ブログ仙岩

各紙のコラムや報道番組、読書の感想、カメラ自然探索など。

今朝未明日本海軍が真珠湾軍港へ奇襲攻撃

2013-12-08 11:05:04 | 日記
72年前の1941年12月8日未明、日本海軍はハワイ真珠湾軍港へ奇襲攻撃、太平洋戦争が始まった。

今朝4時から「明日へのことば」残しておきたい空襲・戦災を記録するか会の藤本文昭氏のトークを聞いた。動機は今治高での藤本先生の授業で戦争犠牲者の名簿を見た生徒からの質問で調査が始まったという。

米国から石油がストップされ奇襲攻撃を仕掛けた日本からの見方だけでなく、相手のアメリカからの意見も聞くことにより、より正確な記録になると思い、まずハワイやアメリカ本国の今治攻撃者に会いお話を聞き、命令どうり実行しただけ、自分の意見はなく相手のことを考えもせず実行に安どしていたが、今治の高校生に会って、身内に犠牲者がいないことを知り胸をなでおろしたという。

また、聞き取り調査で、日本に一番近いハワイのニイハウ島事件を知り、真珠湾奇襲攻撃で、ニイハウ島に不時着原住民に銃と書類を奪われた西開地一飛曹を匿い反逆行為の汚名の日系梅乃の3人の息子は語らず、本国の孫の子から3年かかって祖母の話を聞いたことを話してくれた。収監を解かれた祖母は奇襲攻撃も知らず困った日本人を人道的に助けたのであり、むしろ良いことをしたと思うと答えたという。

年明けて擁子の作文が取り持つ伍長と再会

2013-12-08 09:26:20 | 日記
擁子たちが1945年7月末に逃避行開始して、9月に朝鮮を脱出、博多避難所に1か月いて、11月から京都で生活、倉庫の2階で5か月ぶりで暖かいネギの味噌汁を頂いた。

年明けて1946年の正月、姉好と擁子の姉妹は姉は紅白のお餅を妹に、妹はぼろ靴を買う貯めたお金で急須でお茶をプレゼントして祝った。ある朝通学の線路沿いに新聞を見つけ拾って読むと、作文募集の記事が目に留まり、2月末締め切りに「理解すること」で応募、見事女子学生部門一位に1万円の賞金を獲得した。

その新聞を見た岩手で絹織物業の松村伍長が京都のホテルから学校に手紙を擁子宛てに届けた。
「川島擁子様、自分は今、知っていた女の子に手紙を書いているのかどうか分かりませんが、新聞であなたの作文を読んだ後、あなたの名前の擁子という漢字を思い出し・・・入院中に会った女の子でしたら返事ください。葉書を同封します。松村」ここまで読んで私も涙しました。

ゴミあさりぼろ人形といじわるされての批判の作文で良く思われていないこともあり、校長の開封した手紙にも反発したが、ホテルへ返信して学校で伍長と再会、倉庫の2階で姉の好とも再会、擁子の書いた「武運長久」を岩手の会社の額に飾っていると。駅で見送る時、時計のないことに気づいていた伍長が発車間際に腕時計を擁子に手渡した。