11月9日(月曜)快晴 目的地 ピサン(3200m)
5時起床 7時朝食 8時出発
本日の朝の支払いは2010Rs(2365円)内訳は・・・メモが無い!!!
チャメからピサンへの道は感慨深い思い出の道だった。
一昨年、交通事故のダメージから満足に回復していない足を騙しながら登ったピサンピークアタックのベースとなった村へ続く道だからだ。
ピサンの村が近づくとピサンピークの頂上ドームがひょっこり見えるのだが、拍子抜けする間の抜けた感じで現れるのだ。
自分は二年前それを見て「与し易し」と高を括った・・・が、それは大きな間違いで、我が人生で最大級の肉体的艱難辛苦を舐める事になるのだったが。(2013年ネパールの旅に詳細が有ります)
水力でマニ車を回している マニ車の中にはお経が
森林限界を超えていないが雰囲気は高山風に変わった
思い出深いピサンまでの道は緩やかな登りで厳しくは無い。
時にジープロードを歩き、時に旧道に入りして知らぬ間に標高を上げて行く。
標高が上がると空気が軽くなる気がする。
そして、乾いているように思う。
朝晩の気温は低いのだが標高と紫外線の強さは比例しているらしく、だからか、肌に受ける日差しは厳しい。
特に禿げ上がった額が著しく帽子を持って来なかった事を悔やんだ。
いや、昨年までは白いタオルを頭に巻いて歩いていたのだが、その姿は異様に見えるのか、ヨーロッパ系の人にとても不評だった。
一度は、自分にも聞こえる声で、アレは中国人か?アジア系のイスラムの人だと思うか?と、言うヨーロッパ系白人オヤジの声を聞いた。
その時は白髪のひげ面で自分で見ても異様な顔つきではあったのだが、イスラム風に見られるとは思いもしなかった。
自分としてはハリマオ風で格好良いと思っていたのだが、そうでは無いようなので今年は止めたのだ。
リンゴはフジとゴールデンで元の苗木は日本産
今日も余裕の行程で急ぐ必要も無く、タルクの村でレモンティーを飲みリンゴを買って齧った。
この界隈と、トロンパスの向こう側も含めリンゴの栽培が盛んだ。
栽培指導は日本人がしたそうで、マナンだったかに日本の援助で出来た農園だと記された看板が立っている。
タルクではリンゴ生産者組合を作って地場産業としてガッンバって居る・・・と、片言の会話から察してみたのだけれども、当たらずとも遠からずと思う。
11時20分 ディクルポカリ着 ヌードルスープと紅茶の昼食。
ヌードルスープの元はただのインスタントラーメンである。
街で買うと一袋20Rsから30Rs程度のインスタントラーメンが山のロッジでヌードルスープと名前を変えると250Rsに跳ね上がる。
場合に拠っては野菜など入れて一工夫してある事もあるが殆どはただのインスタントラーメンをスドンと出して来るだけだ。
しかし、工業製品と言うのはいつ何処で食べても味が決まっていて滅多な事では想像を裏切らないので迷った時にはここに落ち着いてしまう。
まっ、滅多な事も間々有るのでそれは後で出できますが・・・。
ディクルポカリの先でジープロードを外れ松林の中を歩くと道が凍っていた。
いよいよこの標高に入って来たかと思う反面、一昨年はこの当たりでフリースを着ていたはずなのだが、今年は薄手の山シャツ一枚で少し暑い・・・なんか変だ、とも感じる。
川を渡って対岸の高台にある旧ピサン村へ行く
石積みを泥で目張りした家 ここからチベット風になる
アンナプルナ2と4の間にある氷河 落差は3000m以上ある
マニ車の列は30m程もある オムマニペネホムと言って回す
ピサン着 13時。
ローピサンは3200mでアッパーピサンが3300m。
ゴンパまで登ると3350mになるので一度登ってローピサンに泊まると高度順応に良い。
なのでチェックインするとすぐ、カメラを持って出掛けた。
この当たりから見えるのはアンナプルナ連峰の中の南側の山で、すべて7000m峰だ。
主峰であるアンナプルナ1(8091m)はここからは見えない。
しかし、アッパーピサンからは、左端からラムジュンヒマール(6983m)アンナプルナ2(7937m)アンナプルナ4(7525m)アンナプルナ3(7555m)と連なって見え、壮観だ。
間近にきれいな氷河が見られる場所としてはネパールのトレッキングルートの中でも際立っていると思うのだが・・・少なくてもエベレスト街道では銀色に輝く氷河を間近に見た記憶は無い。
2年前には無かった仏舎利塔が完成していた
本殿の入り口は鍵がかかっていたので今日は参拝はダメなのかと思ったらゴンパ(僧院)から坊さんが出て来て鍵を開けてくれた。
私は100Rsを賽銭箱(英語でドネーションボックスと書かれている)に入れ、正座して手を合わせた・・・人類の平和と先月逝った母の事を頼んだ。
