内藤丈草
狼の声そろふなり雪の暮
ハガキ
黒文字楊枝
●
「句意」
雪の夕暮れ、餌を求めて人里近くまで下りてきた狼の鳴き声が
不気味に聞こえてくる。はじめのうちはあちこちに間遠に聞こえていた鳴き声が、
しだいに間近にそろって聞こえてくるようになってきた。
(『日本古典文学全集72 近世俳句集』)
●
ニホンオオカミは、まだこの時代、
人里近くにいたんだなあ。
こわいけど、人間はまだ「自然」に囲まれて生きていたわけです。
内藤丈草
狼の声そろふなり雪の暮
ハガキ
黒文字楊枝
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「句意」
雪の夕暮れ、餌を求めて人里近くまで下りてきた狼の鳴き声が
不気味に聞こえてくる。はじめのうちはあちこちに間遠に聞こえていた鳴き声が、
しだいに間近にそろって聞こえてくるようになってきた。
(『日本古典文学全集72 近世俳句集』)
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ニホンオオカミは、まだこの時代、
人里近くにいたんだなあ。
こわいけど、人間はまだ「自然」に囲まれて生きていたわけです。
木洩れ日抄 48 どうでもいいんじゃないの?
2018.12.10
ぼくぐらいの年齢になると──つまり古稀も間近ということだが──たいていのことはもうどうでもよくなって、細かいことにいちいち文句つけるのも面倒くさくなってくる。それなのに、いまどきの若い人たちってえのは、妙に律儀で真面目で、細かいことにこだわっているように思えるのは、ぼくの錯覚だろうか。
先日も車でラジオを聞いていたら、リリコ姉さんが、「『新年あけましておめでとうございます。』っていうのは、マジ、間違いだからね。」と自信満々で断言していた。え、そうなの? って思って、どこが違うのかしらとネットで調べてみると、どうも「新年」と「明けまして」がダブっているから間違いだということらしい。いわゆる「重複表現」というやつで、「後で後悔するぞ。」とか「一番最初」とかいうヤツの類いだ。
こういうのに目くじらたてて非難する人が多いけど、重複してどこが悪いの? って思う。ほんとに嫌なとき、「絶対、絶対嫌だからね!」なんて言うけど、これも重複以外のなにものでもないけど、こういう重複は非難されない。それは強調表現だからということだろうけど、「一番最初」だって、強調表現だ。「一番始め」って言えっていっても、なんかしっくりこない。しっくりこない言葉をあえて使うこともないじゃないかって思う。
「後で後悔するぞ」については、かつて書いたことがあるから、もう書かないけど、要するに、重複したっていいのである。同じ事を別の言葉で繰り返すことが間違いだなんてことはない。「絶対、絶対」より言葉を変えているだけ余程高度な表現である。
「新年あけましておめでとうございます。」だって、「明ける」のは「新年」に決まってるから、わざわざ「新年」というのはおかしいなんて理屈はない。「あけましておめでとうございます」で十分だといえばそれまでだが、「新年」が前にあったほうが荘重な響きがあるという感じ方だってある。要するにどっちだっていいのである。
「新年」があるから、意味が伝わりにくいとか、「新年」があるためにめでたさが減るとかならともかく、正月飾りのようにゴテゴテしているだけかえってありがたみもあるとなれば、それはそれでいいわけで、「絶対に間違いだからね!」なんて言ってみても始まらないし、そんなこと言うのは、「アタシはほんとのこと知ってるんだからね。知らないヤツはバカヤロウだぜ。」みたいなこと言って悦に入ってる見栄っ張りでしかない。そもそも日本人の誰もが「新年あけましておめでとうございます」という表現を使わなくなったとして、それがいったい何だってことだ。何にもならないじゃないの。
