遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

びっくり仰天

2014-11-16 18:53:29 | ただの記事

家に帰ったら 庭に干し野菜を作って並べてある

!!!???

まさか叔母さんが作るわけないし

なにこれ?もしかして 武蔵作?

 

そうなんだって!

サツマイモ 生のを切って干してある

それ焼いて食うと 煎餅みたいでうまいんだぜ!というのだ

そんな食べ方したことないもん

知らないモン

 

蒸かした芋のスライスも干してあった

 

干し芋って作ったことあるの?と聞いたら

子供の時手伝ったってさ

すごいねえ!!

今日は

蕪のゆずシロップ漬け持って行って

健康診断で塩分制限って言われちゃった

というT氏に酢の物にすると

塩分制限の時いいよと教えたあげたのだ

そのあと Yさんに押し付けた

 

わが家では人気なのだが

そもそも ゆずシロップを作ってくれたのも武蔵なのだ

 

本当に いい子だ

 

先日わたしは平将門のドラマを借りてきたが

全く見る暇がなく 武蔵はガンガン見てしまって

後半ないのかよ~~

というので 今日はご褒美に全巻借りてきてあげた

 

そのぐらいのお駄賃は安いものだ

というほど よく働いたもんね

 

そうそう武蔵は今日午後用があるって言ってたが

人の家の木の剪定を手伝う用だったのだ

 

それで なんと 立派なシクラメンお駄賃にもらってきた

それはそれは 色も濃く葉もしっかりして

ステキだねえ これ 

とおばさんちに飾った

 

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今日のKINU洋画会

2014-11-16 18:25:09 | ただの記事

KINU洋画会もなあ

最後のお茶タイムが苦痛

延々と 話が続くのだ

(もっとまとめて言え!)とは言えない

この他人のペースが冗長で重いのがすごく苦手

ホントにわたしは人間の出来が悪い

 

次回はクロッキーだそうだ

これで年内活動納め

次は1月 黒い自画像だって

コンテで真っ黒に描くのだって

意図がくみ取れない

2月にまた 学芸員のYさんを描くそうだ

今度は色気を描けるようにしよう

3月構想画 平安時代にテーマを見つけることにする

これで今年度は終わるようだ

今日描いたのは

白いものと透明なものという課題だったので

どうも 質感にこだわって 物にこだわって

平面化できなかった

この絵を元に

もう一回描くことにする

今日はとても疲れて 早々と帰ってきてしまった

(でも話が長すぎるんだよ 時計を見て焦った)

でもおばさんのところは真っ暗で

まだ寝ているか?

夕飯の支度をして 鍵を開けて入って行ったら

寝床に寝てたので

具合はどうかと声を掛けると

眠っていたわけではないようだ

起きて ご飯は食べるけれど

明日もリハビリは休むという

咳も出ているし そのほうがよいだろう

でも 食欲はあって

ちょっとびっくりするほど食べるよ

武蔵はお芋を蒸かしておやつに持って行ったらしい

それはもう入らないだろうと思って下げようとしたら

それも食べるというのだ

 

だから 回復は順調だな

白菜豚豆腐というお汁だったが

肉 食べる気するかな?と思ったら

これまた完食

前から

痩せの大食いの方ではあるのだ

 

明日はもっと元気になるだろう

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重衡のせいで南都が大火になったとき

2014-11-16 06:02:28 | ただの記事

平家に従わない 批判的である

興福寺の堂衆たちをやっつけて来い

と重衡が清盛の命を受け奈良に攻め込んで

そこで放った火が

大風にあおられ

ものすごく燃え広がって

東大寺興福寺が焼け落ちた

という報告のあった場面が ドラマ「平清盛 」にあった

その時 若い堂衆(興福寺の下級僧侶で 僧兵もこの階層であり

仏師もこの階層)だった運慶が そこにいたんだ!

 

 

そのあと 後白河の先導で東大寺再興の動きが出て

後白河亡きあとは頼朝が引き継いだ

 

再興に関してブレーンの親玉が

重源

大仏の開眼供養は

1185年

そのころは 南都にあったの天平時代の多くの仏像などの

管理をしていたのは

奈良仏師の運慶たちだったろうが

都の貴族と結びついた京都仏師たちが

再興にかかわる造像の仕事を皆かっさらって行ってしまい

運慶は 頭にきて やけを起こして飲んだくれていた

という物語を読んだことがある

京都の貴族や公家たちの価値観は硬く

藤原様式という あの様式美以外は認めない

それも想像に難くない

こういう連中が

〇○でおじゃる~~~

何ぞと言って

干渉するんだな?

 

それで

運慶は関東に下向

浄楽寺や願成就院に

関東武士の依頼を受けて仏像を作ったのだった

 これが常楽寺の↑

 これが願成就院↑

頼朝の戦勝祈願だものな

KINU洋画会のH氏はこの仏像が見たいと

老骨(だって 会の最長老だ)にムチ打って出かけ

絵を描いたよ

 

 平安末期には 関東には田舎作といって

都の藤原様式のものとは違う

すぐれた仏像が沢山ある

↓横浜近くの弘明寺の11面観音像

10

関東古美術研究旅行というのに参加したころは

運慶は

こういう関東の仏師と一緒に仕事したんじゃないかとか

こういう田舎作の秀作を見たんじゃないかと

妄想したけれど

どうだろうか

 

なた彫りの薬師 ってどこだっけ?と思ったら

相模原の日向薬師だった

 

関東には 白鳳時代の仏像もあるよ

深大寺

これは お墓参りの帰りに 寄って拝観した

 

ともあれ 平安末期から鎌倉にかけて

そこに生きていたら

この世の終わりか

という時代だったろうけれど1000年近く隔ててみると

ものすごい豊穣な時代だったかも

なんて

沢山の無残な死の上に実った 多くの文化なのだけれど

 

※ いろいろ調べたが

関東のこういう なた彫りの仏像は

平安末期ではなく藤原期のものらしい

 

どういう人とかかわって作られたか

など

調べてもわからない

 

行基なんて出てきたりする

もう謎だらけ

 

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