じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

聖地 Muktinath

2015-12-17 17:25:16 | ネパール旅日記 2015
Muktinathと書いてムクティナートと読ませるのは日本のガイドブックで、現地の人の発音だとムキナートに聞こえる。
なんであれ・・・ナートと付くのは聖地の事で、ムキナートはチベット仏教とヒンドゥー教の聖地として名高く、遠くインドからも巡礼が訪れる・・・らしい。
まっ、毎度の事ではありますが、拙い語学力であれこれ訊き回っては見るのだけれども、理解力に乏しいのと、知らない事柄では知らない単語に出会う確率も高く、ましてや地名や物の名前などが挟まった会話だとかなり怪しい解釈になるのは否めない訳であります。
しかも、ここの場合は宗教関係と言う事で、中々難しかったと言うのが偽らざる話しでありました・・・なのであんまし真に受けないで下さいね、と。


寺は険しいを背にして壁に囲われ山城のように見える


寺の山門は城門にも見えるが

数冊の本を読んだだけでろくに調べてもいないのでインチキなのだが、チベットからムスタンでは寺院と山賊が勢力を争っていた。
そして、宗派に拠る争いもたびたび有って、ゴンパの僧は兵隊でもあったらしい。
大概の古い寺は岩山を背にして高台にあり、前は城壁に見える石垣で囲われている。
自分としてはどー見ても僧院でありながら城であったと思うのだけれども・・・敢えて深く調べる気もないですけど。


ヒンドゥー教徒は鐘を鳴らし仏教徒はマニを回す


水力利用の自動回転式マニ車

ヒンドゥーの人達は手を合わせる前に金を鳴らし、仏教の人はマニ車を回す。
マニにはお経が入っていて、マニを一度回すとその経文を一度読んだのと同じになるのだと言う。
マニ車は巨大な物から手持ちで回す小さな物まで様々あるけれども、自分が買った小さなマニの蓋を開けてみたら、確かに経文の書かれた紙が入っていた。
マニ車を一度回すと経文を一巻読んだのと同じと言うのは良いとして、水力を利用して自動で回り続けるマニ車のご利益は誰の所に行くのだろうか?
寺院や街や、ひいては世界平和も願っているのかもしれないと思いつつも、かなり安易な感じを受けるのは自分だけなんだろうか?


境内正面のヒンドゥー寺院「ムクティナラヤン」

ヒンドゥー教の人は靴を脱いで寺院に入れるが、仏教徒は入ってはいけないらしい。
もっとも自分が参拝した時は時間が早くてヒンドゥー教徒も入れなかったので定かでは無いが、後にカトマンドゥーのヒンドゥー寺院でも異教徒は入れない所が多かったのでそうだと思う。
見せないと言われると見たくなるのが人情だが、まず何処で見ても同じような物なのであっと驚くようなご本尊がいたりする事は無いと思う。


108の蛇口から流れる聖水を浴び贖罪する

ムクティナラヤンの前には一寸見には防火用水かと思えるプールがあり、周囲には108つの蛇口から聖水が噴き出す水の壁がある。
巡礼者はパンツ一丁になりバスタオルを巻いて108つの聖水の下をくぐり抜ける。
そして、二つ有るプールで沐浴をして身を清める・・・と、言う風にやっているのを見ていた訳で、これも推測なのだが・・・。
日本の除夜の鐘の108つは煩悩を払うと言うが、ヒンドゥー教では罪を消してくれると言われている。
似たような物だけれども、罪と言わずに煩悩と言う辺りに日本の優しさを感じるのは私だけだろうか?
ちなみに、蛇口から出る聖水は触ってみると意外と温かく、沐浴のプールには氷水だった。


