痘)について /横浜市衛生研究所感染症・疫学情報課 
http://www.city.yokohama.jp/me/kenkou/eiken/infection_inf/smallpox1.htm
おくすり博物館/薬と歴史シリーズ第三弾
http://www.tpa-kitatama.jp/museum/museum_12.html
IDWR: 感染症の話 天然痘
http://idsc.nih.go.jp/idwr/kansen/k01_g3/k01_40/k01_40.html
日本医事史抄
http://www.osaka-minami-med.or.jp/ijisi/ijishi01.html

愛犬の日、FCI(国際畜犬連盟)デー

2006-05-13 | 記念日
今日(5月13日)は、「愛犬の日、FCI(国際畜犬連盟)デー」
ジャパンケンネルクラブ(JKC)が1994(平成6)年に制定。単に、「犬の日」は、11月1日で、ペットフード工業会等6団体が1987(昭和62)年に制定。犬の鳴き声「ワン(1)ワン(1)ワン(1)」の語呂合せ。犬についての知識を身につけ、犬をかわいがる日だそうだ。人との関わりの多い犬には、他にも「盲導犬の日」や「アイメイト・デー」などがある。
イヌ(犬)は、イヌ科の動物。ネコ目イヌ科イヌ属に分類される。学名は Canis lupus familiaris。イヌのDNAの組成は、オオカミとほとんど変わらないそうであり、犬のルーツは約15,000年前、家畜化された「タイリクオオカミ」 (Canis lupus) の亜種で、アジア、ヨーロッパ、米大陸の順に広がっていったとみられているようだ。広義の「イヌ」は広くイヌ科に属する動物 (イエイヌ、オオカミ、コヨーテ、ジャッカル、キツネ、タヌキ、ヤブイヌ、リカオンなど) の総称でもあるが、狭義のイヌ「イエイヌ」」(英名 Domestic Dog)は、伝統的な学名 C. familiaris (家族の-犬) に対応した呼称。「イエイヌ」は人間の手によって作り出された動物群であり、人により最も古くに家畜化されたと考えられる動物である。元来は、住居の見張り、次いで狩猟の補佐のために家畜化されたと考えられるが、現在はほとんどが愛玩用である。長い年月をかけて交配が試みられ、ダックスフント、トイ・プードル、ブルドッグなど、用途に応じたさまざまな品種が開発されてきた。19世紀に生まれたケネルクラブによって、犬種の人為的な選別が進んだが、20世紀以降に生まれた新犬種の多くは、見た目だけのために作られたものが多いという。現在、犬種については、ジャパンケネルクラブ(JKC)では、国際畜犬連盟(FCI) が公認する331犬種を公認し、そのうち180(2005年2月時点)犬種を登録して、繁殖指針とするための「犬種標準」(スタンダードとも呼ばれるもので、犬種の理想像を文章で書き表したもの)が定められているそうだ。
欧米の犬種がいつごろから日本に紹介されるようになったのかは明らかではないが、16世紀末の安土桃山時代に多くの犬種が戦国大名の権力の象徴として入手されたという記録が残されているそうだ。しかし、江戸幕府成立後の鎖国政策により、欧米の犬種が一般の人々の目にふれる機会を奪ったが、明治維新以降、猟犬や一部の愛玩犬が輸入されるようになった。しかし、当時は一部の富裕階級の趣味の対象にとどまっていた。その後、第1次世界大戦後、ジャーマン・シェパード・ドッグの軍用犬、警察犬などの活躍により犬の有用性が強く認識されるようになり、同時に日本文化を見直すという運動の一環として日本原産犬種の保存が真剣に考えられ、純粋犬種の血統を記録すべくいくつかの単犬種団体が設立されるようになった。 その後 第2次世界大戦が起こり、その終戦を迎え、戦後、家族や財産を守る番犬として、ジャーマン・シェパード・ドッグや日本犬が主に飼育されていたが、駐留軍の家族がその一員として連れてきた洋犬種も次第に日本の家庭に紹介されるようになった。
