2011.3/7 906
四十六帖 【総角(あげまき)の巻】 その(83)
薫は、
「つひに打ち捨て給ひてば、世にしばしもとまるべきにもあらず。命もし限りありて留まるべうとも、深き山にさすらへなむとす。ただいと心ぐるしうてとまり給はむ御事をなむ思ひきこゆる」
――もしや私を打ち捨ててあの世へ旅立って行かれますならば、私とて、この世に暫くも留まろうとは思いません。もしも寿命で生き留まるとしましても、深い山に流浪するつもりです。ただたいそうお気の毒なご様子で後に残される中の君のことをお案じいたしますが――
と、何とかして大君にお返事をおさせしようと、中の君の事を口に出されますと、大君はお顔を覆っておられたお袖を少しずらされて、
「かく、はかなかりけるものを、思ひ隈なきやうにおぼされたりつるも甲斐なければ、このとまり給はむ人を、同じ事と思ひきこえ給へ、とほのめかしきこえしに、違へ給はざらましかば、うしろやすからまし、と、これのみなむ怨めしき節にてとまりぬべう覚え侍る」
――私はこのように短い命の身でありながら、あなたが深く情愛をお示しくださいましたのに、その甲斐もありませんから、この世に残られる中の君を、わたくし同様にお思いくださいと、それとなく何度もお願い致したのです。もし、間違いなくそのようにしてくださいますならば、どんなに安心でしょうにと、これだけが怨めしく、この世への執着として残るに違いないと思われます――
と、仰いますと、薫は、
「かくいみじう物思ふべき身にやありけむ。如何にも如何にも、ことざまにこの世を思ひかかづらふ方の侍らざりつれば、御おもむけにしたがひひ聞こえずなりにし。今なむ、口惜しく心ぐるしうもおぼゆる。されども後ろめたくな思ひきこえ給ひそ」
――私という者は、こうしてひどく物思いに沈む宿縁だったのでしょう。どう考えましても、どういたしましても、あなた以外に心惹かれることがありませんでしたので、あなたのご意向に添うことにはなりませんでした。今になりましては、口惜しくも、お気の毒にも存じております。けれども、中の君のことは決してご心配なさいますな――
と、大君を慰められます。
「いと苦しげにし給へば、修法の阿闇梨ども召し入れさせ、さまざまに験あるかぎりして、加持参らせさせ給ふ。我も仏を念ぜさせ給ふことかぎりなし」
――(大君が)大そうお具合が悪く苦しそうですので、祈祷の功験のある阿闇梨どもを呼び入れて、あれこれと祈祷をおさせになり、薫ご自身も一心にお祈りになります――
では3/9に。
四十六帖 【総角(あげまき)の巻】 その(83)
薫は、
「つひに打ち捨て給ひてば、世にしばしもとまるべきにもあらず。命もし限りありて留まるべうとも、深き山にさすらへなむとす。ただいと心ぐるしうてとまり給はむ御事をなむ思ひきこゆる」
――もしや私を打ち捨ててあの世へ旅立って行かれますならば、私とて、この世に暫くも留まろうとは思いません。もしも寿命で生き留まるとしましても、深い山に流浪するつもりです。ただたいそうお気の毒なご様子で後に残される中の君のことをお案じいたしますが――
と、何とかして大君にお返事をおさせしようと、中の君の事を口に出されますと、大君はお顔を覆っておられたお袖を少しずらされて、
「かく、はかなかりけるものを、思ひ隈なきやうにおぼされたりつるも甲斐なければ、このとまり給はむ人を、同じ事と思ひきこえ給へ、とほのめかしきこえしに、違へ給はざらましかば、うしろやすからまし、と、これのみなむ怨めしき節にてとまりぬべう覚え侍る」
――私はこのように短い命の身でありながら、あなたが深く情愛をお示しくださいましたのに、その甲斐もありませんから、この世に残られる中の君を、わたくし同様にお思いくださいと、それとなく何度もお願い致したのです。もし、間違いなくそのようにしてくださいますならば、どんなに安心でしょうにと、これだけが怨めしく、この世への執着として残るに違いないと思われます――
と、仰いますと、薫は、
「かくいみじう物思ふべき身にやありけむ。如何にも如何にも、ことざまにこの世を思ひかかづらふ方の侍らざりつれば、御おもむけにしたがひひ聞こえずなりにし。今なむ、口惜しく心ぐるしうもおぼゆる。されども後ろめたくな思ひきこえ給ひそ」
――私という者は、こうしてひどく物思いに沈む宿縁だったのでしょう。どう考えましても、どういたしましても、あなた以外に心惹かれることがありませんでしたので、あなたのご意向に添うことにはなりませんでした。今になりましては、口惜しくも、お気の毒にも存じております。けれども、中の君のことは決してご心配なさいますな――
と、大君を慰められます。
「いと苦しげにし給へば、修法の阿闇梨ども召し入れさせ、さまざまに験あるかぎりして、加持参らせさせ給ふ。我も仏を念ぜさせ給ふことかぎりなし」
――(大君が)大そうお具合が悪く苦しそうですので、祈祷の功験のある阿闇梨どもを呼び入れて、あれこれと祈祷をおさせになり、薫ご自身も一心にお祈りになります――
では3/9に。