聖なる水の沐浴で身を清めるヒンドゥー教徒

聖水で沐浴する彼は警察官で、福を脱いでいるのを見て写真を撮らせて欲しいと言うと、一寸待て、バスタオルを巻いてから撮ってくれと言いつつ心よく了承してくれた。
彼と一緒に来ていた同僚がスマホで動画を撮りながら、ヒンドゥー教徒としてこの行は必須なのだと教えてくれた。
自分はカメラを構えて一緒に回ったのだが、途中で氷に気付かず派手に転んでしまった。
どう転んだのか分らないが、カメラを当てなくて助かった・・・が、肘を打ったようで後から激痛が来た。



チョルテンの向こうにダウラギリ8167mが見えた

チョルテンがあるのは仏教寺院か?と思いつつ入って行くと、尼さんが二人で読経していた。
その声は由紀さおりと安田姉妹の歌声のように澄んで、しかも、ハモルのである。
時には輪唱か?と思う部分も有って日本の坊さんのお経の読み方とは全く違い聞き惚れてしまった。
チベット仏教の寺院の「ジョラムキ ゴンパ」のご本尊は観音様のようだった。
賽銭箱が有ったので100Rsを納めて手を合わせた。
お経は低く高く流れ途切れる事は無く、いつまでも聴いていたいと思った。


未だ明け切らぬ朝のムキナート

寺から宿に戻る頃には既に8時近かったのだが谷間のムキナートの街は未だ陽が射していなかった。




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ハイキャンプ~ムキナート

2015-12-17 11:14:36 | ネパール旅日記 2015

 11月15日(日曜日)快晴 目的地 ムキナート

今朝の支払い 1990Rs 部屋代が不明だが200Rsくらいか?
オニオンスープ+トマトスープ+トースト+ゆで卵2個+ツナピザ+紅茶をポットで+ミルクティーなど3杯。

一昨年、この宿の食べ物が口に入らなかったのだが、今回のツナピザは美味かった。
オニオンスープは焦がしたタマネギとバターで美味であったがトマトスープはペケであった。
何故なら、ピザと一緒に頼んだのだが、ピザソースとトマトスープが同じ味なのだ。
パンを焼いているとは思えないのだがトーストが有った。
マナン辺りから運び上げているのだろうか?と思ったが、この疑問は後で解けた。

4時起床 4時半朝食 5時10分出発
日の出前の一番寒い時に歩き出すので余計に寒く感じる。
しかも今日は風が強く体感温度は一段と下がっている。
保温性の高いシャツとモモヒキに防風で裏フリースのズボンをはき、厚手の山シャツにフリース、そして山用のジャケットに、二重の手袋と言う重装備で寒く無かった。
しかし、指先だけは冷たくて痺れた。

ロッジを出ですぐ裏手の道は幅50センチ程で、踏み外せば200~300m下まで滑り落ちる。
昼間なら全体が見えて恐怖心は湧かないのだがヘッドランプの照らす範囲に足場を求めて歩くのは緊張する。
同室のイギリス人のイビキには参ったが良く眠れたようで足は軽かった。
時折まさかと思う程の薄着で震えながら登っている白人の若者を見たが、少しでも天候が崩れたらアウトだなと思うと、この峠で起きた昨年の大量遭難事故の事が思い出された。

一昨年もそうだったが今年も馬に乗って峠越えをするトレッカーが何人かいた。
さすがに4本足の馬は氷の道でも滑らない様子で難なく登って行く。
こんな時の博労は手綱を持って前を歩くのではなく馬のしっぽを掴んで引っ張ってもらうようにして行く。

今年のトロンパス越えは終始雪道だった。
Rajuはスニーカーだったが気温が低く雪は固く締まり、人が大勢踏む所は氷なので濡れる事は無い。
トロンパスの峠の気温が氷点下12度で風も強く厳寒なのだが、Rajuは自分が寒くて毛糸の靴下に羽毛のブーツを履く時に裸足にゴム草履で平気なのだ。
だからこの峠越えでも少し厚手の靴下とスニーカーで耐えられるのだった。

標高5416mで東に開けているトロンパスは陽が昇るのが早い。
間もなく峠と言う頃にはすっかり夜が明けていた。
7時10分 デオラリ(峠の意味)着。
一昨年は3時間近くかかっていたが本日はことのほか調子が良く2時間で登り切れた。
標高5000m以上の高地で標高差600mを2時間で登れたのは驚きで、俺も未だやれそうだなと、妙な欲も生まれた。


