一〇四 五月の御精進のほど、職に (117) その1 2019.3.27
五月の御精進のほど、職におはしますに、塗籠の前、二間なる所を、ことに御しつらひしたれば、例様ならぬもをかし。ついたちより雨がちにて、曇り曇らずつれづれなるを、「郭公の声たづねありかばや」と言ふを聞きて、われもわれもと出で立つ。賀茂の奥に、なにがしとかや、七夕のわたる橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし。
「そのわたりになむ、日ごとに鳴く」と人の言へば、「それは日ぐらしなンなり」といらふる人もあり。「そこへ」とて、五日のあした、宮司、車の事言ひて、北の陣より、五月雨はとがめなきものぞ、とて、入れさせおきたり。四人ばかりぞ、乗りてゆく。
◆◆五月の御精進のころ、中宮様が職の御曹司にお出であそばすので、塗籠の前の二間である所を、特別に御設備を整えてあるので、いつもと違っているのもおもしろい。月始めから雨がちで、曇ったり曇らなかったりして所在なないので、「郭公(ほととぎす)の声を探し求めてまわりたいものだ」と私が言うのを聞いて、われもわれもということで出発する。賀茂の奥に、なになにとか、織女星の渡るかささぎの橋ではなく、変な名前がついていた。「そのあたりに、毎日鳴く」と人が言うと、「それは、蜩のようだ」と応じる人もいる。「そこへ」ということで、五日の朝、職の役人が、車の事を指図して、北の陣を通って、「五月雨の頃はかまわないのだ」ということで、車を職の御曹司の端際まで入れさせておいてある。四人くらいがその車に乗って行く◆◆
■五月の御精進のほど=正月、五月、九月を斎月と称し、戒を保って精進する。これは長徳四年(998)のことと推定される。
■塗籠(ぬりごめ)=周囲を壁で塗り籠めた部屋。調度などを納める。
■二間なる所=柱のあいだを二間とった部屋。
■郭公=ほととぎす。
■七夕のわたる橋=かささぎの橋。七夕の夜、織女星を渡すという。
■日ぐらし=蜩。それは日を暮れさせる「日暮らし(蜩)」であるようだ、の意。
うらやましがりて、「いま一つして同じくは」など言へど、「いな」と仰せらるれば、聞きも入れず、情けなきさまにて行くに、馬場といふ所にて、人おほくさわぐ、「何事するぞ」と問へば、「手つがひにてま弓射るなり。しばし御覧じておはしませ」とて、車とどめたり。「右近中将みな着きたまへる」と言へど、さる人も見えず。六位などの立ちさまよへば、「ゆかしからぬ事ぞ。はやかけよ」とて、行きもて行けば、道も祭のころ思ひいでられてをかし。
◆◆残された女房たちがうらやましがって、「もう一台の車で、同じ事なら」と言うけれど、中宮様から「いけない」と仰せられているので、自分たちも耳にも留めず、薄情な風を見せて出かけていくと、馬場(うまば)という所で、人が大勢騒いでいる。「何をするのか」と訊ねると、「競射の演習があって、弓を射るのです。しばらく御覧になっていらっしゃいませ」といって車を止めてある。「右近の中将やみなさまご着座していらっしゃる」というけれど、そういう人も見えない。六位の役人などが、あちこちうろうろしているので、「見たくもないことだ、早く走りなさい」と言って、どんどん進んで行くと、この道も賀茂の祭の頃がおもいだされておもしろい。◆◆
■平安時代にはホトトギスと郭公(カッコウ)が混同されていたようですが、なぜそのようなことになったのか疑問なのです。
両者は似ていますが、体長、鳴き声で明確に区別できます。
全長は28cmほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウやツツドリよりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある。
ホトトギスは古来から多くの和歌に歌われていて、ポピュラーな鳥です。ホトトギスよりも鳴き声が優れていると書かれたものもあります。(忌み鳥としての伝承も多いようですが)
見るのが困難な稀少種ではありません、どうして混同されたのでしょうか?
