蜻蛉日記 中卷 (111) 2016.3.24
「山路なでふことなけれど、あはれに、いにしへもろともにのみときどきは物せし物を、また病むことありしに、三四日も、このころのほぞかし、宮仕へも絶え、こもりてもろともにありしは、など思ふに、はるかなる道すがら涙もこぼれゆく。供人三人ばかり添ひて行く。」
◆◆山寺への道は、特別どうという風情のあるわけではないけれど、しみじみとした感じで、昔、あの人と一緒に時々この道を通っていったものだったが、そうそう私が病気だったときに、三、
四日も、あの時もこんな季節だったわ、あの人は公務を休み、ここに籠って一緒に過ごしたのは、などと思い出しては、このはるかな道のりを涙ぐみながら行きます。供人が三人ほど付き添って行きます。◆◆
「まづ僧坊に下りゐて見出だしたれば、前に籬ゆひわたして、またなにとも知らぬ草ども繁きなかに、牡丹草ども、いとなさけなげにて花散りはてて立てるを見るにも、散るかつはとよ、といふことをかへしおぼえつつ、いとかなし。」
◆◆寺に着いてまず庫裏に落ち着いて、あたりを見ると、庭先に籬垣(ませがき)を結いわたしていて、また名を知らぬ草の繁っている中に牡丹が情けない姿で、花びらは散り果ててしまって立っているのを見るにつけても、「花も一時」という古歌をくり返し、くり返し思い出してはひどく悲しかった。◆◆
「湯などものして御堂にと思ふほどに、里より心あわただしげにて人走り来たり。とまれる人の文あり。見れば、『ただいま殿より御文もて、某なんまゐりたりつる。<ささしてまゐり給ふことあなり。かつがつまゐりてとどめきこえよ。ただ今渡らせ給ふ>と言ひつれば、ありのままに<はや出でさせ給ひぬ。これかれも追ひてなんまゐりぬる>と言ひつれば、<いかやうにおぼしてにかあらんとぞ、御けしきありつるを、いかがさはきこえむ>とありつれば、月ごろの御ありさま、精進のよしなどをなん物しつれば、うち泣きて、<とまれかくまれ、まづ疾くをきこえむ>とて、いそぎ帰りぬる。されば論なうそこに御消息ありなん。さる用意せよ』などぞ言ひたるを見て、うたて心をさなくおどろおどろしげにもやしないつらん、いと物しくもあるかな。穢れなどせば、あすあさてなども出でなむとする物をと思ひつつ、湯のこといそがして堂にのぼりぬ。」
◆◆湯屋で沐浴をして御堂に上ろうというときに、自邸から大急ぎの様子で使いの者が走ってきました。留守番役の侍女からの手紙です。見ると、「ただ今、御本邸の殿より御手紙を持って、なにがしという者が参りました。『これこれしかじかで、山寺へお出掛けなさるということだ。とりあえずお前が参上しておとどめ申し上げよ、とのこと。いますぐ殿もお出でになります』と言いましたので、ありのままに、『(道綱母は)すでにお出掛けなさいました。侍女たちも後を追って参りました』と言いますと、『どういうつもりで山寺などへ行かれるのだろうと仰せがありましたのに、どうしてそんなこと(もうお出掛けになりましたなどと殿様に)を、申しあげられましょうか』と言いますから、これまでのご様子、ご精進の趣などを言って聞かせましたところ、そのなにがしは泣いて、『とにかく、早速殿にこのことを申し上げましょう』と言って、急いで帰ったのでした。ですからきっとそちらにご沙汰がありましょう。そのお心づもりでいらしてください」と書いてあるのを見て、まあ厭なこと。よく考えずに大げさにしゃべったのであろう、まったく困った事だ。月の障りにでもなったなら、明日明後日にも寺を出るつもりなのに、と思いながら、湯の支度を急がせて、身を浄めて、御堂に上りました。◆◆
■僧坊(そうぼう)=僧たちの起居する坊舎。庫裏。
■籬(ませ)=(まがき)とも。竹や木で荒く作られた低い垣根。
■散るかつはとよ=未詳。
■穢れなど=月の障り、月経。その間は寺社の参詣は慎む。