トロンパスへの雪道 夜明け頃


峠の記念写真 Raju、望遠使って影を入れるなょなぁ~

峠は寒く長居は無用と自分は思うが、しかし、北欧の人なのかロシア人なのか、氷点下12度に強風でタルチョ(真言の書かれた旗)がはためく前で記念写真を撮り、いつまでも喜び合っている。
自分は峠の茶店に入りレモンティーを飲んで一休みした。
下の方の茶店だと30Rsのレモンティーがここでは200Rsだが、お湯を沸かすのに圧力鍋を使い、一日中ケロシンコンロを焚いている事を思うと高くは無い。
それよりも、ここに茶店が無かったらこの峠越えは相当難しくなるだろうと思う。

本日の目的地ムキナートは標高3760mなのでトロンパスから距離8キロで1700mを一気に下る事になる。
登りは辛く下りは楽かと言うとそんな事も無く、急な下りは殆どスクワット状態で筋力的にはとても辛い。
特に膝の事を考えると岩と砂利で滑りやすい長い下りは怖かった。


昨年の大量遭難の後に作られたシェルター

峠を下り始めて少し行くと青いトタンの小屋が見えた。
伽藍堂の中に箱が置いてあり、赤十字マークが見えたので避難小屋だと分った。
昨年の11月16日頃に発生したインドの台風なのかサイクロンなのか、その影響でヒマラヤ各地で大雪が降り、あちこちで遭難が相次いで起きた。
アンナプルナ周辺ではティリチョレイクやトロンパス周辺で遭難事故が多発し、トロンパスのムスタン側で日本人2名を含む17名が亡くなったとされている。
原因は雪崩と書かれた物が多いが、自分が知る地形その他を踏まえて考えると雪崩れそうも無い場所なのだが・・・迂闊な事は言わないでおく。
避難小屋はトロンパスを下りてすぐと、一番迷いやすそうな場所の二カ所に建てられていた。
下の避難小屋は氷河痕の沢に近く、そこには未だ回収されずに残されたザックや靴が見えた。


峠の茶屋に荷物を運ぶ親子?(推測)

峠からの下り道で二頭の馬を見た。
前の一頭には子供が二人乗っていて、前で手綱を取るのは推定で10歳くらいの女の子。
後でしがみついていたのは7~8才の女の子だった。
そして後の馬はお父さんか? 
その馬には恐らくトロンパスの茶店に届けると思われる荷物が付いていた。
(全ては勝手な推測で全然見当外れかもしれないので・・・)

フェディまでほぼ3時間、休まずに下り茶店で一服。
心配した膝は調子良く痛みは全く出なかった。
一昨年はここで昼食だったが未だ10時なのでお茶だけ飲んでムキナートへ。


ムキナートの 「ホテル ボブマーリー」

11時 ムキナート着。
一昨年泊まったホテルに行こうとしたのだが「ホテル ボブマーリー」を見つけ気が変った。
部屋を見せてもらうと悪く無い・・・決定。
さっそく300Rsのシャワーを浴びさっぱりして昼飯を食べにダイニングのテラスへ行く。
未だ標高的には3760mと高いのだが、これからは下る一方なので久しぶりにビールをやった。
そして、昼飯はムキナートへ着いたらヤクステーキと決めていたそれを注文。
鉄板の上でジュージュー音を立てるヤクステーキを食べ、ツボルグのビールを飲んだ。
世の中にはいろいろな快感があるが、これも至極の快感の一つであるとしみじみ思いつつ、しかし、少し筋張っているのが難点のヤクステーキを頬張った。

数日間洗濯をしていなかったのでシャワーの時に洗おうかと思ったが、ホテルの1キロ300Rsの張り紙を見て止めた・・・350円でやってもらえるのならその方が良い。
明日の朝までに乾燥できるのかを確認すると、電気乾燥機があると言うので安心して頼んだ。