この寺にお参りしてお賽銭を入れるとお茶が一杯振る舞われる。
それは魔法瓶に入った茶なのだがとても熱く乾いた喉を癒してくれる。
10数年前にはチベットからダライラマが法要に訪れたチベット仏教の由緒ある寺なのだが、ゴンパには天然記念物の鷹の剥製が下げてあったり、チベット仏教のお経のCDを販売していたりして中々開けた所も見られる。
ここから先、沢山のゴンパがあり、沢山の寺が有るのだが、日本と同じように幾つかの宗派がありそれぞれ独立しているらしく、例えば、カクベニの寺の事などを尋ねても、アレは違うから、みたいなことを言われる。
まっ、私の言葉があやふやなのかもしれないが、ネパールの仏教も其れなりにややこしいのは確かである・・・らしい。
仏教に興味のある私としては、いつかはチベットへ行って本家の寺院やゴンパを見てみたいものだと思った・・・噂では4万人の僧侶が修行する巨大なゴンパがあるらしい。
自分が帰ろうとする頃ユーケーが登って来た。
お賽銭を入れるとお茶がもらえる事を教えると、財布を持って来なかったと言う・・・50Rsをユーケーに寄付した。
宿へ戻るといつの間にか人が増え、静かだった食堂も賑やかになっていた。
自分の苦手なフランス人のグループが二つも入ったようだった。
アンナプルナ街道では、フランス人は団体で歩いている事が多い。
国籍の如何に関わらず人数の多いグループは得てして横柄で勝手な振る舞いが目立つ物だが、フランス人のシルバー世代のそれは半端じゃ無い。
例えば、椅子が10個有ってフランス人が5人居て、足を伸ばして座るのに一人が2個の椅子を使っていたとしよう・・・そこへ他の人が現れても誰一人として1つ譲るナンて事はしなかった。
偶々なのかと思いきや、似たような事を何度も見るにつけ私のフランス人を見る目は決定的になった。
しかし、ユーケーも彼らとは近づかなかった所を見ると苦手なのかもしれないと思った。
この日の夕食時の食堂は殆ど満席で、ユーケーと自分とその後何度もテーブルを共にしたドイツ人で座った。
そしてその夜は私への英語の抗議で盛り上がった。
ユーケーはイギリスの国語の先生だったのだ。
同席したドイツ人はイギリスでも日本でも仕事をした事のある粋な人で、日本も良く知っていて直ぐに馴染めたのだった。
英語の抗議の主目的は、LとRの発音だった・・・それは治っているはずなんだが。
午後8時 就寝
5時起床 7時朝食 8時出発
本日の朝の支払いは2010Rs(2365円)内訳は・・・メモが無い!!!
チャメからピサンへの道は感慨深い思い出の道だった。
一昨年、交通事故のダメージから満足に回復していない足を騙しながら登ったピサンピークアタックのベースとなった村へ続く道だからだ。
ピサンの村が近づくとピサンピークの頂上ドームがひょっこり見えるのだが、拍子抜けする間の抜けた感じで現れるのだ。
自分は二年前それを見て「与し易し」と高を括った・・・が、それは大きな間違いで、我が人生で最大級の肉体的艱難辛苦を舐める事になるのだったが。(2013年ネパールの旅に詳細が有ります)
水力でマニ車を回している マニ車の中にはお経が
森林限界を超えていないが雰囲気は高山風に変わった
思い出深いピサンまでの道は緩やかな登りで厳しくは無い。
時にジープロードを歩き、時に旧道に入りして知らぬ間に標高を上げて行く。
標高が上がると空気が軽くなる気がする。
そして、乾いているように思う。
朝晩の気温は低いのだが標高と紫外線の強さは比例しているらしく、だからか、肌に受ける日差しは厳しい。
特に禿げ上がった額が著しく帽子を持って来なかった事を悔やんだ。
いや、昨年までは白いタオルを頭に巻いて歩いていたのだが、その姿は異様に見えるのか、ヨーロッパ系の人にとても不評だった。
一度は、自分にも聞こえる声で、アレは中国人か?アジア系のイスラムの人だと思うか?と、言うヨーロッパ系白人オヤジの声を聞いた。
その時は白髪のひげ面で自分で見ても異様な顔つきではあったのだが、イスラム風に見られるとは思いもしなかった。
自分としてはハリマオ風で格好良いと思っていたのだが、そうでは無いようなので今年は止めたのだ。
リンゴはフジとゴールデンで元の苗木は日本産
今日も余裕の行程で急ぐ必要も無く、タルクの村でレモンティーを飲みリンゴを買って齧った。
この界隈と、トロンパスの向こう側も含めリンゴの栽培が盛んだ。
栽培指導は日本人がしたそうで、マナンだったかに日本の援助で出来た農園だと記された看板が立っている。
タルクではリンゴ生産者組合を作って地場産業としてガッンバって居る・・・と、片言の会話から察してみたのだけれども、当たらずとも遠からずと思う。
11時20分 ディクルポカリ着 ヌードルスープと紅茶の昼食。