「新年」が出てきたので、思い出したのだが、初詣なんかの神社の参拝の仕方、あの「二礼二拍一礼」ってやつだけど、あれ、いったいいつから広まったのだろう。以前、気になっていろいろ調べてみたんだけど結局どこの神社のサイトをみても、いろいろな作法がゴテゴテと書いてあって、参拝の仕方はどこも「二礼二拍一礼」ばかりだ。
実際に初詣に行ってみると、まずは手を洗うところに列を作っていて、その果てに、神殿の前にきちんと二列になって、鈴をならして、お賽銭入れて、「二礼二拍一礼」してということを生真面目にやっているから、ぜんぜん進まない。何十分も並んでいるのに、それにイライラしてその「ルール」を破ろうなんて思うヤツもいない。随分前だが、ぼくはあまりにイライラしたから、お清めの列に並ばないで、いきなり参拝の列に並んだら、ものすごくキツい目でみんなに睨まれた。いったいいつからこんなにみんな律儀になったんだろう。
ぼくが子どもの頃は、お正月には、家族で野毛山の伊勢山皇大神宮(ぼくらはみんな「だいじぐさま」としか呼ばなかったけど)へ初詣にいったけど、手を清める人なんて誰もいなかったし、参拝も二拍だったり三拍だったりさまざまで、拍手の前や後に一礼するだけで、続けて二礼する人なんてひとりもいなかった。鈴も鳴らす人もいれば鳴らさない人もいて、それよりあまりの人の多さに賽銭箱の前に辿りつくことなんて容易にはできないから、後ろの方から賽銭箱のほうをめがけて賽銭をバラバラと投げたもので、けっこうそれが賽銭箱に届かず足もとに落ちていたりした。
あれから50年以上経ち、日本人が信心深くなったとはとうてい思えないけど、やたら細かい「規則」に忠実になったことだけは確かだ。駅の整列乗車しかり、エスカレーターの乗り方しかり、みんな羊のように従順である。そういうのが、どうにも居心地が悪い。
先日も、横浜駅からグリーン車に乗ろうとしたら、隣だか前だか後ろだかに並んでいた中年の男に「あとからきて、平気な顔して割り込むんじゃねえよ。」と怒られてしまった。別に割り込んだわけじゃない。そもそもその「列」にはぼくを含めて3人しか並んでなかったのだ。それも、1列に並ぶことができない狭いホームの部分で、1列とも2列ともつかず、「適当」に並んでいたわけで、扉があいて、その男がイヤホンで何か聞きながらタラタラと進むので、先に乗ろうとしただけだ。それなのに、その男は、自分のほうが「先に並んだ」という確信のもと、ぼくが自分の前に乗ることが許せなかったわけだ。別に先に乗ろうが後に乗ろうが、昼間の平日のグリーン車なんだから、ガラガラなのだ。どっちだっていいじゃないかって、思うんだけどなあ。まったくせちがらいことだ。
言葉遣いのことに戻れば、あまりにも「正しさ」にこだわって、「正しくない」使い方に敏感になっているようにも思うのだ。言葉にはいろいろな側面があって、その側面に応じて使わねばならないわけだが、日常の会話では、大事なのはまず「通じる」ことで、「正しい」ことではない。文法的に間違っていても、通じればそれでいい場面も多々あるし、そのほうが多い。とくに昨今のように外国人が多くなってくると、ますます「通じる」ことが大事になってくるし、こまかい「間違い」には寛容であるべきだろう。
日本人が英語をなかなか話すことができないのは、大学受験で、さんざん「間違い」に苦しめられてきたからだとぼくはかねがね思っている。(オレだけか?)大学受験から英語がなくなれば、たぶん、もっとみんな「間違いを恐れず」話せるようになるはずだ。そのほうが、ずっといいと思うのだが。
日本近代文学の森へ (69) 田山花袋『蒲団』 16 芳子の恋人
2018.12.8
芳子の恋人田中は、結局東京へ出てきてしまった。安い旅籠にとまって、どうしても京都には帰らないと言い張っているという。時雄は、勝手にしろと思うこともあったけれど、芳子が学校の帰りに田中のところに寄りはしないか、そこで何かしないかと気が気じゃない。それで、とうとう、時雄は田中に会いに行った。
その夕暮、時雄は思い切って、芳子の恋人の下宿を訪問した。
「まことに、先生にはよう申訳がありまえんのやけれど……」長い演説調の雄弁で、形式的の申訳をした後、田中という中脊の、少し肥えた、色の白い男が祈祷をする時のような眼色をして、さも同情を求めるように言った。