ホテル ボブマーリーの隣にはセブンイレブンが有ったが、本物とは無関係で売っている物もチベット風ネパール式の物だった。
この先標高が下がると暑くなるので薄手のズボンを買いたかったがそれは売っていなくて、帽子でも被れば少しは涼しいかと思い500円でアディダスのキャップを買った。

Wi Fiの電波は拾うのだが、ブログを開くパワーも無く諦めた。
久しぶりに充電が出来たので懐かしい演歌など聴きながらビールの良いも手伝って寝てしまった。

夕食の時にダイニングに行くとサンマの缶詰のOさんがいた。
かれは相変わらず金髪娘グループ(毎回違う)と楽しそうにしていたので自分は一人でチーズスパゲッティーを食べた。
塩気の利いたヤクのチーズが美味かった。

Rajuが明日の朝ヒンドゥーの寺を見に行こうと誘った。
一度見て知っていたのでそれほど乗り気ではなかったが、明日は気楽な下り道と言う事で少し早起きしてつき合う事にした。

8時就寝
ホテルと言うだけ有ってシーツも毛布もきれいだった。







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朝の独り言(雑談)

2015-12-17 08:58:12 | 日記的雑談
冬になりましたね。。。
やっと、と言う感じで冬ですね・・・色んな事で冬を感じますが、電線が唸る音は心に沁みて冬を感じます。

朝っぱらからナニなんですが・・・金の無心が来まして、気が重い訳です。
いや、予期せぬ方角から・・・我が家から見て南南西、東経125度 北緯10度の方向から飛んで来た・・・予期せぬ、は嘘だな。
自分で巻いた種で、枯らそうが忘りた振りをしようがドーにでも出来るんだが、それが出来ない・・・まっ、して良いのかと言う道義的な観点から行けば今の方向が「立派」と言えるんだが・・・困っているのは、金が無いからに他ならず、と。

いや、話せば長い事なんでアレなんだが、と、言いつつかいつまんで書く訳だけれども。
まっ、フィリピンに昔の縁で、袖摺り合ったり肌摺り合ったりした人が少なからずいて、若気の至りで面倒を見始めたのが後の祭り・・・そう、アッチにいた頃は毎日が祭りだったなぁ~・・・そして、祭りの山車は、今となっては火の車、と。

そんな訳で、色々あって小さい子供の面倒を見始まった訳なんだけれども、子供は普通のしておいても育っちまって大きく成る訳です・・・チワワみたいに何時までも小さかったら楽だったんでしょうけれども、日本にも子を持つ親のくせに、フィリピン人の子供も大きくなるとは想像付かなかったと言う間抜けでありました。

で、大きくなった子供たちは・・・あぁ、その前に、小学校や高校までは支援しても公的なアレで義務教育なんで、大した金にはならないんですけれども、これが生意気に大学に行きたいとか言い出す始末でして・・・あぁ、中学が無いんで大学(安いのはカレッジ)が日本の高校の年齢なんであります・・・なので15~16歳で入学して20歳くらいで卒業してきます・・・今は世界標準に変えようとしてナニなんだそうで、その事情は自分も良く判っていないんですが。
で、大学となると、ナンボ物価の安いフィリピンでも一番安い大学の金のかからないコースで、お一人様ナンだカンだで10万円位はかかる訳です・・・年額ですから日本的感覚では屁のような物ですけれども、最早無職の身となった自分には小さく無い額な訳です・・・それが、今年は一人だったんですけれども、来年は三人に増えると言う・・・私しゃそんなに子宝に恵まれた記憶は微塵も無いんでありますが・・・どー言う訳か自分を「チャン」と呼ぶガキが増えちまった訳です。
しかも、時々減ったり増えたりするから不思議です・・・いや、私しゃ基金を組んで門戸を開いて活動している訳でもなんでもなく、密かに個人的に贖罪のつもりでやっていたんですけれども・・・類が伴を呼んで来るんですかね? まっ、そのへんの事情はナニなんでアレしますが。