ヌードルスープの元はただのインスタントラーメンである。
街で買うと一袋20Rsから30Rs程度のインスタントラーメンが山のロッジでヌードルスープと名前を変えると250Rsに跳ね上がる。
場合に拠っては野菜など入れて一工夫してある事もあるが殆どはただのインスタントラーメンをスドンと出して来るだけだ。
しかし、工業製品と言うのはいつ何処で食べても味が決まっていて滅多な事では想像を裏切らないので迷った時にはここに落ち着いてしまう。
まっ、滅多な事も間々有るのでそれは後で出できますが・・・。
ディクルポカリの先でジープロードを外れ松林の中を歩くと道が凍っていた。
いよいよこの標高に入って来たかと思う反面、一昨年はこの当たりでフリースを着ていたはずなのだが、今年は薄手の山シャツ一枚で少し暑い・・・なんか変だ、とも感じる。
川を渡って対岸の高台にある旧ピサン村へ行く
石積みを泥で目張りした家 ここからチベット風になる
アンナプルナ2と4の間にある氷河 落差は3000m以上ある
マニ車の列は30m程もある オムマニペネホムと言って回す
ピサン着 13時。
ローピサンは3200mでアッパーピサンが3300m。
ゴンパまで登ると3350mになるので一度登ってローピサンに泊まると高度順応に良い。
なのでチェックインするとすぐ、カメラを持って出掛けた。
この当たりから見えるのはアンナプルナ連峰の中の南側の山で、すべて7000m峰だ。
主峰であるアンナプルナ1(8091m)はここからは見えない。
しかし、アッパーピサンからは、左端からラムジュンヒマール(6983m)アンナプルナ2(7937m)アンナプルナ4(7525m)アンナプルナ3(7555m)と連なって見え、壮観だ。
間近にきれいな氷河が見られる場所としてはネパールのトレッキングルートの中でも際立っていると思うのだが・・・少なくてもエベレスト街道では銀色に輝く氷河を間近に見た記憶は無い。
2年前には無かった仏舎利塔が完成していた
本殿の入り口は鍵がかかっていたので今日は参拝はダメなのかと思ったらゴンパ(僧院)から坊さんが出て来て鍵を開けてくれた。
私は100Rsを賽銭箱(英語でドネーションボックスと書かれている)に入れ、正座して手を合わせた・・・人類の平和と先月逝った母の事を頼んだ。
この寺にお参りしてお賽銭を入れるとお茶が一杯振る舞われる。
それは魔法瓶に入った茶なのだがとても熱く乾いた喉を癒してくれる。
10数年前にはチベットからダライラマが法要に訪れたチベット仏教の由緒ある寺なのだが、ゴンパには天然記念物の鷹の剥製が下げてあったり、チベット仏教のお経のCDを販売していたりして中々開けた所も見られる。
ここから先、沢山のゴンパがあり、沢山の寺が有るのだが、日本と同じように幾つかの宗派がありそれぞれ独立しているらしく、例えば、カクベニの寺の事などを尋ねても、アレは違うから、みたいなことを言われる。
まっ、私の言葉があやふやなのかもしれないが、ネパールの仏教も其れなりにややこしいのは確かである・・・らしい。
仏教に興味のある私としては、いつかはチベットへ行って本家の寺院やゴンパを見てみたいものだと思った・・・噂では4万人の僧侶が修行する巨大なゴンパがあるらしい。
自分が帰ろうとする頃ユーケーが登って来た。
お賽銭を入れるとお茶がもらえる事を教えると、財布を持って来なかったと言う・・・50Rsをユーケーに寄付した。
宿へ戻るといつの間にか人が増え、静かだった食堂も賑やかになっていた。
自分の苦手なフランス人のグループが二つも入ったようだった。
アンナプルナ街道では、フランス人は団体で歩いている事が多い。
国籍の如何に関わらず人数の多いグループは得てして横柄で勝手な振る舞いが目立つ物だが、フランス人のシルバー世代のそれは半端じゃ無い。
例えば、椅子が10個有ってフランス人が5人居て、足を伸ばして座るのに一人が2個の椅子を使っていたとしよう・・・そこへ他の人が現れても誰一人として1つ譲るナンて事はしなかった。
偶々なのかと思いきや、似たような事を何度も見るにつけ私のフランス人を見る目は決定的になった。
しかし、ユーケーも彼らとは近づかなかった所を見ると苦手なのかもしれないと思った。
この日の夕食時の食堂は殆ど満席で、ユーケーと自分とその後何度もテーブルを共にしたドイツ人で座った。
そしてその夜は私への英語の抗議で盛り上がった。
ユーケーはイギリスの国語の先生だったのだ。
同席したドイツ人はイギリスでも日本でも仕事をした事のある粋な人で、日本も良く知っていて直ぐに馴染めたのだった。
英語の抗議の主目的は、LとRの発音だった・・・それは治っているはずなんだが。
午後8時 就寝