時雄は熱していた。「然し、君、解ったら、そうしたら好いじゃありませんか、僕は君等の将来を思って言うのです。芳子は僕の弟子です。僕の責任として、芳子に廃学させるには忍びん。君が東京にどうしてもいると言うなら、芳子を国に帰すか、この関係を父母に打明けて許可を乞うか、二つの中一つを選ばんければならん。君は君の愛する女を君の為めに山の中に埋もらせるほどエゴイスチックな人間じゃありますまい。君は宗教に従事することが今度の事件の為めに厭になったと謂うが、それは一種の考えで、君は忍んで、京都に居りさえすれば、万事円満に、二人の間柄も将来希望があるのですから」
「よう解っております……」
「けれど出来んですか」
「どうも済みませんけど……制服も帽子も売ってしもうたで、今更帰るにも帰れまえんという次第で……」
「それじゃ芳子を国に帰すですか」
かれは黙っている。
「国に言って遣りましょうか」
矢張黙っていた。
「私の東京に参りましたのは、そういうことには寧(むし)ろ関係しない積(つもり)でおます。別段こちらに居りましても、二人の間にはどうという……」
「それは君はそう言うでしょう。けれど、それでは私は監督は出来ん。恋はいつ惑溺するかも解らん」
「私はそないなことは無いつもりですけどナ」
「誓い得るですか」
「静かに、勉強して行かれさえすれァナ、そないなことありませんけどナ」
「だから困るのです」
この田中という男にも拍子抜けする。なんとも田舎くさい、トロい感じの男である。時雄の持ち出した「二択」も何でそれしか選択肢がないのか訳が分からないけど、田中の言い分も、なんだか要領を得ない。さらに田中についての記述が続く。
時雄の眼に映じた田中秀夫は、想像したような一箇秀麗な丈夫でもなく天才肌の人とも見えなかった。麹町三番町通の安旅人宿(はたご)、三方壁でしきられた暑い室に初めて相対した時、先ずかれの身に迫ったのは、基督教に養われた、いやに取澄ました、年に似合わぬ老成な、厭な不愉快な態度であった。京都訛の言葉、色の白い顔、やさしいところはいくらかはあるが、多い青年の中からこうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかった。殊に時雄が最も厭に感じたのは、天真流露という率直なところが微塵もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々(いろいろ)の理由を強いてつけて、これを弁解しようとする形式的態度であった。とは言え、実を言えば、時雄の激しい頭脳(あたま)には、それがすぐ直覚的に明かに映ったと云うではなく、座敷の隅に置かれた小さい旅鞄や憐れにもしおたれた白地の浴衣などを見ると、青年空想の昔が思い出されて、こうした恋の為め、煩悶もし、懊悩もしているかと思って、憐憫の情も起らぬではなかった。
やっぱり、時雄は、田中がどんなに素敵な好青年だろうと想像していたわけだ。読者もまたそうだろう。芳子とは神戸の教会で出会ったということだし、年は22だし、どう想像したって芳子以上にハイカラで、垢抜けた青年しか思い浮かばない。それが、こんな「京都訛」(どうも、京都訛には聞こえないけど)の、オドオドしたような歯切れの悪い情けない男だったとは意外である。
しかし、この田中青年の姿は、時雄の目を通しての姿で、芳子からみれば、魅力的な男なのだろう。ここで、客観的にはどうだったのかは、考えても仕方ないが、時雄の色眼鏡をはずして考えても、やはり、それほどの好男子ではなさそうだ。しかし、時雄は、その青年を見ているうちに、なんだか切なくなってきてしまい、君たちの「温情なる保護者となろう」とまで言ってしまうのだ。翻訳の仕事も紹介してやろうとまで言った。そして、そんな人のいい自分をまた罵るのだった。