「山路なでふことなけれど、あはれに、いにしへもろともにのみときどきは物せし物を、また病むことありしに、三四日も、このころのほぞかし、宮仕へも絶え、こもりてもろともにありしは、など思ふに、はるかなる道すがら涙もこぼれゆく。供人三人ばかり添ひて行く。」
◆◆山寺への道は、特別どうという風情のあるわけではないけれど、しみじみとした感じで、昔、あの人と一緒に時々この道を通っていったものだったが、そうそう私が病気だったときに、三、
四日も、あの時もこんな季節だったわ、あの人は公務を休み、ここに籠って一緒に過ごしたのは、などと思い出しては、このはるかな道のりを涙ぐみながら行きます。供人が三人ほど付き添って行きます。◆◆
「まづ僧坊に下りゐて見出だしたれば、前に籬ゆひわたして、またなにとも知らぬ草ども繁きなかに、牡丹草ども、いとなさけなげにて花散りはてて立てるを見るにも、散るかつはとよ、といふことをかへしおぼえつつ、いとかなし。」
◆◆寺に着いてまず庫裏に落ち着いて、あたりを見ると、庭先に籬垣(ませがき)を結いわたしていて、また名を知らぬ草の繁っている中に牡丹が情けない姿で、花びらは散り果ててしまって立っているのを見るにつけても、「花も一時」という古歌をくり返し、くり返し思い出してはひどく悲しかった。◆◆
「湯などものして御堂にと思ふほどに、里より心あわただしげにて人走り来たり。とまれる人の文あり。見れば、『ただいま殿より御文もて、某なんまゐりたりつる。<ささしてまゐり給ふことあなり。かつがつまゐりてとどめきこえよ。ただ今渡らせ給ふ>と言ひつれば、ありのままに<はや出でさせ給ひぬ。これかれも追ひてなんまゐりぬる>と言ひつれば、<いかやうにおぼしてにかあらんとぞ、御けしきありつるを、いかがさはきこえむ>とありつれば、月ごろの御ありさま、精進のよしなどをなん物しつれば、うち泣きて、<とまれかくまれ、まづ疾くをきこえむ>とて、いそぎ帰りぬる。されば論なうそこに御消息ありなん。さる用意せよ』などぞ言ひたるを見て、うたて心をさなくおどろおどろしげにもやしないつらん、いと物しくもあるかな。穢れなどせば、あすあさてなども出でなむとする物をと思ひつつ、湯のこといそがして堂にのぼりぬ。」
◆◆湯屋で沐浴をして御堂に上ろうというときに、自邸から大急ぎの様子で使いの者が走ってきました。留守番役の侍女からの手紙です。見ると、「ただ今、御本邸の殿より御手紙を持って、なにがしという者が参りました。『これこれしかじかで、山寺へお出掛けなさるということだ。とりあえずお前が参上しておとどめ申し上げよ、とのこと。いますぐ殿もお出でになります』と言いましたので、ありのままに、『(道綱母は)すでにお出掛けなさいました。侍女たちも後を追って参りました』と言いますと、『どういうつもりで山寺などへ行かれるのだろうと仰せがありましたのに、どうしてそんなこと(もうお出掛けになりましたなどと殿様に)を、申しあげられましょうか』と言いますから、これまでのご様子、ご精進の趣などを言って聞かせましたところ、そのなにがしは泣いて、『とにかく、早速殿にこのことを申し上げましょう』と言って、急いで帰ったのでした。ですからきっとそちらにご沙汰がありましょう。そのお心づもりでいらしてください」と書いてあるのを見て、まあ厭なこと。よく考えずに大げさにしゃべったのであろう、まったく困った事だ。月の障りにでもなったなら、明日明後日にも寺を出るつもりなのに、と思いながら、湯の支度を急がせて、身を浄めて、御堂に上りました。◆◆
■僧坊(そうぼう)=僧たちの起居する坊舎。庫裏。
■籬(ませ)=(まがき)とも。竹や木で荒く作られた低い垣根。
■散るかつはとよ=未詳。
■穢れなど=月の障り、月経。その間は寺社の参詣は慎む。