永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(30の3)(31)

2015年05月20日 | Weblog
蜻蛉日記  上巻 (30の3)


「使ひあれば、かくものす。
<なつくべき人も放てばみちのくのむまや限りにならんとすらん>
いかが思ひけん、たちかへり、
<我がなををぶちの駒のあればこそなつくにつかぬ身ともしられめ>
かへし、また、
<こまうげになりまさりつつなつけぬをこなたはたえずぞ頼みきにける>
又、かへし、
<白河の関のせけばやこまうくてあまたの日をばひきわたりつる>
あさてばかりは逢坂とぞある。
――使いの者が返事を待っているのでこのように書きました。
(道綱母の歌)「馴れ親しむ筈の父親(兼家)がこんなふうにお見限りなので、この子の行く末もこれでおしまいでしょうか」
あの人はどう思ったのか、すぐに返事があって、
(兼家の歌)「あなたの名前が尾ぶちの悍馬で、勝手に荒れ狂うのだから、いくら飼いならそうとしてもなつかない。自分を反省しなさい」
私はまた返事に、
(道綱母の歌)「あなたの足はますます遠のきますが、あの子はあなたを頼りにしているんです」
またの便りは、
(兼家の歌)「白河の関が拒んでいるせいか、どうもそなたのところへは行きにくい。それで日数がたってしまうのだ」明後日ごろは逢坂の関あたりだ。とありました。――


「時は七月五日のことなり。ながき物忌みにさしこもりたるほどに、かくありし返りことには、
<天の川七日を契る心あらば星あひばかりのかげをみよとや>
ことわりにもや思ひけん、すこし心をとめたるやうにて、月ごろになりゆく。」
――七月五日ごろのことでした。あの人は長い物忌みに入っていたので、この返事にはこう言ってやりました。
(道綱母の歌)「天の川で牽牛と織女が逢う七月七日を約束なさるとは、一年に一度の逢瀬で我慢せよとおっしゃるのですか」
私の言い分をもっともと思われてか、少し心にかけている様子で、数ヶ月が経っていきました。――


蜻蛉日記  上巻 (31)

「めざましと思ひし所は、いまは天下のわざをしさわぐと聞けば、心やすし。昔よりのことをばいかがはせん、たへがたくともわが宿世の怠りにこそあめれなど、心を千千に思ひなしつつありふるほどに、少納言の年へて四の品になりぬれば、殿上も下りて、司召に、いとねぢけたる者の大輔などいはれぬれば、世の中をいとうとましげにて、ここかしこ通ふよりほかのありきなどもなければ、いとのどかにて二三日などあり。」
――あの目に余る町の小路の女のところでは、兼家が通ってこなくなってそれを取り戻そうと大騒ぎしているそうで、そんなことを耳にすると私はそれ見ろという気持ちになります。昔のことを思ってくよくよしても仕方がない、こうなったのも私の持って生れた不運なのだからと思って、あれこれと心を砕いて暮しているときに、あの人は少納言(五位)という六年を経て四位に昇りましたので、殿上の出仕も解かれ、司召に、自分としては不満な役所(兵部省)の次官というので、世の中が面白くなく、あちらこちらの女のところへ通う以外は出歩きもせず、たいへんのんびりと二三日わたしのところにいることがありました。――


■少納言=詔勅・宣旨などの清書、及び、除目・叙位・その他の儀式などを担当します。天皇の側近で五位相当。兼家は天暦十年に(956年)少納言に任じ、以後六年この職にあった。

■四の位=四位をいう。兼家は応和二年(962年)正月、従四位下に昇った。

■司召=つかさめし=在京諸司の官吏を任命する儀式。

■大輔=たゆう、だいふ=このとき兼家は兵部大輔。次官。