この辺の時雄の心情というものは、なかなか複雑である。もし、田中が目を見張るような好青年だったら、時雄も諦めがついたかもしれない。それでなくても、一回り年が違うのでは勝ち目はないはずなのだ。それが、こんな男じゃオレの方がよっぽどマシじゃないかと時雄は思ったに違いない。「多い青年の中からこうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかった」というのも無理はないのかもしれない。
気が知れなかった、といっても、それは仕方がない。恋とはそういうものだ。しかし、こんなヤツにオレが負けてる、という意識は時雄を苦しめたろう。
そればかりではない。時雄の女房もまた、同じような感想を田中について持つのだ。「厭な人ねえ、あんな人を、あんな書生さんを恋人にしないたッて、いくらも好いのがあるでしょうに。芳子さんは余程物好きね。あれじゃとても望みはありませんよ。」なんて言うのである。女房は、亭主の浮気心に気づいているのに、なんでこんな火に油を注ぐようなことを言うのだろうか。「いくらでも好いの」が、時雄である可能性をなぜ考えないのか。「余程物好き」な芳子なら、一回り以上も上の妻子持ちにだって恋をするかもしれないとどうして考えないのか。「考えない人」である点では、女房もまた同類なのかもしれない。
時雄は、口を極めて田中が「嫌な人間」であることを言い立てるのだが、「天真流露という率直なところが微塵もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々(いろいろ)の理由を強いてつけて、これを弁解しようとする形式的態度」とは、まさに時雄のことではないか。
時雄は心の中でこそ「恋に師弟なんて関係ない!」と叫ぶけれど、口から出る言葉は、「天真流露という率直なところ」など「微塵もない」。そればかりか、大人のいやらしさ全開で、言葉では人の道を語りながら、なんとかして、二人の中を引き裂こうとしか考えていない。
時雄は京都嵯峨に於ける女の行為にその節操を疑ってはいるが、一方には又その弁解をも信じて、この若い二人の間にはまだそんなことはあるまいと思っていた。自分の青年の経験に照らしてみても、神聖なる霊の恋は成立っても肉の恋は決してそう容易に実行されるものではない。で、時雄は惑溺せぬものならば、暫くこのままにしておいて好いと言って、そして縷々として霊の恋愛、肉の恋愛、恋愛と人生との関係、教育ある新しい女の当に守るべきことなどに就いて、切実にかつ真摯に教訓した。古人が女子の節操を誡めたのは社会道徳の制裁よりは、寧ろ女子の独立を保護する為であるということ、一度肉を男子に許せば女子の自由が全く破れるということ、西洋の女子はよくこの間の消息を解しているから、男女交際をして不都合がないということ、日本の新しい婦人も是非ともそうならなければならぬということなど主なる教訓の題目であったが、殊に新派の女子ということに就いて痛切に語った。
時雄がどんなきれい事を並べようと、要するに、時雄は、芳子が田中と肉体関係を持ち、それに「惑溺」することだけを恐れているということだ。とにかく、時雄は、芳子の「純潔」(注:この言葉はこの小説では使われていない。)を守りたい。それは、表向きは芳子の「庇護者」であるからだが、しかし芳子の「純潔」がそれほど大事なのは、他ならぬ自分が芳子の「最初の男」になりたいからだ。その欲望を強く持っているからだということが、この後を読んで行くとはっきりしてくる。
小林一茶
ともかくもあなた任せの年の暮
ハガキ
爪楊枝(黒文字)
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【句解】
さまざまなできごとに揉みくちゃになった一年だったが
もう今となっては、なんなりとも、
阿弥陀仏にひたすらおすがりする年の暮れであることよ。
*浄土宗や真宗では、阿弥陀仏をあなたと称した。
『俳句の解釈と鑑賞事典』(旺文社)
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「黒文字」で書いてみました。
とんがった方ではなく、持つほうに墨をつけ
とんがった先を持って書きました。