11月26~28日 カトマンズ~ニガリへ
8時30分、Rajuが迎えに来たので出発。
ホテルのあるタメル地区から徒歩で30分ほどでシティーバスパーク到着。
中継地のバネパ行きの乗り合いバスに乗る。
9時00出発。
バスに乗ったときは大した込み具合とは思わなかったが、走り出してバス停に停まる度に乗客が増え、そのうち立っている客は身動きが取れなくなるほどに詰め込まれた。
当然バスの屋根にも乗客が溢れている。
10時30分 バネパ着
バネパでバスを降りて乗り換えるのは分っていたが、段取りの説明が無くどうしていれば良いのか困った。
Rajuとの会話は英語だったがあまり良くは通じなかった。
それで随分と行き違いが有ったのだが、まっ、着いて来てしまった以上は仕方が無い。
着いて歩けばRajuの家には辿り着くだろうと詳細を知ることは諦めた。
結局バスターミナルの傍の茶店で2時間近くも座ったままだった。
Rajuは地元なので知り合いがたくさん居て彼らと話しをしていた。
こんなことならビールの一杯も引っ掛けたのに、と、思ったが、嫌みを言っても感じないので黙っていた。

バスターミナルの近くの二階の茶店からバネパの街角

ビルの三階からバネパの街の遠景

TATAの四輪駆動トラックの乗り合いジープ
1時半頃になりRajuが腰を上げ汚い小型トラックまで歩いてこれに乗ると言った。
バネパの街から30分も走ると舗装道路から脇道に入った。
そこから先はかつて経験したことが無いほどの悪路で、時には水の流れる川を走って行った。
アンナプルナサーキットのジープロードがハイウェイに思えるほどで、四輪駆動トラックは常にEXローでしか登れない道だった。
初めのうちは座っていた乗客が飛び跳ねる車で尻を打つのに耐え切れず全員立ち上がった。
2時間ほどで車が停まりRajuと自分だけが降りた。
他の乗客は登って行くのでは無く、下に見える集落に下って行くのだった。

ニガリ村の中心地は徒歩30分ほど下の集落
Rajuは2時間ほど歩く、と言っていたのだが、家迄2時間かかると言うことだったのだろう。
ジープを降りて10分も歩いたらRajuの家だった。
4軒の家が集まった集落は全員が親戚だそうだ。

Rajuの家からの眺めは絶景だった
周囲は森林で目の前には一面菜の花畑が広がっていたのでRajuが言うほど高い所ではないと思いつつ手元の高度計を見ると2000mだった。
Rajuは3800mとか言っていたのだが、高いと寒いし寝付きも悪くなるので間違いで良かった。
棚田風に見えるのはすべて菜の花畑で、この一帯は菜種油の産地なのだとか。
草が豊富だからか、ヤギと乳牛が多く飼われていて、ネパールの農村としては豊かな雰囲気の村だった。

Rajuの家 中は土間だが靴は脱いで入る

入って右側が竃 左側が鶏とヤギの寝床 二階が寝室
家は石積みで壁は泥で固められていた。
床は土間で、二階の寝室も床は土間だった。
日本でも竃は土間にあるし、寒い地方では土間の脇に鶏や牛馬の部屋や寝床が設けられるのは普通だったが二階の床が土間と言うのは驚きだった。
板の上にわざわざ泥を塗ったのは何故なのか?と、想像してみた。
それは竃の煙対策ではないかと思うのだ。
竃からの煙の凄まじさは知らない人の想像を遥かに超える。
何でもかんでも煙で燻して煤だらけ脂だらけにしてしまうのだ。
そして、煙は少しの隙間からでも侵入するので泥で密閉しない限り二階の部屋は薫製部屋になってしまい使い物にならない・・・この推理はどーだろうか?恐らく当たりだと思うのだが。

Rajuのお母さんが牛の乳を搾っていた
Rajuの家には数え切れないほどの鶏とヤギ5頭と乳牛2頭と水牛3頭と蜜蜂も飼っていた。
しかし、鶏一羽とヤギ一頭は私のために絞められたのだが。