何度か思ったんでスゼ・・・逃げようかなぁ~ 逃げるの止そをかなぁ~ なんてね。
で、逃げを打った事も有ったんですが、金を毟られる辛さよりも、どうなっちまっているのか?の心配心の方が勝っちまって、ついつい連絡を取ってしまう訳です。

いや、繋がりは携帯電話の番号だけなんでこれを変えちまえば一件落着・・・ナンですけれども、それが出来ない気の弱さ。

まっ、いいでしょう・・・ナンだカンだ言いながら若気の至りで悪行三昧をアジアのあちこちでした贖罪として、耐えられる間は毟られてみようと。

でもね、メールで送って来る訳です・・・あの国では小さなイベントや試験の度に表彰と言いますかメダルを出すんですね。
そうすると、ナンなんですかね? 能天気の固まりでありがとうと言う言葉は滅多に聞けないフィリピン人でも感謝みたいな気持ちはあるんですかね?
一生懸命勉強して一等賞になったと、メダルの写真など送って来る訳です。
そうすると、そっかぁ~頑張ったんだな、ンじゃぁご褒美に新しい靴だな、とか、乗せられちまう訳です。
まっ、その娘は私と深い仲だった女性の子供なんですけれども、でも、ホントの子ではない訳です・・・いや、まっ、そんな事はドーでも良いんですけれども、フィリピンでは兄弟五人父ちゃんは全部違うなんてのが希に普通にありますから父ちゃんが日本人だなんてのは誰も驚かないんでナニなんですが・・・学校の保証人とか確認書類に父ちゃんと書かなくちゃならない時にはドーしたもんか、悩みます。
それは、日本で普通に家庭を持っている身として、もうとっくにその手の悪い事はしてないんですけれども過去の経緯などから「背徳」の気配が拭い切れない訳であります。

で、何を書いていたのか忘れちまって支離滅裂なんですけれども、アレです・・・現実的に自分が何をして来たのか、で、その因果関係の正当性を持ってして「責任」とか考えると、とても非情な結果になると思う訳です。
で、子供らが本気かドーかは知りませんが自分を「チャン」と呼ぶと言う事は、現実としてそんな子供らがいる訳なんで、それらの父親は俺じゃない・・・と、切り捨てても、私には後悔やら慚愧の思いに苛まれ、子供らは将来への希望を絶たれ悲しみに暮れると思う訳です。
と、言う事で・・・日本の家族には、状況説明をして理解を求めるよりも知らせずに穏便を装うのが得策で、それが逆に優しさでもあると・・・詭弁か? まっ、いいでしょう。
で、フィリピンに対しては、これ以上子供が増えない事を祈りつつ、やせ細る一方の臑を齧らせてみる・・・これが自分として撮りうる最善策・・・我が苦しまなくて済む道と思う次第であります。

なので、資金的にアレなんで、寄付など募ると面倒なんで来年から草刈りの仕事をしようと思っている訳であります。

まっ、大概の人はこの戯れ言を最後まで読む気にもならないとは思いますが、本気で人と向き合うって、逃げられなくなりますね。
それって、縁だと思うんですよ。
で、仏教の方では「因果」と言うのを盛んに言う訳でして、言葉を変えると「縁」とも言えるんだそうです。
で、自分の事を振り返ると・・・私の父ちゃんは無類のスケベであったと母ちゃんが言う訳です。
で、英語やら満州語やら堪能で、外地でスケベの限りを尽くした人だと、何かの折に聞かされた訳です。
で、自分がアジアの地で極悪非道の所行に走ったのは「血」であったかと思いつつも、我が父ちゃんのスケベな所行が既に因としてあり、我が人生に置いて「果」を結びつつあると・・・いや、笑いなさんなよ、皆様、どんな因でどんな果が出るかはお釈迦様でも分らないと宣っております・・・なんたって、因縁の始まりは宇宙の規模まで広がっちまうらしいんで・・・と、言う事で、この話しは忘れて下さい、と。



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