また、コオロギとキリギリスもおなじように混同されていたようなのですが、ひよっとして当時の「風雅」の風潮として意識的に用いられたのでしょうか。
ホトトギスの実際の鳴き声を聞いたことはありませんが、CD-ROM盤の辞典で聞くと、テッペンカケタカには聞こえません、むしろホトトキと聞こえます。
*写真はほととぎす
五月の御精進のほど、職におはしますに、塗籠の前、二間なる所を、ことに御しつらひしたれば、例様ならぬもをかし。ついたちより雨がちにて、曇り曇らずつれづれなるを、「郭公の声たづねありかばや」と言ふを聞きて、われもわれもと出で立つ。賀茂の奥に、なにがしとかや、七夕のわたる橋にはあらで、にくき名ぞ聞こえし。
「そのわたりになむ、日ごとに鳴く」と人の言へば、「それは日ぐらしなンなり」といらふる人もあり。「そこへ」とて、五日のあした、宮司、車の事言ひて、北の陣より、五月雨はとがめなきものぞ、とて、入れさせおきたり。四人ばかりぞ、乗りてゆく。
◆◆五月の御精進のころ、中宮様が職の御曹司にお出であそばすので、塗籠の前の二間である所を、特別に御設備を整えてあるので、いつもと違っているのもおもしろい。月始めから雨がちで、曇ったり曇らなかったりして所在なないので、「郭公(ほととぎす)の声を探し求めてまわりたいものだ」と私が言うのを聞いて、われもわれもということで出発する。賀茂の奥に、なになにとか、織女星の渡るかささぎの橋ではなく、変な名前がついていた。「そのあたりに、毎日鳴く」と人が言うと、「それは、蜩のようだ」と応じる人もいる。「そこへ」ということで、五日の朝、職の役人が、車の事を指図して、北の陣を通って、「五月雨の頃はかまわないのだ」ということで、車を職の御曹司の端際まで入れさせておいてある。四人くらいがその車に乗って行く◆◆
■五月の御精進のほど=正月、五月、九月を斎月と称し、戒を保って精進する。これは長徳四年(998)のことと推定される。
■塗籠(ぬりごめ)=周囲を壁で塗り籠めた部屋。調度などを納める。
■二間なる所=柱のあいだを二間とった部屋。
■郭公=ほととぎす。
■七夕のわたる橋=かささぎの橋。七夕の夜、織女星を渡すという。
■日ぐらし=蜩。それは日を暮れさせる「日暮らし(蜩)」であるようだ、の意。
うらやましがりて、「いま一つして同じくは」など言へど、「いな」と仰せらるれば、聞きも入れず、情けなきさまにて行くに、馬場といふ所にて、人おほくさわぐ、「何事するぞ」と問へば、「手つがひにてま弓射るなり。しばし御覧じておはしませ」とて、車とどめたり。「右近中将みな着きたまへる」と言へど、さる人も見えず。六位などの立ちさまよへば、「ゆかしからぬ事ぞ。はやかけよ」とて、行きもて行けば、道も祭のころ思ひいでられてをかし。
◆◆残された女房たちがうらやましがって、「もう一台の車で、同じ事なら」と言うけれど、中宮様から「いけない」と仰せられているので、自分たちも耳にも留めず、薄情な風を見せて出かけていくと、馬場(うまば)という所で、人が大勢騒いでいる。「何をするのか」と訊ねると、「競射の演習があって、弓を射るのです。しばらく御覧になっていらっしゃいませ」といって車を止めてある。「右近の中将やみなさまご着座していらっしゃる」というけれど、そういう人も見えない。六位の役人などが、あちこちうろうろしているので、「見たくもないことだ、早く走りなさい」と言って、どんどん進んで行くと、この道も賀茂の祭の頃がおもいだされておもしろい。◆◆
■平安時代にはホトトギスと郭公(カッコウ)が混同されていたようですが、なぜそのようなことになったのか疑問なのです。
両者は似ていますが、体長、鳴き声で明確に区別できます。
全長は28cmほどで、ヒヨドリよりわずかに大きく、ハトより小さい。頭部と背中は灰色で、翼と尾羽は黒褐色をしている。胸と腹は白色で、黒い横しまが入るが、この横しまはカッコウやツツドリよりも細くて薄い。目のまわりには黄色のアイリングがある。
ホトトギスは古来から多くの和歌に歌われていて、ポピュラーな鳥です。ホトトギスよりも鳴き声が優れていると書かれたものもあります。(忌み鳥としての伝承も多いようですが)
見るのが困難な稀少種ではありません、どうして混同されたのでしょうか?
また、コオロギとキリギリスもおなじように混同されていたようなのですが、ひよっとして当時の「風雅」の風潮として意識的に用いられたのでしょうか。
ホトトギスの実際の鳴き声を聞いたことはありませんが、CD-ROM盤の辞典で聞くと、テッペンカケタカには聞こえません、むしろホトトキと聞こえます。
*写真はほととぎす