奥の土壁の建物は牛舎

日没前、放し飼いの鶏が戻って来る 夜は籠に入れる

Rajuの従兄弟の少年が晩飯用の鶏を絞めた
私を歓迎する晩餐はチキンカレーに決まっていたらしく、夕暮れ時、少年が鳥籠に手を突っ込んで大きな雌鳥を引っ張り出し、首をチョン切って絞めた。
そして、鍋に沸いたお湯で手際よく羽根を抜き下準備をした。
アジアの子供は男女を問わず誰でも出来るが、この少年はとくに上手だった。

Rajuママがチキンカレーのダルバートを料理した
ダルバートは美味かった。
庭を駆け回り地面を掘ってはミミズや虫など食べている地鶏は筋肉質で歯ごたえが有り美味かった。
地鶏は硬いと言うけれども歳をとって硬くなった鶏とは違って弾力があるのだ。
だから、じっくりと噛んで食べるほど余計に美味いのだ。

鶏肉のカレーと煮豆のダルバート 美味でした
私は自前で持ち込んだビールをやりながら鶏をしゃぶった。
一筋の肉も付いていない鶏の骨を見てRaju父さんが「犬が可哀想だな」と言った。
日本では鶏の骨は縦に裂けるので犬にやらないなどと言うけれど、今迄鶏の骨を喉に刺した間抜けな犬は見たことが無い。
人間が食べ終わる頃合いを見計らって犬が土間に入って来て伏せていた。
骨を投げて貰うのを待っているのだが、気配を消して静かに待つのだった。
Raju宅には二泊お世話になって、翌日の晩餐はヤギの肉のダルバートと、地酒のチャンとロキシーを強かに呑んで騒いだ。
Rajuパパがネパール民謡を歌ったので自分は郷土の「大漁唄い込み」で返した。
一つ気になったのは、Rajuがどう言うつもりで家に招待したのかが読めなくて、どんなタイミングで幾ら出せば良いのか計りかねた事だった。
Rajuとの会話では Invite you だったのでご招待だと思って気楽にやって来たのだが、帰り道では殆ど口をきかず不機嫌なRajuの様子を見ると、何かが不満だったんだろうな、としか思えなかったのだ。
昨年も一昨年も、トレッキングやクライミングが終わると、ドルジもラムさんも自分を家に招待して御馳走してくれた。
ドルジなどはこれでもかと言うほどに酒も用意して歓待してくれた。
その時、ドルジの家迄のタクシー代もドルジが払ったし、ラムさんも招待だから、と、金銭的な事は何も言わなかった。
ドルジは、トレッキングやクライミングのガイドは旅の後にはゲストを家に招待するのが習わしなのだと言っていた。
そんな事が有ったので自分は金など払ったら逆に失礼だろうと思い控えていたのだが、どうもそう言う事では無かったのかも知れない。
二日目、暇を持て余して近くの丘に登った時、放し飼いになっていたヤギを見て、ぼそっと、あれ一頭7000Rsなんだ、と言ったは、夜に食べたヤギの請求だったのだろうかと、今にして思うのだが・・・まっ、一番高かったジープ代とビール代は自分が払ったと言う事で、不足だとは思っていないんですけれども。

笑顔の無い記念写真
招かれざる客であったのかと言う少し気まずい思いを残したままRaju宅を後にした。
帰り道はジープで上って来た道を3時間かけて歩いて下った。
無口に早足で歩くRajuを無視してマイペースで下り、時々見え無くなっていたがどうせ一本道だろうと気にせずに歩いた。
3時間ほどで幹線道路に出た。
しかし中々バスが来なくて1時間以上も道端で待って乗り合いトラックに乗った。
バネパでは街外れで降ろされ散々歩き、カトマンズ行きだと思って乗ったバスは空港の傍で降りる羽目なりまた乗り換えた。
バネパを8時に出てカトマンズのHANA HOTELに着いたのは既に4時を過ぎていた。
身体的よりも精神的に疲れたネパール国ネワール族の家ホームスティだったが、これは得難い体験であった事は間違いなく、Rajuには感謝でありました。
ヤギの晩餐 特別編へつづく