今ジャパンケンネルクラブ(JKC)は、我が国に有能な純粋犬の繁殖が定着し、人と犬との共生の時代の実現を念願し、ドッグショーの開催や会報の発行等を通じて、全国の愛犬家の人々に、さまざまな啓蒙・普及活動を行っているようだ。
最近は、高齢化や1人住まいでの生活をしている人たち又、精神的な癒しを求める人たちの増加によって、今やペットブームが起こっており、イヌはネコや他のペット動物とともに、高い注目を集めている。中でも、ことわざに「犬は人に付き猫は家に付く」とも言われるように、犬はその家の飼い主に最もなつく動物であり、かわいいものである。そして、私達が子どもの頃の戦前戦後では、飼っている犬も名もない雑種犬が主であったが、経済的に豊かな今の時代では、どこの家も殆どが雑種件ではなく血統のはっきりとした犬を飼っており、それも、日本種犬よりも洋種犬に人気があるようだ。人気犬種は時代によって変わるが、1990-2000年代に話題を呼んだ犬種としては、シベリアン・ハスキー、ゴールデン・レトリバー、ウェルシュ・コーギー、ブルテリア、ダルメシアン、チワワなどであったようである。最近人気のある犬種は部屋の中で飼える小型の洋種犬が殆どである。街でも散歩に連れて歩いているのを見ると殆ど数種の犬に限られている。ミニチュア・ダックスやミニチュア・パグなどはよく見かける。ただ、このように特定の犬種に人気が集まるいわゆるブームが起こるのは日本特有の文化であるらしい。日本人には、昔から一度誰かが火をつけると、一斉に皆がそちらの方に流れる習性があるようだね。
兎に角、癒しの為にペットを飼うのもよいが、人が犬と共生するには犬の特性を知り、ちゃんとしつけをしておかなければならないだろう。
「犬はリーダーを中心としたグループ生活をするので、犬にとって家庭が群れであり、飼い主がリーダーでなければうまく共生出来ない」と言われている。だから、犬が社会性を身に付けているかがしつけの前提で、共生のポイントという。生後2ヶ月、親元で生活するだけで子犬は社会性を身に付けるといい、生後2ヶ月以内の子犬を譲り受けたり購入しても、上下関係が身についていないため、飼い主の言うことを聞かなかったりで、しつけるのが難しくなるそうだ。又、しつけ方も,ただ怒っているばかりでもダメらしいから、正しくしつけないとね。しかし、この頃は、自分の子どもさえ十分にしつけの出来ない親が増えている。ただ、可愛い、癒されるなどといったことだけで、しつけもせず飼っていると、そのうち色々なトラブルが発生するかもしれないね~。飼う以上は、十分にしつけをしておこうよ。
余談だが、犬の日の他、日本には昔から「犬(戌)の日」がある。犬(戌)は多産でありながらお産がきわめて軽く昔から安産の守り神として愛されてきた。この犬(戌)日の由来は古く、身重の神功皇后が新羅遠征の時に帯をまいて出陣し、見事勝利をおさめたことにはじまると言われ、犬(戌)の日に帯祝いをする。 書物には、室町時代に妊娠7ヶ月に帯を巻くという記載がみらるようであり、現在のように妊娠5ヶ月でまくとは決まっていないようだ。紀子様が御懐妊したようだが、何時帯祝いをするのかな?
画像トイプードル
参考:
ジャパンケンネルクラブ
http://www.jkc.or.jp/
イヌ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%8C
わんちゃん一口知識
http://www2h.biglobe.ne.jp/~hnakamur/youknow.htm
11/1は『犬の日』 生後2ヶ月は親元で!
