永子の窓

趣味の世界

蜻蛉日記を読んできて(116)

2016年04月13日 | Weblog
蜻蛉日記  中卷  (116)2016.4.13

「さて五日ばかりにきよまはりぬれば、また堂にのぼりぬ。日ごろ物しつる人、今日ぞ帰りぬる。車の出づるを見やりてつくづくと立てれば、木蔭にやうやう行くもいとこころすごし。見やりてながめ立てりつるほどに、気やあがりぬらん、心地いと悪しうおぼえて、わざといと苦しければ、山ごもりしたる禅師よびて護身せさす。」
◆◆さて、五日ばかりで月の障りがなくなったので、また御堂にのぼりました。先ごろから来ていた叔母が今日は帰ってしまいます。車の出発を見送って、つくづくぼんやりと立っていますと、木蔭をだんだんに遠ざかっていくのが見えて、その寂しさといったらたまらない感じでした。いつまでもずっと眺めて立っていたせいか、血の気が頭にのぼったのであろう、気分がひどく悪くなって、さらにとても苦しくなって、山籠り中のお坊さんを呼んで護身をさせます。◆◆



「夕暮れになるほどに、念誦声に加持したるを、あないみじと聞きつつ思へば、むかし我身にあらんこととは夢に思はで、あはれに心すごき事とては、ただかやうに絵にもかき、心地のあまりに言ひにも言いひて、あなゆゆしとかつは思ひしさまに、ひとつ違はずおぼゆれば、かからんとて物の思はせ言はせたるなりけりと、思ひ臥したるほどに、我がもとなるはらから一人、又人もろともに物したり。」
◆◆夕暮れになるころに、念誦声で加持しているのを、ああ有難いと聞きながら、考えてみると、以前はわが身にこのようなことが起ころうとは夢にも思わず、こんなことはひどく寂しい出来事だとして、山寺籠りの女の絵を描いたり、気分に乗じてはそういう歌を次々に詠んだりして、その反面、ああ、縁起でもないと思ったその有様に瓜二つの我が身に感じられて、将来そうなるだろうと、何物かが私に思わせ言わせたのだった、と思いながら横になっていますと、京の家で共に住んでいる妹が、別の人と連れ立って訪ねて来てくれたのでした。◆◆



「はひ寄りて、まづ、『いかなる御ここちぞと里にて思ひたてまつりしよりも、山に入りたちてはいみじく物のおぼえはべること。なでふ御住ひなり』とて、ししと泣く。人やりにもあらねば念じ返せど、えたへず。泣きみ笑ひみよろづのことを言ひ明かして、明けぬれば、『類したる人いそぐとあるを、今日は帰りて、のちにまゐりはべらん。そもそもかくてのみやは』など言ひても、いと心ぼそげに言ひてもかすかなるさまにて帰る。」
◆◆そばに寄って、まず、「どんなお気持ちでしょうかと、家におりました時はお思いもうしておりましたよりも、こうして山に入ってみますと、ひどく心細くとても耐えられない感じでございますこと。なんという寂しいお住いでしょう」と言ってしくしく泣くのでした。他人からではなく、自分から山籠りを始めたことなので、ぐっと気持ちをこらえてはいますが、とても耐えられることではありません。泣いたり笑ったりして色々な話をして夜を明かしたのでした。夜が明けると妹が、「連れが急ぐといいますので、今日は帰ってまた伺いましょう。それにしましてもこうしてばかりいましては…」などと言って、ひどく心細げに言いながら、ひっそりと供人少なに帰って行きました。◆◆