http://www.b-post.com/news/minami_news/20021107.html

看護の日

2006-05-12 | 記念日
今日(5月12日)は「看護の日」
厚生省(現在の厚生労働省)・日本看護協会等が1991(平成3)年に制定。
1990(平成2)年8月、文化人・学識者による「看護の日制定を願う会」が厚生大臣に要望書を提出し、12月に厚生省が5月12日を「看護の日」と定めた。そして、12日を含む週の日曜日から土曜日までが「看護週間」である。メインテーマは「看護の心をみんなの心に」。気軽に看護にふれられるよう楽しい行事が、全国各地で行われているようだ。
「ふれあい看護体験」ここ
又、1965年、ICN(国際看護師協会)は、フローレンス・ナイチンゲールの誕生日である5月12日を「国際看護師の日(International Nurses' Day)」と定めており、年毎のテーマを決め、各国看護協会が行動に移すようになったのは1971年だという。以来、看護師がどのように社会に役立っているか、一般の人々の認識を高めるために活動を行っているそうだ。毎年のテーマは、その時々の国際的な関心事や諸問題にも焦点があてられているが現在までのテーマはここでみるとわかる。
ここ
そして、今日は又、赤十字社が、1820年のナイチンゲールの誕生日に因んで制定した「ナイチンゲールデー」でもある。「ナイチンゲールデー」については、昨年このブログでも書いたので、ここで見てください。
色々理屈を言うのは簡単だけれども「看護」の問題は難しい。病院の現場における看護の諸問題も解決しないといけないことが色々あるが、今、政府は、医療費削減のために在宅看護に力を入れている。訪問看護制度では、看護師(保健師・助産師等)が家庭等を訪問し、療養の相談や手伝いをしたり、主治医の指示・連携のもとに医療的なケアなどを行う。しかし,それらのサ-ビスは必ずしも十分とはいえず、結局最後は、誰かが責任をもって介護にあたらなければならない。しかし、戦後の日本は、家族制度が崩壊し、夫婦が友働きをし、その上、少子高齢化の時代に入っている。その上、戦後の教育のせいだろう、女性の考え方も代わり、昨今では、夫の親(義理の親)は自分の親ではないとまでいうものが増えてきた。そのため、昔のように、親が病気になったからといって息子夫婦が同居し、嫁が介護にあたるということはめったにないようだというより、いずれはそのような状況になることをおそれ、夫の親のいる家には住みたがらず出て行っている人が多いようだ。しかし、息子は、仕事が忙しく実の親の面倒を見たくても仕事があり、面倒を見ることは出来ない。その上、この頃は、少子化のため一人っ子が多い。兄弟もいないため、協力して面倒を見るといったことも出来ない。隣近所の付き合いもなく、挨拶さえ交わさない隣人がいる時代である。ちょっとした、買物など簡単な手伝いさえ頼めない社会になっている。それでは、一体、誰が最後まで責任を持って病人の看病をしてくれるのだろう。このような中で、医療費、介護保険料はどんどんと高くなり、国民の負担は増えている。しかも、今日では平均寿命が延びており、私の家の近所を見渡しても、看護をする人の年齢も高齢化し、老人が老人を介護するという状況が圧倒的に多くなってきている。どちらも体力がなく病気を抱えているので、介護者が看護疲れで体調を崩し、病院通いをしているケースも珍しいことではなくなってきた。また、看護人が寝たきりであったり、障害児(者)であったりする人を介護する人は外出もままならず、ストレスで悩んでいる。
今、厚生労働省 をはじめ、色々なところで、看護の問題を検討しておられるが、どのような介護制度を作っても、費用の限界もあり、完全看護を期待するのは無理なことでである。結局は、日本人の心の問題であろう。子どもが親を大切にし、兄弟が助け合い、隣近所の地域社会が交流し、老人や弱いものをいたわり、憐れむ心がなくては、解決しないだろう。今、日本の社会は完全に病んでおり、今の日本人には、道徳心も宗教心も、哲学もない。あるのは、物質欲と自己中心主義、義務は果たさず権利ばかりを主張する。そして、苦労知らずに育ったために、少しの辛抱も我慢も耐えられずすぐに切れて荒れてしまう人がものすごく多くなった。そのことは、今世間を騒がせている事件を見れば明らかである。最近もあった、子どもが親を殺して、肉体を切り裂き、セメントにつめて埋めてしまう・・といった悪魔のような行為が、肉親に対しても平気で行われているのが現実である。このようなゆがんだ精神構造を改革し、考え方が変わり、人が本当に人を愛せるようになると自然と金銭面でも身体を使っての介護面でもボランティアで行う人たちが増えてくるだろう。所詮、介護保険制度であれ何であれ、金銭面だけをもって解決しようと思っても限界があるのは明らかである。病気などで困っている人がいるのにその人の為に買物一つもお手伝いできない関係の世の中・・・もう、単に看護の問題だけではなく、病んだ日本の社会をどのように建て直すかの時代に入っているのではないだろうか?
画像は看護
参考:
日本看護協会公式ホームページ
http://www.nurse.or.jp/
厚生労働省
http://www.mhlw.go.jp/
新たな看護のあり方に関する検討会報告書:平成15年3月24日(厚生労働省医政局看護課)
http://www.mhlw.go.jp/shingi/2003/03/s0324-16.html
看護のあり方に関する検討会(厚生労働省)
http://www.geocities.jp/kazu_hiro/nurse/kentoukai.htm
訪問看護をご存知ですか
http://www.jvnf.or.jp/homon/index.htm#houmon6